姥桜という言葉がある。昔TVで耳にした。24,5歳の女性を指すそうだ。これには驚いた。24,5歳と言えば、学生をやっている人も多い。それがすでに「姥」というのであるから、女性は何と老けるのが早く、美的価値は10代でなくなるような言い方ではないか。
童謡にあるように、女性は15歳で嫁に行った時代もあった。人生が50代で終わっていた頃だ。それが今は男女とも30年寿命が延びた。となると、女性が結婚する適齢期は45かとなると、その年齢では初産には遅い。この初産の年齢が上昇し、健康な赤ちゃんを産めなくなる心配をする女性が増えている。筆者が家内と暮らすようになった時、最初の数年は子どもがほしくなかった。だが、女性の初産の年齢が30を越えるとまずいことを知っていたので、どうにかその時までにと考えてそうした。男女は体の構造が違う。いくら男女平等とはいえ、何事も同じでよいことはない。女性には体の構造にしたがった、行動の適齢期がある。制約といってもよい。そういう思いが昔からあって、結婚適齢期を過ぎて間もない頃の美しい女性を「姥桜」と呼んだのかもしれない。今、24,5歳の女性を「姥桜」と呼ぶのは、寿命が延びた分、適切ではないかと言えば、筆者はそうは思わない。女性は化粧で大いに化ける。その化粧がますます巧みになって来てはいるが、髪をひっ詰めてキモノでも着れば、24,5歳の女性は、昔のその年齢の女性と同じく一気に大人びて見えるはずだ。キモノは年齢をごまかせないと言う。そのとおりだと思う。そして、24,5歳のキモノ姿の女性は、年齢相応に見えながら、それはそれでとても美しい。まさに「姥桜」で、かわい子ぶる一種の醜さからは遠くなる。24,5歳が「姥桜」であるからには、やはりその頃には結婚して子どもを産むのが理想と思うが、大学進学率が上昇し、いつまでも勉強して家庭に収まる機会がないか、その気もない。男女平等から男性が仕事で活躍する場所が減り、男が家族を養いにくくなっていることもその原因だ。だが、共働きでもどうにか家庭が維持出来ればいいではないか。筆者はそう思うが、妻が夫より収入がよく、しかも夫が家事や子育てを手伝わないことに矛盾を感じて離婚に及ぶ夫婦が少なくない。そして母子家庭が増え、その生活援助のために社会が問題を抱え、回り回って国庫の疲弊につながり、そして昨夜書いたように、経済的には世界の優等国の仲間から脱落する。その原因が、高齢化と男女平等にあると言えば、猛攻撃を受けるに決まっているが、物事は数十年から100年以上遡って考察してみるべきで、かつていいと思っていたことが、いつかは反対に働くことを自覚しておいた方がよい。

今朝のネット・ニュースに山本太郎が一般企業に入社した話題があった。収入は10分の1に減ったのに忙しさは20倍になったそうだ。また本人は芸能活動を続け、6,70代にブレイクすると信じている。30年先を見据えて今行動しようということだ。見上げた態度ではないか。昨夜は「老い」や「死」の暗い話題に終始したが、その世代になってこそ最大最良の仕事をしてやろうと考えるのは、大器晩成を目指す大物の風格がある。収入が10分の1に減っても、食べて行くことが出来ればいい。筆者の周りに、「○○は偉い」という誉め言葉をよく吐く人がある。その「偉い」の理由は、金儲けしているからだ。それをそばで聞くたびに、筆者は内心『何が偉いもんか。』と反発するが、目上の人でもあるし、黙って聞く。その人から見れば、筆者は社会からの脱落者であり、家内に会うたびに、「どこがよくて結婚したんや?」と真顔で訊く。男は金儲けするのが一番偉く、そうでないものは、「妻を困らせている点で男とは言えない」という考えだ。金儲けして偉いと言われても、せいぜい小企業の社長並み、その程度の年収を稼ぐ者ならば無数にいる。それを指摘すれば、「ではお前はそれだけの金を儲けられるのか」ということになるので、筆者は黙っている。5000円札に樋口一葉が描かれている。お札に登場する有名人が金持ちであったか。樋口一葉は、窮乏生活が祟って若死にした。金とは無縁の生涯であったその人の顔をお札に印刷して称えることは、金儲けする人間を偉いと思ってはいけないことをまだ日本は示している。ところが、金持ちほど、まともにそういうことを考えたことがない。「樋口一葉? 誰、それ?」と思う。山本太郎は芸能人であるので、お札に肖像が採用されることはないが、収入が激減しても、将来大きな仕事をするためには生き延びて行かねばならず、一般企業への入社を決めた。30年ほど経てば日本がもう少し変わる、また変えて行かねばならないという期待があるのだろう。そういう人物が偉いのではないか。30年後は筆者は生きていないが、今の若者が大器になっている姿を想像するのは楽しい。日本の芸能界は今はほとんど若い女性の使い捨てが繰り返されているように見える。「姥桜」の年齢はまさに姥であり、10代のまだ知識も知恵もないような女子を舞台に乗せてもてはやす。そんな御時世に、6,70代でブレイクしてやろうと心に決めるのは、山本が「姥桜」といった形容とは無縁の男であるからとも言える。だが、実際は女性も同じだ。「婆桜」のような6,70代がもっと目立つことが必要だ。若い女性を賛美することはそれなりに理解出来るが、若い時のかわいさからいつまでも脱皮しようとせず、化粧の厚さだけ人一倍で、知識や教養とは無縁の女性を見ると、正直ぞっとする。

今日は本物の桜の写真を載せる。また、題名を去年同様、「今年の桜」とする。これでは去年と紛らわしいので、去年の続きとして「その11」にする。去年はわざわざ花見に行ったので、
「その10」まで続けることが出来た。今年はさしてどこにも行かずで、明日の投稿で済ますつもりだ。だが、さきほど急に電話があり、明日清水寺に行く必要が生じた。カメラを持参するので、最後の桜を撮影して来るかもしれない。桜の話題はまだ花がどうにか咲いている時に限るが、昨日のニュースで東北の桜が開花し始めたことを伝えていたので、まだ桜の話題はOKだろう。ところで、渡月橋北の商店街を先日家内と歩いた時に造花の桜を2,3枚撮ったのに、どれも写っていなかった。そのうちの1枚は、造花の向こうに本物の桜が見える角度であった。その賑やかな写真を今日の最初に載せることで、昨日の造花の桜から本物の桜の話題にバトン・タッチしたかったのに、その思惑が外れた。それはともかく、今日の最初は一昨日の一枚目を撮った後、同じ堀川通り沿いで見かけた。2月25日というのに、もう桜が出荷されていた。温度調節をしてそのように早咲きさせるのだろう。この桜の切花はガレージの中にあって、向こうの部屋から数人の男女の笑い声が聞こえていたので、その人たちが出て来ない間にさっさと撮った。2枚目は昨日のものだ。自治会の配り物をした後、一旦自宅に戻ってカメラを手にして法輪寺に行った。観光客が少なく、また桜がきれいであったからだ。配り物で出かける際にカメラを持とうかと思ったのに、それをしなかったが、迷った時はやはり持って出るべきだ。それをよく知っているのに、この年齢になっても相変わらず同じ間違いをして成長がない。「獣魂碑」については先日触れたが、この2枚目の写真の桜はその石碑のすぐ背後にある。散り染めながら、まだ充分花がついて部分をトリミングした。また、椿をあえて収めた。チューリップと桜は似合わないが、椿はよい。3枚目は14日の午前に撮った。松尾橋に近い民家だ。老木の根元に花が蒔絵のように散っている。誰も足を踏み入れないので、その自然な散り具合が汚されていない。ちょうど雪がうっすら積もったのと似ている。桜はこのように散った状態もよい。この散った様子は、「姥桜」や「婆桜」ではなく、いわば「死に桜」とでも言うにふさわしいが、これほど見事な様子を見せるには、樹齢が半世紀以上経たものでなければならない。大器晩成にはそれなりのよさ、見所があるということだ。今60の筆者が、「老い」や「死」を話題にするのはおかしなことだ。山本太郎を見習ってこれからいい仕事をするつもりにならねばならない。