所蔵品だけでは間に合わないので、各地の美術館などから作品を借りて来て展示するのだろう。龍谷ミュージアムが去年4月にオープンし、当初から行かねばと思いながら、ようやく2月25日、つまり天神さんの縁日を見た後、足を延ばした。

この博物館が出来ることは数年前から耳にしていた。大宮七条にある龍谷大学の大宮学舎にも博物館らしきものがあり、10年ほど前か、そこでシルクロードの遺跡で発見された壁画を色鮮やかに原寸で復元したものを見せる機会を新聞で知った。気になって電話までかけたが、行く機会を逃した。その壁画の再現が龍谷ミュージアムに引っ越したことを、今日紹介する展覧会のチラシで知った。そして、その壁画復元を見るのが主な目的で出かけた。場所は、堀川通りを挟んで西本願寺の正面前だ。あまり目立たない概観で、注意しなければ見過ごしてしまう。そのくらいがいいと思う。さらに東には東本願寺があるから、理想的な立地で、さすが巨大な宗教団体であることを納得させる。ミュージアムの開館記念と、親鸞聖人750回大遠忌法要記念を兼ねて、『釈尊と親鸞』と題する展覧会が開催された。釈迦と親鸞が同格扱いだ。これは浄土真宗としては祖を誇る意味から当然なのであろう。仏教美術の企画展で有名なのは、奈良国立博物館で、そこでは釈迦についての展覧会は多い。だが、親鸞を独立で取り上げたことはないと記憶する。仏教美術を味わうのであれば、奈良まで行く必要はなく、京都の各寺には所蔵品が多い。それに、奈良は奈良時代に偏っているところがあるが、京都は平安時代以降の仏教に因む展覧会をしばしば開催する。京都国立博物館がその代表だが、宗派を問わずに仏教美術全般を対象にするので、その点は各宗派から圧力めいたことがあるのかどうか。仏教に関する学術を行なうのは国立の博物館だけとは限らない。20世紀に入って西洋が盛んにシルクロードの仏教遺跡を発掘していることを知って衝撃を受けた浄土真宗の本願寺派の法主は、中央アジアに大谷探検隊を派遣し、大きな成果を得た。そのために費やした経費によって、古くから所蔵していた、若冲画を含む美術品を競売にかける羽目になったが、世界的に価値のある学術研究はそのように莫大な経費を要する。所蔵の美術品を手放しても別人が所蔵することになるだけで、消えることはない。だが、少しでも遅くるほどに、二度も手に入らない貴重な発掘品がシルクロードの遺跡から続々と西洋に持ち去られた。その動きを察知して大谷探検隊が加わり、日本に持ち帰ったものは、仏教の研究に大いに益するところがあった。つまり、家宝を手放した代わりに、もっと貴重なものを手に入れたと考えればよい。法主が本願寺の資産を大幅に失ったことで大問題になったが、それも年月が経つと忘れ去られ、また寺はびくともしなかった。大谷探検隊の資料は今までは京都国立博物館でたまに展示された。今後は龍谷大学の附属博物館のようなと言えばいいいか、この堀川通りに面した大きなミュージアムで少しずつ展示されるだろう。その大谷探検隊との関連もあってか、今回の企画展では、「釈尊」部門にはガンダーラや西域の作品が並んだ。そこから「親鸞」に収斂させた展示によって、釈迦の意思を親鸞が代表していると言わんばかりだ。こういう展示はこのミュージアムならではで、奈良や京都の国立博物館では絶対にない。

仏教美術はあまりに範囲が広い。その中から何をどう並べるかとなると、このミュージアムがそれこそ100年かかっても枯渇しないほどの切り口がある。それを逆に言えば、散漫な企画展にもなりがちだ。どれもが国宝となればそれもまた別だが、「釈尊」部門ではそれは不可能だ。その代わり、「親鸞」部門はさすが充実していた。期間中展示替えが多かったものの、重文が多く並んだ。会場を少し説明しておくと、地下1階、地上3階建てで、エントランスは地下にある。広々として気持ちがよい。奈良の写真美術館によく似ている。1階は堀川通りの歩道に面してカフェとショップがある。その横を通って地下へとエスカレーターで降りる。今回見終わった後、閉館間際になったので、カフェ・ショップには入らなかった。1階は地下にある中庭の吹き吹けとして大半が利用され、ショップ以外は入ることの出来る部屋はない。贅沢な作りだ。部屋をたくさん設けるより、庭を見せようとした。その庭でパノラマ風に写真を撮った。さて、展示は2階にある。縦長の大きな部屋がひとつだ。これが縦に二分される形で作品が並び、時計とは反対回りに一周して鑑賞する。ただし、縦に二分された中央の島にも両側に展示がある。この大きな部屋全体が、「釈尊」部門とされ、またこれは常設展示だろうが、前述した、以前大宮学舎にあった壁画の復元コーナーがあった。これは中国のトルファンにある「ベゼクリク石窟」だ。釈迦を中心に大きく描き、その両側にさまざま人物を小さく配した「釈迦伝」だ。西洋の探検隊が次々と壁画を剥がして持ち帰ったので、現在は無残な姿になって、かつての様子がさっぱりわからなくなっている。これを、コンピュータを駆使し、部分的には想像を交えて、描かれた当初の姿にアウトプットした紙を貼りつけたものだ。大宮学舎にあった頃はその一部分であったかもしれない。今回は石窟の一応全体像となっている。鉤型に直角に曲がった通路となっているが、通路幅は実際より広めに取られている。それでも壁画は眼前に迫り過ぎて見える。狭い石窟でどのようにして足場を組んで描いたかと思う。特に赤の色が美しく、コンピュータで復元したものには見えない。これは部分的にしろ現物が残っており、その色彩を他の部分に拡張したためで、当然と言えるかもしれない。全部が全部デジタルで仮想的に描いたものではなく、現物の写真がむしろ多いのだろう。各国に散らばっている壁画断片をつなぎ合せても、全体像にはならないと思うが、欠損箇所は他の部分からそれなりに類推が可能で、想像で描き足したとしても、さほど外れてはいないだろう。これは、この巨大な壁画が、数メートル幅ずつを一単位として、その大半の図柄を隣りの場所に転用するという、繰り返しが多いためだ。そのため、全体としての変化にはきわめて乏しい。法隆寺にかつてあった壁画とは違って、いかにも西域的だが、その分釈迦が住んだ土地に近く、筆者にはこれが本流に思える。この復元壁画を何年も前から見たかったので、これを最初に見た。その後は、もう他の展示には興味をなくしたのが正直なところだ。

3階は、2階と同じ場所に同じ大きさの展示室があり、そこが「親鸞」部門の展示となっていた。また小さなシアターがあって、西本願寺の障壁画やベゼクリク石窟の紹介をしていたが、上映が終わっていたので見ることが出来なかった。ベゼクリク石窟の映像による紹介は、2階の復元コーナーの片隅にもTVで繰り返し上映されていた。ただし、これは5分ほどのもので、3階のシアターとは違う内容かもしれない。筆者らが館内に入った時、20名ほどの団体客が来ていた。それを引率しながら説明しているのが、家内の知る龍大の教授であった。大学の先生はこのミュージアムが出来たことで仕事が増えたのかもしれない。だが、仏教を広く紹介することとなって、いいことではないか。30分ほどで見たので、あまりよく覚えていないが、作品をただ並べるというのではなく、釈迦の教えをスイッチを押すことで聞いたりするなど、近年の施設にはあたりまえになったかのような、遊び心に富む多角的に楽しめる工夫があった。門徒が京都に来ると、必ずこの施設を訪れるのではないだろうか。それだけでも大変な数になるはずで、そういうことを見越してこの場所に建てたと思う。今は開館から丸1年が経とうとし、次の企画展『仏教の来た道』が宣伝されている。この題名やポスターを見ると、あまりにもデジャヴ感があって、見る気が起こらないが、3階では龍谷大学の起源に相当する僧侶養成機関の関係資料を展示し、これも龍大生や門徒は見ておくべきものかもしれない。京都の寺社が展示施設をかまえ、そこで長年伝えられて来たものを見せることは歓迎すべきことだ。大阪難波の高島屋では法隆寺展が開催されるが、百貨店のホールを使うことは今後もなくならないとして、龍谷ミュージアムのように、長期にわたって企画展をすることは安心感がある。普段あまり歩かない堀川通りの七条北界隈を、たまには歩いてみるとよい。他の府県ではまず見られない景観がそこにはある。龍谷ミュージアムの北西には、伝道院と称する、一見イスラム風のドーム屋根の建物がある。その写真を撮りたかったが、背の高い欧米人が10人ほど盛んに写真を撮っていたので気が引けた。西本願寺前は、他府県かた訪れら人ならば、きっと京都に来たことを実感する風情がある。それは世界的に見ても珍しい風景で、走るバスの中から見るだけでも胸に響くものがある。だが、それを言えば東寺もそうであり、京都は大きな寺がたくさんあって、とてもその全部をくまなく知ることは出来ない。