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●『解剖と変容 プルニー&ゼマーンコヴァー、チェコ、アール・ブリュットの巨匠』
離が耳でわかる。これは以前にも書いたことがあるが、大阪市内に住んでいた頃、早朝に遠くで汽車の汽笛が鳴るのを寝床でたまに聞いた。直線距離でわが家から6,7キロは離れていたと思う。



●『解剖と変容 プルニー&ゼマーンコヴァー、チェコ、アール・ブリュットの巨匠』_d0053294_22312752.jpg早朝であるし、また当時はまだ背の高いビルが少なく、車の数も現在の10分かもっと以下であったからこそ、聞こえたはずで、今は全くそういうことはないだろう。それに汽車は走っていない。汽笛の音量が普段より小さく鳴れば、それはより遠くから聞こえて来るように感じるので、音源までの距離はその音量が関係して、正確にはわからないといってよい。だが、それでも音の圧力とでもいうようなものから、それがどれくらい離れたところから発しているかは推定出来るのではないか。わが家の裏庭の木にはたまに烏が早朝に留まってけたたましく鳴くき、それと呼応して数羽があちこちで鳴く。そのあちこちの場所が、布団の中にいる筆者にはおおよその距離が想像出来、烏どもが立体的に位置して鳴き声の合図を送り合っている様子が目に見えるような気がする。そんな時、烏の鳴き声に混じって、今度は犬が遠くで鳴く。それも頭の立体地図に組み入れる。そのようにすると、最も遠い鳴き声を果てとしたひとつの空間が把握出来る。そこに、もっと遠いたとえば汽笛が加われば、空間はさらに広がる。このように、聞こえる音によって空間が把握出来ることは、いつも新鮮な驚きだ。烏の声が聞こえなければ、自分の周囲に空間が広がっていることが実感出来ない。何事もじっとしていると、感じないものだ。たとえば手を家内の胸に触れていると、5分も経てば、何を触れているのかわからなくなる。そこでほんの少し手を動かすと、触れているものを即座にまた実感する。この事実は、人間は体を絶えず体を動かさないと、何も感じないこと示している。寝床でじっとしながら汽笛を聞いてその距離を想像することは、耳を動かしているのと同じで、これは何かをしていることだ。つまり、意識して動くことで、世界を実感し、その広さもわかる。そう思うこともあって、あちこちの美術館に何か新鮮な作品はないかとよく出かける。
 ところが、美術の教科書を初め、さまざまな画集などによって、どの国のいつの時代にどういう作品があるかの地図は、ほぼ頭の中に出来上がっている。それは烏や犬や汽笛などのさまざまな音から空間の広がりを認知することに似て、視覚作品による世界やその果てを一応は知っているつもりになっている。ただし、耳が聞く最も遠い音がおそらく遠雷であるように、今までに知っている世界の広がりをうんと広げるような果てとしてのまだ見ぬ作品がどこかにあるのではないかという期待としての想像が去らない。そのためにも展覧会に足を運ぶ。その果てといえばいいのかどうか、アール・ブリュットの作品は、美術史に収まらないので、空間把握そのものを根底から崩してしまうような一種の暴力的な恐怖を覚えさせる。ジャン・デュビュッフェがアール・ブリュットの作品を収集し、自らもそれに似た作品を作ったのは、確固としている美術の世界に意義を唱えたかったからだ。アール・ブリュットは、先の音による空間把握で言えば、遠雷ではない。それは耳の中で蠢く虫のようで、空間のどこに置いていいのかわからない、測定不可能な作品だ。そういうものを嫌悪したり、評価しない人は少なくないだろう。戸惑いから始まって戸惑いに終わるものは、初めから取り組まない方がよい。にもかかわらず、一旦見たものは、記憶される。それが、個人が築いている視覚芸術の世界地図のどこにも収まりようがないままに漂い続けるとすれば、世界には海もあり、そこには漂流する幽霊船もあるのだとでも自らを納得させ、なるべく思い出さないようにするのではないか。あるいは、まともな夢もあれば変な夢もあると考えるかだ。だが、そもそも夢はみな変ではないか。そのことに気づくと、アール・ブリュットの作品こそが美術史に組み込まれて評価が定まっている作品より、本物の芸術ではないかという思いもして来る。美術史にいったいどれほど価値があるのか。芸術が自由を標榜するのであれば、美術史で作品を位置づける行為は、全く無意味どころか、きわめて弊害がある。だが、人間は自由である一方、政府や権力者によって管理されるべき存在と思う人にとっては、アール・ブリュットは許されるものではない。せいぜい画家には裸婦や植物、風景を、ちょっとばかり洒落たふうに描いてくれているのがよく、あまり人を心の底で騒がすようなことをしてもらっては、社会の平安が保てない。デュビュッフェがフランス政府の申し出を断ってアール・ブリュットの収集をスイスに寄附したのは、美術王国と自負する政府がいやであったからだろう。
 兵庫県立美術館で25日まで開催していたこの展覧会については書くべきことが多い。先日は同館で見たドキュメンタリー映画について書いた。今日は『解剖と変容』と題されたふたりの画家について書く。この題名はどこか禍禍しさがあって、好んで足を運ぶ人はよほどの「変なもの好き」ではないだろうか。チラシのデザインはいつになく派手で、誰しも今までに見たことのない作品をそこに感じるだろう。だが、先に書いたように、美術の果てに位置する超名作とでもいうようなものではなく、どう評価していいかわからない、悪夢のような作品だ。筆者は本展を見るまで題名の「解剖と変容」の意味するところがわからなかった。これはチェコのふたりのアール・ブリュットの画家の作品を一語で表現すればどうなるかを試したもので、副題にあるように、ルボシェ・プルニーという男性の画家は「解剖」を主題とした作品、ゼマーンコヴァーという女性は、「変容」と形容してよい作品を残したことを指す。プリニーは1961年生まれで、現存している。ゼマーンコヴァーは1908年生まれで、86年に亡くなっている。ふたりとも今回が日本で初紹介だ。大方の美術作品を見たと思い込むのはあまりに傲慢で、世界にはむしろ知らない作品の方がはるかに多い。これまた先の例で言うと、烏や犬、汽笛、遠雷の音のみによって寝床内で耳による空間の広がりを確認しているのではなく、血の流れる音、息、布団の擦れる音など、実際はあらゆる音に満ちているのに、それを意識していないだけのことだ。さて、このふたりの作品のほかに、映画『天空の赤』で紹介されたアール・ブリュットの7人の作品も展示されたし、またその7人の中にはヘンリー・ダーガーのように、すでにかなり有名な画家も含まれているので、本当はそうした作家の名前を出し、チラシに作品を印刷する方が観客動員には効果があったはずだ。それをせずに、未紹介のふたりを前面に押し出したところに、アール・ブリュットの本質を知らせようという思いが伝わって好ましい。ダーガーは美術史への組み込みのしようがほとんどない画家だが、有名になると、毒が抜かれるところがある。今回のプルニーとゼマーンコヴァーは今後もよく知られないままとなるのではないか。その方がいいようにも思う。ふたりともダーガーと同じように、「えぐさ」はあるが、これはアール・ブリュットのひとつの特徴で、「斬新」や「新奇」という表現は当たらず、ひたすら「奇異」と言えば、当たらずとも遠からずだ。その奇異さは、美術史の中に当然ひとつの要素として今までに認められて来ており、ある「奇異」が流派を作れば、それは「規範」となる。ところが、アール・ブリュットの「奇異」はみな孤立して、作家同士のつながりが全くない。流派を作らないことは、誰かに影響を及ぼすことがない。そのため、その作家はきわめて小さな存在として、ひとまず無視される。そのようにして、今までおそらく大量のアール・ブリュットの作家が人に知られぬままに消えた。『天空の赤』でも言っていたが、ある画家が数十年かかってアパートの一室で絵を描き残しても、その人が死ねば、さっさと部屋の中のものは燃やされる。ダーガーの作品もその価値を認める人がいなければ同じ運命をたどっていた。
●『解剖と変容 プルニー&ゼマーンコヴァー、チェコ、アール・ブリュットの巨匠』_d0053294_22315449.jpg 「奇異」な作品は奇異な人が作り出す。だが、何をもって「奇異」と言うか。また、「まとも」とは何か。それが、仮に経済的にも肉体的にも恵まれ、一生苦労知らずで過ごすこととすれば、それこそ「奇異」ではないか。よく言われるように、人は表向きはわからないが、さまざまな事情をよく抱えている。そのことが当然なほどで、仮に傍からは一生苦労知らずの状態に見える人でも、悩みや心配事を抱えるに決まっている。それこそが人間だ。何がまともかと言えば、さまざまな事情を抱えている状態を言うだろう。トルストイが小説に書いたように、幸福な家庭はみな似ているが、不幸な家庭はさまざまで、そのさまざまこそが小説ネタになるのであって、見方を変えれば、不幸は面白い。みな似ている幸福のどこが楽しいのだろう。それはもうあらゆる感覚を麻痺させた、生の実感のない状態だ。動くことで感覚や現状を再認識すると前述した。さまざまな事情を抱えることは、ひたすらもがき、動くことだ。それが生の実感であり、芸術活動の根幹だ。幸福な人は芸術を生まないだろう。それは必要がないからだ。経済的に豊かになれば芸術家でも一族から輩出するかといった考えがあるが、貧しいからこそ真の芸術家が生まれるのではないか。プルニーとゼマーンコヴァーの人生は、他のアール・ブリュットの作家たちのように、少し変わったところがある。「奇異」なその部分によって、作品が誰にもまねの出来ない、どこにもなかったものになり得た。その「奇異」な人生や性質を書き連ねると、よく似た境遇、資質、あるいは経験を持つ人への偏見を生むかもしれない。どういうことかと言えば、プルニーとゼマーンコヴァーはある不幸な事情を抱えていて、それを忘れるために製作に励んだという、同情的な見方だ。この同情から作品を見ると、作品を評価することより、そういう「奇異」な作品を生むことになっている心身の状態を拡大視してしまう。これはアール・ブリュット全体への偏見につながるだろう。そのため、プルニーとゼマーンコヴァーの人生が他人とどう変わっているかをあまり意識し過ぎることはよくない。まず、作品を見ることだ。だが、『天空の赤』でも紹介されたように、アール・ブリュットの作品は、その作家の特異な人生と表裏一体で語られる。これでは、「普通の生活を送ることが出来ない『不幸な』人が心の平安を求めて作った」といった見方から抜け出ることが出来にくくなる。もちろん、どんな画家でもある意味では「普通の生活を送ることが出来ない人」としての部分を大きく持っているし、またゴッホのように、時には「不幸な」という形容がふさわしい。ところが、没後にしろ、評価される人は、そのことが欠点にはならず、むしろドラマティックな、欠くべかざる美点として認識されもする。この「評価される」は、プルニーとゼマーンコヴァーも同じと言えるだろうか。はるか日本の大きな美術館で展示されるのであるから、そう言って差し支えないが、あくまでも「アール・ブリュット」というただし書きにおいてだ。ここに、「アール・ブリュット」とみなされる作家たちの、幸福と不幸が裏表になった状態が見える。デュビュッフェの作品も「アール・ブリュット」とみなされる場合があるが、彼はその言葉の生みの親で、彼の作品は彼が収集した「アール・ブリュット」の作家たちとは一線を画するのではないか。つまり、デュビュッフェは美術史に名を残すが、「アール・ブリュット」は漂流し続けるだろう。それでいいとも思えるし、一方ではデュビュッフェを祖とする一派として、歴史に組み込む作業をして、巨匠と同じ地平で作品を鑑賞する機運が出るべきとも思える。
●『解剖と変容 プルニー&ゼマーンコヴァー、チェコ、アール・ブリュットの巨匠』_d0053294_2232992.jpg プルニーは職業柄死体を見ることが多かった。作品はそれが影響してか、人体の解剖図と呼んでいいものが中心となっている。これがどれも驚くべき線の細さと緻密な描き込みで、しかも写実的な解剖図ではなく、空想であるから、サイボーグの設計図のように見える。人体の内部に関心を持っていることは、自分の体に針を突き通した数点の写真からもうかがえた。また、父と母に捧げられた、レコードのLP盤のように、細い線を同心円状に連ねたペン画が2点あった。細い線と見えるものは文字で、それが米粒に書くほどの大きさで、虫眼鏡が必要だ。おそらく1点描くのに、1か月では済まないだろう。文字とすれば何か意味があるのだろうが、書き間違いは見当たらなかった。その黒々とした同心円の連なりの中心に、灰のようなものが詰まった蓋つきのシャーレがひとつ貼りつけられていた。説明を見てそれが遺灰であることがわかったが、プルニーにすればその対作品は両親への思いを込めた神々しいものなのだろう。そうした作品のどこが美しいのかという意見があるかもしれない。だが、それを言えば、現代芸術のほとんどすべてがそうだ。プルニーはまた、自身の肉体美に自信があり、絵描きのモデルを務めている。以前からそうなりたかったが、その夢を実現し、その記念に自分が公認のモデルであることを記す丸いスタンプを作り、それを作品に捺印している。一方のゼマーンコヴァーは確か40代になって絵を描き始めた。子育てに精を出したが、子どもが手を離れた時に心の平安を失い、絵を描くことでそれを乗り越えた。母性を与える対象を、子どもから絵画に変えたのだ。そのため、作品はどれも花かイソギンチャクのようで、母性を感じさせる。ところが、この母性は、ただただ美しいと単純に言えるものだろうか。花を美しいとよく言うが、じっくり見ていると、気味悪くなり始めることがある。それは人間でも動物でもそうだ。内田百間(本当は門がまえに月)は、人間の手は先が5つに分かれて、それが物をつかんだりして何となく気味が悪いと書いた。全くそのとおりで、あたりまえのことを時にはそうでない眼差しで見るとよい。指先がくにゃくにゃと動く様子を見て、鳥たちはぞっとしているかもしれない。『人間で何て気味悪い器官を持っているのだろう!』 そう思うと、母性というものも、どこか得体の知れない謎に満ちた、どこか恐ろしい雰囲気をたたえていると感じられる。ゼマーンコヴァーの絵画は、その夢幻的なところから、美術史的に無理に言えば、シュルレアリスムの絵画に分類されるであろうし、生きた時代からもそう言ってよい。だが、どれもがらりと形が違いながら、どれも紛れなくひとりの画家によって描かれた共通する味わいがあり、しかもシュルレアリスムの流派とは交流がないところで描かれた。時代を超えた女性が持つ母性を根源的に表現したとしか言いようのない画風で、表面的な美しさを超え、生命そのものの自律的な力を感じさせる。先日書いたショーヴェ洞窟に描かれる動物たちは、スペインのアルタミラの壁画と同様に、狩がもっとうまく行くようにとの願いを込めたようなところがあるが、それと同時に、動物を賛美する思いも伝わる。それらはおそらく男性が描いたものだろう。女性がもし当時壁に何か描こうとしたならば、それはゼマーンコヴァーの作品のように、母性の法則や状態を示すようなものではなかったか。男は生命のそうした神秘を知りたいために、生命体を分解したがる。プルニーが解剖図的作品を執拗に描くのは、いかにも男性的で、今回の展覧会はうまくふたりを選んだ。絵画の世界地図がぐんと広がった気がすると言うより、そうした世界地図などもともと存在するのかという気にさせられる。チェコはどこか神秘で謎めいたところのある国だが、アール・ブリュットに限らず、もっと多くの作家が紹介されることを期待したい。
by uuuzen | 2012-03-30 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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