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●脳内地図の道路
許を取ればいいのにといまだに家内が言う。家内は、60歳で車の免許を取り、80代半ばまで仕事をした人をよく知っている。



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それもあって、筆者も今から車に乗るようになれば25年は便利に暮らすことが出来ると思っているらしい。駐車場は2台分持っているのに、この1年数か月借りてもらっていたKさんがまた東京で勤務するので、空き地のままとなる。先日固定資産税の納入書が届き、その年間に支払う幾分かはこの空き地状態の駐車場だ。それを思うと、また誰かに借りてほしいが、観光で嵐山にやって来て無断で停めようとするとんでもない若者はいても、借り手はなかなか見つからない。いっそのことコンクリートを剥がし、畑にしようかと思わないでもない。住宅地として書類には記載されているから、ちょっとした小屋程度のものなら建つ面積があるので、書庫にしてもいいかと思わないでもない。ま、それはいつもの妄想に終わる。車の免許は今後も取るつもりがないが、何かの拍子に田舎で住むことになれば、車に乗る必要がある。そうなればそうなった時のことだ。必要に迫られて取ればいい話だ。さて、今夜も昨夜同様、加工しないままヤフー・フォトに保管していた古い写真を使う。いつか載せようと思いながら、半年ほど経ってしまった。いつ撮ったものだろう。妹の車に乗って八尾にある空き家に行く必要が去年の秋に二度あった。二回とも同じ道を走った。最初に行った時、京都南部の久御山の高速道路の立体交差に差し掛かった時、電車の中からの遠目にはよく見ていたその威容に驚いた。カメラを持って来ればよかったと悔いたので、二度目はそうして写真を撮った。ただし、最初に見た時に印象に刻んだ撮影個所は、あっと言う間に通過し、思ったほどのいい写真は得られなかった。それもあって加工せず、ブログでも紹介する気が起こらなかったところがある。シャッター速度の速いカメラならまだしも、筆者が所有するのは隣家を買った時に備品としてあった10年かもう少し前の安物で、今では同類のものを使っている人を見かけない。ケータイ電話のカメラの方がまだ画質も性能もよい。ともかく、妹の運転する車の中で立体交差の500メートルほど手前からシャッター・チャンスを待ちながら、また接近したところでシャッターを押しながら、その反応が鈍く、思った角度で写すことは出来なかった。それでも何層にもなった道路はわかるだろう。4枚撮ったうちの使える3枚を加工して掲げる。さきほどその立体交差の地図をヤフーからダウンロードして加工した。その画像の上端中央から200メートルほど北から最初に撮り、3枚目は最下端あたりで撮った。この立体交差を上空から見た様子の地図は、昨日掲げた蓮の葉の写真を思わせる、。また1963年に発売された「名神高速道路開通記念」の10円切手のデザインも想起させる。その頃家内は10歳であったが、義姉の夫が車好きで、家内を初め兄弟姉妹を乗せて名神を走り、大阪まで何度か連れて行ってくれたらしい。開通した当時、車はまだまだ少なく、快適であったろう。そういう記憶を持つ家内であるので、筆者に免許を取らせ、その横に座ってドライヴをしたいのに違いない。そんなに車を運転したければ、家内が取ればいい。筆者より注意深いし、運動神経はいいだろう。
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 昨夜のブログの最初に書いた就寝云々だが、そう書きながら、その後は思っていたこととは違う方向に話が進んだ。筆者は暴走癖がある。そういう気性では車の運転は危ない。歩いていても、余所見してよく電柱などにぶつかりそうになる。車でも同じことをするに違いない。ともかく、昨日の投稿の最初で思っていたことは、「今夜こそ日が変わらないうちに投稿を済まし、早く寝よう」であった。どうでもいいことだが、昨日の投稿は、11時59分に済ました。このブログは、日づけが変わってから投稿する場合、投稿日時を戻して、前日の11時59分にすることを慣わしとしている。昨夜はそれをしなくて済んだが、投稿が11時59分であったことは、どっち道同じことだ。今夜こそ日づけが変わる前に済ましたい。後1時間ほどあるので、投稿写真枚数にふさわしい段落数まで書くことが出来るだろう。さて、妹は車の免許を取って35年ほどになる。専用の車を持っていて、ベンツを赤や白と乗り換えている。貧乏な筆者は免許を取ってもせいぜい100万少々の軽で我慢するしかないが、家内とふたりならそれで充分だろう。それはそうと、車があれば行動範囲が広がるのは確かだ。車でなければ不便な場所にある美術館がいくつかある。いい企画展をしていても、電車やバスを乗り継いで行く気にはなれない。交通費だけでも数千円以上、しかも電車の本数が少なく、早朝に家を出て帰宅は夜になる。それが車ならば2時間ほどで到着する。車社会を見越して、地方では美術館を建てている。そうした田舎では、車を持たない家庭はほぼゼロではないか。田舎ほど車の所有率は高いに違いない。美術館に行くためだけに免許を取り、車を所有するのはもったいないし、また面倒だ。それで行きたいと思いながら見逃す地方の展覧会がよくある。車を持っている誰かに乗せて行ってもらえばいいが、筆者の周囲には美術に関心を持つ者はひとりもいない。人さまざまで、頭の中は、生まれた時は真っ白でも、成長するにしたがって独自の興味地図が構成される。それはひとつとして同じものがない。それでもおおまかにはグループ分けすることが出来るだろう。まず、筆者のように車に乗らない者と、逆に電車やバスにめったに乗らず、車本位で生活している人との違いがある。当然筆者は後者の脳内の興味地図に理解が及ばない。それはいささか神秘でもある。どのように世界が広がっているのか、筆者が頭に漠然と描き持つ地図の数倍、あるいはそれ以上の広さで、しかも車で走る道筋がくまなく描き込まれているだろう。筆者は地図を見るのが好きだが、それはもっぱら電車、バス、徒歩を使って仮想体験するものであって、自分で運転する車でどこをどう走ればいいかという関心を持つ必要がない。つまり、同じ地図を見ても、車に乗る人とそうではない人とでは、見るものが違っている。数年前、親類と一緒に丹波のとある温泉に日帰りすることになって、筆者が何枚にも分けてヤフーで印刷して目的地までの地図を持って前座席に乗り込み、次はどこを曲がればいいかを運転手に伝えるナビゲーターを担当した。その時思ったのは、歩くのと変わらない感覚だ。実際車は徒歩より速く、遠方まで行くことが出来るが、徒歩の延長に過ぎないと言ってよい。
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 昨日祇園の大和大路で車が暴走して人をはね殺す事故があった。車が暴走を始めた場所は、「沢辺さんの帽子」に書いた大和大路だ。さきほどのTVニュースでは、沢辺さんの家が遠めに見えた。前回沢辺さんと話した時、筆者は出会ったすぐに、「ゑべっさんの時とは違って、車がひっきりなしにたくさん通りますね」と言ったが、事故のニュースを知って最初に思い出したのがそれであった。川端通りのひとつ東の北向き一方通行の裏道で、細い道を多くの車が走る。そういう状況で、事故を起した車は最初にタクシーにぶつかったのだろう。それがあっても不思議ではない道だ。そこで焦った男は、タクシーの運転手に文句を言われる前にそれを追い抜いて逃走しようとしたのかもしれない。というのは、Uターンは不可能であるからだ。タクシーに追突して慌て、それで癲癇の発作が生じたのかもしれないが、そのまま北進し、電柱にぶつかってようやく停まった。京都は碁盤目状の道筋であるから、車がもっとまっすぐに走ることは出来たし、そうなればもっとたくさんの人を倒した。桜を見るために八坂神社に向かう人がとても多かったはずで、その狭い、数歩でわたることの出来る道を、まさか右手から猛スピードで車が突っ込んで来ることは誰も想像しなかった。死は日常に常に潜んでいる。予期せぬ形で、一瞬で人は死に追いやられる。今日はある女が死刑判決を受けたニュースで持ち切りだが、死刑判決を受けていずれ死ぬというのとは違って、昨日の事故はあまりにも一瞬のことで、死んだ人は話題にされず、無名として忘れ去られる。大きな話題になる殺人者がいいと言いたいのではない。死は人によって違い、大多数の人はほとんど身内とその周辺に知られるだけだ。それは生もそうであることを意味している。大勢の人と交流した人は、死も多くの人に伝えられる。それは道路でたとえれば、大物流をこなす高速道路のようなものだ。無縁の筆者は、車があまり通らない裏道を好んで歩くが、そのことは筆者の人生をたとえてもするし、また死んだ時の状況も予告している。先日の7日に町内の69歳の男性が亡くなり、その報せを受けて筆者は自治会内に配布する訃報を書いた。亡くなった人は数年前に転居して来て、去年まで散歩中によく話をした。亡くなった日の夜、筆者はぼんやりその人の姿を数か月間ほど見ていないことに気づいた。それから24時間経たないうちに、奥さんから死んだとの電話があった。今年に入って入院していたらしい。死はさまざまだ。予期せぬ事故で死ぬのはいやだが、誰もがいずれ死なねばならないから、死んだ時のことをある程度は考えておく方がいい。それにしても、花日和に歩いていて車にはねられるとは、全く物騒なことだ。筆者がよく言うように、人と車が同じ路上を走る文明の野蛮さを改めて思う。車の通行はすべて立体交差のある高速道路のみとすればいいではないか。そうすれば、車が人を跳ねる事故は激減するが、車同士の追突事故が増えるかもしれない。歩行者が轢かれるより、まだそっちの方がいい。筆者の脳内地図は、徹底的に車の要素が欠如して出来上がっている。であるから、歩道を歩いていて車に轢かれるのは真っ平で、そのためもあってスーパーへの買い物にはなるべく車の通らない裏道を歩く。そこに梅の古木があったり、また満月が見事に見える田畑がある。車に乗る人の頭の地図にはそういうものは刻印されていない。
●脳内地図の道路_d0053294_0222943.jpg

by uuuzen | 2012-04-13 23:59 | ●新・嵐山だより
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