偉大なと表現するほど知らないが、作品が現存し、今なお上演される最初のオペラを作曲したモンテヴェルディは、偉大と呼ぶにふさわしいだろう。

オペラは音楽だけでも楽しめるが、物語の内容を知らねば半分以上は楽しめない。ここが日本では問題で、歌詞のあるロック音楽の場合でも、音だけを楽しんでいる人が多い。ザッパの曲は半分以上が歌詞つきだが、それらの内容に関心があって、一行ずつ吟味して楽しんでいる日本のファンはごく少ないに違いない。比較的単純なラヴ・ソングであればいいが、必ずひねりが利き、また言葉をよく吟味しているザッパが書く歌詞は、そうでなくても歌詞を重視しないロック・ファンからはそっぽを向かれる。それもあって、日本ではこれまで以上にザッパの曲が歓迎されることはないだろう。ザッパはオペラ的な構成を好んだ。これはいかにもオペラを生んだイタリア系であることを思わせる。オペラは総合芸術と言われる。ザッパは金があれば映画を撮りたいと言っていたが、それもオペラを意識してのことで、ザッパの総合芸術への関心の強さがわかる。オペラはたくさんの曲がつながってドラマを作っている。ザッパの歌詞つきの曲がたくさん連なったオペラ的な作品は、歌詞に関心がない人にはさらに難解なものと思える。そしてそういう人はオペラを好まないのではないか。そういう筆者も積極的に触れて来たとは言い難い。20歳頃にワーグナーの楽劇に関心を抱き、ドイツ語で印刷されたその歌詞本を何冊も買ったほどだが、その次に本当にオペラが面白いと思ったのは、『フィガロの結婚』をNHKで見た時だ。それは舞台を固定カメラで撮ったものではなく、映画風の仕立てで、また日本語字幕が出たので、理解が出来て楽しかった。ところが、その経験から、当時出ていたオペラのレーザー・ディスクをあれこれ買ってオペラ・ファンになることはなかった。レーザー・ディスクは高価であり、またその盤も同様であった。そのうちDVD時代になったが、DVDプレーヤーを買ったのはつい5、6年前のことだったと思う。このブログでそのことについて書いたので、調べれば正確な日がわかるが、面倒なのでこのまま書き進む。オペラは映像つきで見るに限ると内心思いながら、CDはたまに買っていた。だが、輸入盤ばかり買うので、歌詞の意味が不明で、盛んに聴いているとは言えない。となれば、ザッパのオペラ的な作品への理解もたいしたことがないようになってしまう。長年興味を抱いていても、それに積極的に触れないまま、人生が終わってしまうことは多い。老年になることはそういうことではないか。『もういいか』などと、あれもこれも諦める。筆者もオペラに関してはほとんどそうなりかけているが、最近ひとつの機会が訪れた。

自治会の会長を明日の4月から4年目を担当することになるが、自治会内には他にさまざまな役員がある。それらはほとんど同じ人が数年、時には20年以上にもわたって担当している。それほど長くはないが、筆者より10歳ほど下の女性で、絵を描いているOさんと、この2年ほどの間にそれなりによく話をするようになった。どちらかと言えば寡黙な人だ。音楽の趣味はオペラという。それ以外はあまり聴かないようだ。これは筆者にはちょうどいい。筆者はその反対で、オペラはあまり知識がないが、そのほかの音楽は比較的何でもよく聴く。そのOさんから2か月ほど前に、オペラのDVDを2枚借りた。何か聴かせてほしいと言ったのではなく、突如彼女が選んで持って来た。そのきっかけは、去年秋に波動スピーカーを芦田さんがわが家に持参し、それを視聴するために、筆者がOさんを呼んだことだ。彼女はその時、モンテヴェルディの『オルフェオ』を持って来た。それをあまり聴くことはなかったが、ディスク1の最初の序曲と、最後の方に収録されるオルフェオのアリアを鳴らした。その時に使ったアンプはスピーカーを2系統つなぐことが出来たが、波動スピーカーの音だけを鳴らしたにもかかわらず、Oさんにはそれがとても大きな音に思えたようで、「大山さんはいつもこんなに大きな音で聴くのですか」と質問された。筆者にすればその音量はごく普通で、もっと大きな音で聴く場合が多い。これはおおげさだと思うが、家内は嵐山駅のプラットホームからでも丸聞こえと言う。それもオペラのように上品な音楽であればいいが、たとえばビーフハートの「ミラーマン」をそのように聴いていると、きっと近所の人は、「会長さん、たまにああやって狂いはるな」と噂し合っているに違いない。だが、年々耳が悪くなって来ているのか、大きな音でなければ聴いた気になれない。それはさておき、Oさんが持参した『オルフェオ』のCDは厚いブックレットつきであった。その夜アマゾンで調べると、まだ入手可能で、しかも思ったより安価であった。同じCDを買うのはつまらないから、ヒンデミットがウィーンで1954年に録音した2枚組を買った。それを深夜に聴くと、音量を絞ることもあって、あまり楽しくない。そこでロックを聴くように大きな音にすると、これが古い録音とはとても思えない。2枚目の最後にベートーヴェンの交響曲第1番が入っているのもよい。このCDの面白いところは、演奏の始まる前にヒンデミットが観客に向けて語るところと、全5幕のそれぞれ最初に女性がドイツ語で物語の概略を説明するところだ。また、ところどころに女性プロンプターの声が聞こえて生々しい。このCDを10回ほど聴いた頃、Oさんと話をする機会があった。彼女はこのヒンデミットの録音を知っていた。よほどモンテヴェルディのファンなのだろう。そうそう、筆者は昔モンテヴェルディのCDを買ったことがある。アルヒーフ盤の2枚組『聖母マリアの夕べの祈り』だ。やはり輸入盤なので歌詞がわからない。ジャケットが聖母マリアのモザイク画なので、キリスト教の抹香臭さが何となく漂う。2度ほど聴いただけで、持っていることもほぼ忘れていた。Oさんによれば、モンテヴェルディのオペラは6,7つしかなく、最初が『オルフェオ』だ。『聖母マリアの夕べの祈り』はその次の作品なので、まず『オルフェオ』を聴いてからの方がいい。となると、Oさんは筆者をオペラ好きにさせるために、わざと『オルフェオ』を聴かせようとしたのか。それはうがち過ぎで、Oさんは神話が大好きで、描く画題もそれに因むことが多い。その好きな神話の中にギリシア神話も含まれているのだろう。
オルフェウスとその新妻エウリュディケの物語は、ギリシア神話に少しでも興味を持ったことのある人ならば内容を知っている。オルフェウスすなわちオルフェは、モンテヴェルディだけではなく、現代ではストラヴィンスキーもバレエ音楽に名づけており、ジャン・コクトーの絵画や映画にも登場する。竪琴の名手で、そこが音楽に関係して、つまりミューズの女神にもつながって、音楽作品に表現されるにふさわしいが、モンテヴェルディ時代にも、彼に先駆けてオペラにする者があった。ただし、モンテヴェルディのオペラにしても半分以下しか楽譜が現存しておらず、彼以前の音楽劇がどういうものかは詳しくはわからない。Oさんが貸してくれたDVDは、1991年にレーザー・ディスクとして発売されたこともあるニコラス・アーノンクール指揮のチューリヒ歌劇場バレエ団、合唱団、モンテヴェルディ・アンサンブルの演奏によるもので、名盤とされている。固定カメラで上演そのものを撮ったものではなく、俳優の顔のクローズアップが多用され、実際の舞台を見るよりわかりやすい。色彩も演技も細部まで見え、総合芸術のオペラを納得させる。解説書を読むと、モンテヴェルディはフィレンツェで見たオペラに触発されて、今から400年前の1607年に『オルフェオ』を作曲した。それは画期的なものであって、マントヴァ公爵の宮殿の広間での初演は評判となり、数年後に改訂のうえ、4000人収容の劇場で上演され、大評判となった。モンテヴェルディは北イタリアのクレモナで1567年に生まれ、ヴェネツィアで1643年に死んだ。これはルネサンスの終わりからバロック初期に位置する。ついでながら、バッハはモンテヴェルディ没後40年ほどの生まれだ。オペラと言えば、壮大な舞台劇を想像しがちだが、『オルフェオ』当時は楽器の発達も途上にあり、また宮廷の内輪内で上演するために最初は作曲されたので、それなりに華麗で豪華ではあっても、威圧するような音の圧力とでもいうものからは遠い。静かに語るように歌う場面が目立ち、しかもそういう場面では伴奏楽器はごくわずかで、ますます物語の内容を知らねば没入は難しい。ヒンデミット指揮のCDを10回ほど聴いてほぼ全体に馴染んだが、肝心の意味がわからない。そう思っていたので、Oさんが持参してくれたDVDは理解に大いに役立った。「奥さんと一緒に見てください」と言われたのでそうしたが、考えて見れば、このDVDを借りてから薄型パネル型のTVを買い、それを1階に設置して波動スピーカーをつないだので、まさに筆者にとっては人生の大きな転換であったと言って過言ではない。その1階にOさんをいつか呼ぶつもりでいる。
オルフェオの物語はあまりに有名だが、簡単に書いておく。オルフェオは今まで意中の人に出会えず、暗く沈んだ日々を送っていたが、エウリディーチェに出会い、そして結ばれることでようやく人生に春が訪れたように感じている。ところが、人生には時として、予想もつかないところで不幸が待っている。エウリディーチェは毒蛇に噛まれて息絶えてしまう。そこまでで第2幕が終わる。第3幕では、エウリディーチェに会いたい一心のオルフェオは、竪琴を持って冥界に降りて行く。そこで竪琴を鳴らし、ついに冥界の王プルトーネの心を動かし、エウリディーチェを生の世界に連れ戻してもよい許しを得る。ところが、プルトーネはオルフェオにひとつの掟を言いわたす。それは、地上に出るまでの間、決して振り返ってエウリディーチェを見てはならないことだ。それを破った途端、エウリディーチェは二度と生の世界には戻れない。オルフェオは自分が奏でる美しい音色が冥界の王をも動かしたことに有頂天となり、エウリディーチェを率いて地上に戻ろうとするが、背後から妙な物音がしきりにする。これはエウリディーチェを奪還しに来た連中がいるためかと心配になり、エウリディーチェを確認するために彼女の顔を覆っているヴェールを剥ぎ取る。そうしてオルフェオはひとりで地上に戻ることになる。ギリシア神話ではその後オルフェオは呪いの言葉を吐き、神によって八裂きにされるが、モンテヴェルディが使用した脚本は、マントヴァ公爵の慈悲とでも言うようなものが付加され、公爵がアポロとなってオルフェオを天上に連れて行く場面で終わる。この公爵は、第1幕の最初にミューズの女神と夫婦役で登場する。ギリシア文明を受け継いだローマ帝国が、後にイタリアの諸都市の国家に分解し、そのひとつのマントヴァにおいてこのオペラが上演された時、それはギリシア時代そのものではなく、時代と国情によっていささか改変されたのは当然だ。映像を見て面白いのは、俳優たちの衣裳だ。ミューズやアポロは、16世紀に流行したエリザベン・カラーを巻いている。また、舞台中央に常にあるアーチ状の門の向こうに広がる平原の景色は、冥界以外の場面では、さまざまな鳥がいる牧歌的なもので、それもいかにもルネサンス後期からバロック時代を思わせる。
モンテヴェルディは大航海時代の人だ。そのことがこのオペラにも表現される。オルフェオが冥界に行くことが出来たことは、常識では考えられないが、その神技は、人間が世界の海を船で航行することも同じだといった歌詞が歌われる。当時の人々が科学技術の成果を誇り、それに自負を抱いていたことがわかり、本当にそのうちに天国や地獄にも行くことが出来ると考えたのかもしれない。ま、それは冗談にしても、そういう望みを人間は抱き続けて来ている。ところが、やはりどうにもならないことがある。人の死だ。オルフェオが、新妻があっけなく死んだことを受け入れることが出来ず、生きている時の姿をもう一度見たいと切望するのは、人間や動物の永遠に変わらぬ、それでいて永遠にかなえられぬ望みだ。その普遍的なテーマを扱うこの物語は、人類が滅びるまで忘れ去られることはないに違いない。そして、それをオペラで見事に表現し、その後に続くオペラ芸術の規範とでも言うべき完成度を築き上げたことは、モンテヴェルディの天才ぶりを示す。Oさんが波動スピーカーで鳴らしてほしいと言ったアリアは、第3幕のたぶん「大きな力持つ霊よ」ではなかったかと思う。このオペラは、序曲の軽快なトランペットの音色や、第1幕で牧人たちが歌い踊る、ほとんどジェスロ・タルの曲に近い明るい調べを除けば、オルフェオが悲しみに沈みながらとうとうと歌う場面が一番印象的だ。それは人形浄瑠璃のたとえば「曽根崎心中」における道行きの場面を連想させる。また、冥界の王や死んだはずのエウリディーチェを引き連れて戻る様子は、能の世界に近い。さて、OさんにDVDをまだ返していないが、Oさんがこのオペラが特に好きである理由は何か。「不幸な人でも救われる」という箇所は、ギリシア神話とは違うところであり、また、天国に行くと永遠にエウリディーチェに会えないので、そこに行きたがらないオルフェオだが、アポロはエウリディーチェとも会えると諭す。つまり、エウリディーチェは冥界からやがて天国に行くのだろうが、悲しむオルフェオの前にアポロが現われ、すぐに彼と一緒に天上の世界へと行く結末は、女であるエウリディーチェとは違って、竪琴の名手でもあり、また男のオルフェオは最初から神に近い存在として認められているかのような設定だ。これは男尊女卑ではないかと多少感じる。あるいは竪琴の名手という才能を持った人物と、そういう才能がない女との差か。だが、女が何か際立った芸を持つことは困難な時代であったし、そのことで女が男より低い存在に見られるのであれば、女はたまったものではない。また、オルフェオがエウリディーチェ以外の女性に全く心を動かされず、愛の神が間違って変な女を好きにならせることのないように願う場面がある。それは、男が女を選び、またつまらない女を寄せつけないという、男の強い意思が示される。オペラを楽しむ高尚な男はみなそうであると言いたいのかと言えば、実際はそうではなく、どんな男でもそう思っている。そう思っている男を見て、女が自分を磨くことに精出すのであればいいが、外面の磨きだけは熱心というのが、モンテヴェルディの時代も今もそうだと言ってよい。