尾辻克彦という文学用のペンネームではなく、赤瀬川源平の名前で出版されたと思うが、『老人力』という本が10数年前にはやった。今調べると1998年の流行語大賞を受けている。
近年赤瀬川の顔をTVでほとんど見なくなったのは、『老人力』に続くヒットがないからか。「老人」を持ち出してすっかり本物の老人になった後は、何を押し出せるかとなると、「死」しかない。「死人力」は、ひょっとすればそういう題名の本がすでに出ているかもしれない。それはともかく、誰でも老人に常に向かっているから、今改めて『老人力』を読んでみるのはいいかもしれない。そう言えば去年の正月過ぎに、100円の古本で『老人力』を買った。一度斜め読みしてそれっきりになった。もう数年すればじっくり読む気になるだろうか。あるいは老人も時代によって考えや扱われ方が当然違うから、これからの老人には『老人力』に書いてあることが全面的に参考にはならないだろう。それもさておき。老人が嫌われるのは、話が長いこと、同じことを何度も言うこと、それに息や体が臭いことなどいろいろある。筆者はみんな当てはまりそうだ。特に思うのが、このブログでもわかるように、話が長いことと、同じことを何度も言うことだ。昨日に続いて今日も造花の桜の写真を載せることもそうと言える。誰でも時間は貴重であるから、よほどの有名な老人でない限り、じっと話を聞く気になれない。老人はそれを知っているので、なおさら話せる相手を見つけると、長くしゃべってしまう。相手が飽き飽きしていることに気づいて気を利かせればいいが、老人は長年の間に自分本位が本意となっているから、気づいていても知らぬ顔で自分を押し通す。それでまた嫌われる。そして、そのようにして嫌われていることを知っているのに、態度を改めない。そしてますます頑なになる。周囲を見わたせば、必ずそういう老人のひとりやふたりいることに気づくはずだ。そして、いつの間にか、老人を鬱陶しいと思っている人もそうなるから面白い。先日金目当てで男性3人を練炭で自殺に見せかけた女性の裁判があって、死刑を言いわたされたが、3人のうち80代半ばで死んだ人の顔写真がTVではいつも40代ほどの、そこそこ格好よく見える写真が使われる。その笑顔の写真を見ながら、80代半ばの死んだ頃の顔を想像してしまう。どのように皺が増え、痩せ細り、頑固そうになったか……。

そういう老人が日本ではそれこそ未曾有にも造花、いや増加しつつある。長寿は幸福の最大のものといった思いが人にはあるが、病気をせず、常に桜満開の気分で元気であればの話で、薬漬けや入院状態で長生きしても楽しいだろうか。老人が増えて医療費が国政を圧迫し、日本が21世紀半ばには世界の大国の仲間から脱落するという予想が今日のネット・ニュースにあった。これでは長寿がいいとばかりは言っておれないのではないか。あるいは、国がどうなっても、個人が尊重されるのがまず大切という個人主義が戦後の日本ではこれまた未曾有にも発達したのだろう。日本が経済的に三流になっても、全員がそこそこ豊かさを実感出来ているのであればいいが、そうなっている保証はない。若者に仕事がなく、それでいて老費とは長命で年金もたくさんもらうとなれば、若者が老人を疎ましく思っても仕方のないところがある。目上を大切に、老人には優しくといった、儒教精神的なものは学校でも教えず、家庭でも実感出来ない。三流国になる前に、若者はさっさと老人から剥ぎ取れるものは剥ぎ取って、厄介者扱いするのではないか。そこでいくら若者もやがて老人になると言っても、今が大事と思う若者は、数十年先のことなど考えない。国民年金がそのいい例だ。年金がなくても生活保護にかかった方がよほどいい生活が出来るのであれば、誰も年金の掛け金を支払わない。だが、その将来において、生活保護が現在のように機能しているとは限らない。となれば、金のない者はさっさと餓死でもしろということになる。あるいはそれはもったいないので、臓器移植に徹底的に利用される契約書にサインをさせられる。だが、誰も老人の古びた臓器などほしくないか。人工臓器がもっと発達しているはずだが、本物そっくりに桜を造花するのとは違う。

数年前、TV番組で、猪瀬直樹が在日の外国人たちと話す番組があった。そこで韓国の留学生だったと思うが、ある女性が猪瀬に、『韓国はいつか日本を追い越します』と言った。すると、猪瀬は表情を変えずに、『無理です。人口が全然違いますから。』と返答した。その時筆者は、「人口が多ければ、いつまでも経済的な豊かさを維持出来るのか」と疑問に思った。韓国も日本と同様、老人が急増していると聞くが、今日のネット・ニュースでは、数十年後に日本は韓国に経済的に追い抜かれるとの予想があった。猪瀬の意見が正しいのか、今日のニュースが正しいのか、2,30年経ってみないことにはわからない。だが、老人問題は猪瀬の考えに含まれていたのだろうか。今後日本は老人の割合がかつて経験したことのないほどに増える。そして、長生きして医療費をどんどん使い、国力が落ちるのであれば、老人はますます肩身が狭くなる。姥捨て山を残酷で無慈悲と思うのは、豊かさがあたりまえになっているからで、食べ物を奪い合うような状態になれば、老人は自ら消えることを期待するし、世間もそれを暗黙のうちに当然と思う。いやいや、老人もさまざまだ。いつまでも若者を抑え込む力や威力を持つ者がいるだろう。「いい加減に引退してもらわねば自分たちの出番がない」と、若者たちが思っていることをよそに、自分が世界を牛耳っているように錯覚する。これは政治家を思って書いている。橋下市長の人気が高いのは、その意見もあるが、とにかく若いからではないか。政治家に定年制を設ける話が何度か出て、そのたびに消えているのは、老人になったからといって能力が衰えるとは限らないという理由からだ。どんな能力が衰えないというのだろう。造花の桜でさえも、数年もそのままでは汚れて見る影がなくなる。

「老い」への恐怖はまだ思わず、「老い」の難儀さを漠然と予想している。筆者はまだ難儀な老いを抱える年齢ではないし、薬は風邪用でさえも数年に一度程度しか飲まず、全くの病気知らずだ。このままの調子では長生きしそうだが、その長生きが、本当にいいかどうかをここ1,2年はよく思う。ま、こうした「老い」や「死」の話題をよくブログに書くこと自体、老化の証拠で、嫌われる理由であることはよく知っているし、読んでいる人の顔がほぼ全く見えないブログであっても、読んで楽しい内容にしたい。なので、なるべく心が暗くなるようなことは書きたくない。「老い」や「死」は避けられない普遍的な問題だ。であるからこそ、人はそれをあまり意識せず、普段は忘れていたい。「老い」は「まだ生きている」のであるから、「生」には違いないが、もうすぐ「死」が来るということにおいて、「生」が少なく「死」が多い。それで、常に「生」に溢れている世間は、「生」を目立たせ、「老い」や「死」をなるべく見えないようにするか、さっさと片づける。そういうあたりまえの世間に、「老人」と「力」をくっつけたのであるから、『老人力』は老人と、老人に一歩手前の人に勇気を与えた。老いの境地を明るく過ごそうという思いに溢れている。そのように、老人になれば、世間的にも、『自分は明るい気持ちで生きていますよ』と意思表示せねばならないようで、これも難儀ではないか。つまり、ふてくされては嫌われるし、若者や世間に気を使えば疲れる。気を使わないのが一番楽で、嫌われようが、避けられようが、無視されようが、いじわるをしてやるのがよさそうだ。『おじいちゃんはくどいし臭いし、嫌い』と孫から言われてまごまごする老人は少なくない。そんな時、『お前もすぐに同じようになるわい!』と言って頭をポカンと殴ってやればいい。いや、結婚しない若者が増え、孫の顔を見られない人が今後は珍しくなくなる。そうなれば老人は難儀な思いをどこにぶつければいいか。昨日書いたように、スーパーの休憩所に居座り、終日ぼけっとしているしかないか。その窓の外には、「街中のさびしい桜」こと造花の桜が見えていたりして……。今日の4枚は、上から3枚が4月7日、この下のものが今日の撮影だ。7日の1枚目は京都の北大路車庫、2枚目は四条寺町上るのお好み焼き屋「ミスター・ヤングメン」の前で、久しぶりに家内と入った。いつものごくと満員で、半分が欧米人の客であった。3枚目は四条京極、最後は法輪寺のすぐ前の民家で、去年は
反対の向きから撮った写真を載せた。造花桜の投稿は今日で終わる。