洞窟と言えば、中学3年生の時にいた洞(ほら)という名字の級友を思い出す。おとなしく控えめな男子で、その点が評価されたのか、学級委員長に選ばれた。
筆者もおとなしかったが、洞君とは親しく話をしたことが一度もなかった。おとなしいように見えて派手な筆者とは、共通する話題が何もなく、筆者は物足りなかった。中学を卒業して一度も会っていないが、FACEBOOKとやらに登録すると見つかるかもしれない。ただし、筆者の世代でネット世界に興味があって、積極的にそれを活用している者は少ないであろうから、あ期待は出来ない。それに筆者はFACEBOOKに個人情報を載せたくはない。それはさておき、今日紹介する映画は、チラシを1か月ほど前にあるところで見つけ、期待に胸をふくらませた。調べると、京都ではJR二条駅横の映画館でやっている。そこは4,5年前に出来て以来一度も行ったことがなかったので、その点でもいい機会であった。二条千本には、昔筆者が勤務していた染色工房の親会社である呉服の卸問屋があった。社長とはよく話す機会があり、ホテルで食事をご馳走になったこともある。1990年の鶴見緑地での花の万博には、初期のデジタル・カメラを無料で借りることが出来たが、その2,3年前だったか、社長はこれからはカメラを電気屋が売る時代になるなど、商売の垣根が取り払われることを予想して語った。キモノを電気屋が売るようになるとはさすがに言わなかったが、時代の目まぐるしい変化を見て、それに対応して行かねば商売人の明日はないといった覚悟であった。だが、結果的に同社はバブル後に家業を整理、千本通りに面した和風の大きな建物も売却し、社長は娘のいるニューヨークに永住するために向かった。日本に見切りをつけた格好だが、元気にされているだろうか。同社がそのようになる前に筆者は独立してひとりで仕事をするようになっていた。商売も人生も洞穴を進むようで、先に何が待っているかわからない。そのように進みながら、人類は現在まで来たし、これからも洞穴を進むのと同じようであることには変わりがない。話を戻して、千本二条界隈は、10年ほど前までは毎週のように歩いた。市立中央図書館に行くためだ。その習慣がなくなった後、二条駅南の広大な空き地に立命館大学の校舎が建ったりするなど、変化が著しくなった。まさに社長が予想したような大変化だ。それがとどまることを知らないのを、この映画を見に行って知った。映画を見た後、何年かぶりで千本通りを二条から丸太町へと歩き、市立中央図書館に久しぶりに向かったところ、大きなスーパーが千本通り沿いに出来ていた。二条駅が高架になった時から、同駅が隔てていた東西の行き交いが活発化し、人口が増えたのだろう。家内とともにその大きなスーパーに入って多少買い物をし、そして休憩スペースで買ったものを少し食べた。そういうことを家内は非常にいやがるが、筆者は楽しい。することがなくて終日ぶらぶらとスーパーにたむろしているような老人になった気分になれるからだ。洞窟を進むかのような人生は、誰しも先がわからない。筆者も本当に毎日の大半をそのようにしてスーパーの無料休憩所で過ごす老境になるかもしれない。
前置きはそのくらいにして本題に入ろう。筆者はヘルツォークが好きだ。現存の映画監督では一番好きだ。と言いながら、あまり映画を見ないので他の監督はよくは知らない。ヘルツォークは若い頃とはすっかり風貌が違ってしまったが、貫禄が増した現在の姿は格好いい。筆者もそんな老人になりたいが、無理なことは無理で、すでに諦めている。ヘルツォークが好きなのは、自分の撮りたい作品だけを撮って来ていることだ。どんな監督でもそうと言えるが、ヘルツォークは興行的な成功をどれほど意識しているのだろう。多くの人が歓迎しなければ莫大な負債を抱え込むことになるし、またそうでなくても資金を出して次回作を撮ってほしいと言って来る人はいないであろうから、一作ごとに全力投球し、とにかく大勢の人に歓迎されることを目指すのは当然だ。にもかかわらず、ヘルツォークの作品はハリウッドの定型化したような娯楽大作とは全く違い、好きな人は夢中になるが、そうでない人は退屈過ぎて10分で劇場を出て行くのではないか。ヨーロッパでは違うかもしれないが、日本ではそうだろう。昔、ある映画通と自称する人と話したことがある。どういう監督の映画が好きかという話題になって、筆者は10人ほど挙げたが、相手はそれらの名前を誰ひとりとして知らなかった。アメリカの娯楽作ばかりを見ているからそういうことになる。本人は自分が好きな映画のみが映画であり、そうした映画に精通していることが映画通であることを疑わない。何しろ同じような趣味の人は大量にいて、映画館ではそういう人々と仲間意識を共有出来る。したがって、筆者が挙げたような監督の名前を知らなくても恥でも何でもなく、むしろそういう映画とは言えない映画を見る連中を憐れんでいる。昨夜筆者は黒澤明監督を、腕の立つ、無駄なことを一切しない見事な職人といったように形容した。ヘルツォークは職人ではなく、芸術家だ。これは映画監督としては綱わたり的な生き方であろう。黒澤が映画の資金を捻出するために自宅を売り払ったりしたことも綱わたりの賭けと言ってよい姿勢だが、ヘルツオークは娯楽が少ない時代に代表作を撮った黒澤とは違い、TVがあたりまえにどの家にもあり、映画を見るには無理して時間を作らねばならない時代の監督だ。しかも、ハリウッドの超大作のように大人数の観客を動員しなければならない宿命を背負うような立場に身を置かず、自分の撮りたいものを見定めて2年か3年に一作を撮る。と書きながら、筆者はヘルツォークの近作を知らず、本当に2,3年に一作であるかどうかはわからない。先日調べると、去年秋に京都の南会館でヘルツォーク特集があり、日本未公開の映画2編を含んで上映があったことを知った。知っていたならば、絶対に出かけたものを、残念なことをした。
京都ドイツ文化センターからは定期的に催し物の案内メールが届く。その中に、ヴェンダースがピナ・バウシュとヴッパタール舞踊劇団を撮ったドキュメンタリー映画が春休みに公開されることを知らせるものがあった。ぜひとも見ようと思い、結果的に家内とともに二度もその映画館の前に行ったが、最初は上映時間が夜遅くで、次にネットで調べて行った時は、館側が予定を急遽変更して、いつもより30分早く上映が始まっていた。三度目に行こうと思いながら、さきほど調べると、もう終わっていた。ピナについては以前ドイツ文化センターで映画を見たので、それで我慢するとしよう。不思議なことだが、ドイツ文化センターはヘルツォークの今回の新作については知らせて来なかった。おそらくこの映画がフランスを後援とし、またフランスにある洞窟を取材したものであるからだ。いくらドイツの映画の巨匠であるとはいえ、ドイツに関係のない内容では告知の必要はないと思ったのだろう。これはいささかケチではないか。ともかく、チラシを見たからよかったものの、そうでなければまた見ることが出来なかった。先のヴェンダースの映画もだが、この映画は3Dで、専用の眼鏡をかけて見る。そのために400円を余分に支払った。50代以上の夫婦料金が適用され、それはふたりで2000円で済んだが、眼鏡代が別にかかった。3D映画は誰しも否応なしにこの特別料金を支払わせられる。TVにも3Dがあると聞く。昔はやったものがまた再燃しているのは、映画により娯楽性をもたせるためだ。ヘルツォークのこの映画では本当に3Dが必要なのか多少疑問に感じたが、くっきりと遠近が感得出来る場面が2,3あったのは事実だ。だが、そのステレオ写真を見るかのような不思議な体験は、洞窟内部の場面では効果に乏しく、また大半が洞窟内部の映像であるので、3Dの必要性はあまりなかったのではないか。ともかく、ヘルツォークもまた映画の現在の流行に沿った仕事をしなければならないところにいることは確かなようで、今後も3Dに固執するのであれば、どういう作品ならばそいれにふさわしいかを考えねばならず、それを見事に乗り越えることが出来るだろうか。
洞窟壁画と言えば、誰しも小学校で学ぶラスコーのそれを思い出す。この映画で言及されたが、ラスコーの壁画は、たくさんの人が出入りしたため、壁画にカビが生え、それで現在は見ることが出来なくなっている。同じことは高松塚古墳の壁画にも言える。せっかくの大発見が、あまりに騒ぎ立て、多くの人が間近で観察した結果、作品を台無しにしてしまう。この映画で取り上げられたショーヴェ洞窟壁画は、1994年に発見され、当時話題になったことを覚えている。ラスコーと同じフランスにあったことはフランスが美術に熱心な国になったことを思えば象徴的だ。ショーヴェは発見した洞窟学者の名に因む。その重要性から非公開にされ、現在もごく限られた人と限られた期間しか見ることが出来ない。重要であるのは、ラスコーの倍以上古い壁画で、しかも出来映えが劣らないことだ。これをヘルツォークが目をつけ、ぜひとも撮影したいと望んだのはよくわかる。いかにもヘルツォークに向くテーマで、フランス側はそれを認めて全面的に援助した。そうして出来上がった映画だが、NHKの教育TVで放映してもいいような、単なるドキュメントには終わっていないところがヘルツォークらしい。それは映画の本編がひとまず終わった後の編集後記としての場面に見られる。そのことは後述するとして、この映画は美術に関心のある人以外は退屈かもしれない。総数が300ほど確認されている壁画は、すべて同一人物によって描かれたもので、ラスコーと同様、動物を横から見た姿ばかりだ。例外として、土偶のような誇張した女性の下半身に動物が取り巻いている様子を描いたものもあるが、これは現在内部に敷かれている歩行者用の幅の狭い金属製の専用通路からは半分しか見えない。そこを何とか全体を撮影したいとねばったヘルツォークは、小型特殊カメラを棹の先に取りつけてどうにか全体を撮影する。そうした行為は、映画を鑑賞する人の立場を思ってもいて、微笑ましい。
また、洞窟内部だけの映像では退屈する、あるいは映画にならないと考えたのか、各種の学者へのインタヴューがたくさん挟まれる。骨学者や美術史家、音楽の学者やその他いろいろだが、フランスがあらゆる角度から徹底的にこの壁画と洞窟内部にあるものの調査に挑んでいることがわかる。洞窟内部はミリ単位で精査され、三次元の地図が出来上がっているというから、未発見の壁画はもうないのだろう。壁画は3万2000年ほど前に描かれたもので、当時も内部は真っ暗であった。そして、壁画が集中して描かれている場所は、洞窟の突き当たりで、下から水が涌き出ているが、この水は時に増水して、壁画を消し去った。なぜそういう場所に描かれたかと言えば、映像でよくわかったが、膣の奥とでも形容すればいいようなところで、描き手は豊饒の祈りを捧げるつもりがあったのだろう。ラスコーの壁画も奥深まった洞窟にある。女性の膣の奥から子孫が生まれ出て来ることは、人間にとって神秘の極地だが、それを外部に投影するとなると洞窟の奥でしかあり得ない。だが、豊饒への祈りの場となったのであれば、もっと大勢の男がそこに出入りし、神殿のような機能を持ったと思えるが、ショーヴェはひとりの男が描いたから、まだ祭祀を執り行うような集団を形成していなかったのだろう。ひとりが描いたものであるからには、それをもって当時の絵画表現の代表とみなすことは出来ないが、幸運にも無垢の状態で残されたこれらの壁画は、ヘルツォークが紹介するように、アニメ的でもあり、また写実で、単純化した抽象性も持ち合せ、全体としてダイナミズムがほとばしっていて、やはり当時の人間の共通した意識や画才を表わしているだろう。ほとんど現代画家が描いたものと思えるほどで、人類は3万年前にすでに美術を完成させていたと見てよい。これは洞窟内から発見された縦笛にも言える。五音音階を奏でられるその笛は、素朴とはいえ、音楽が日常にあったことを示す。
話が前後するが、洞窟内には絵具をつけて捺した掌の跡がいくつもある。小指が少し曲がっていて、それも壁画の描き手とは異なる人物が全部つけたものとされる。同じような手の跡をつける行為、あるいは岩に絵を描くことはアボジリニが行なっている。この映画でもそれが紹介された。アボジリニの壁画は、消えかかるとまた新たにその上に描く。このことを映画の中である人物がアボリジニに質問したところ、自分は何も上描きしていないと答えたという。大昔からごく自然に加筆され続けていて、それは西洋人が思う描き直しではないのだ。アボリジニの壁画とショーヴェのそれがどう関係するかと言えば、ヘルツォークはそこまで踏み込んで意見を語っていないが、大昔の人々は目に見えるものより、目に見えない精霊を内面にはっきりと見ていて、それが壁画になったことをインタヴューされる人の言葉を借りて言っているように思える。すなわち、人間を指すのに「ホモ・サピエンス(知恵のあるヒト)」という表現は好ましくなく、「ホモ・スピリタス(霊のあるヒト)」がよいという意見だ。これはもっともだ。だが、人間がその霊に突き動かされて現代という世界までやって来たとして、さてその霊性が3万年前のヒトに比べて発達したか衰えたかとなると、これはもう大概の人は後者を思うだろう。ヘルツォークがこの映画で言いたいのもおおよそそんなことにあろう。ヘルツォークはいつも人間を考えることをテーマにした映画を撮って来た。そのため、ショーヴェ洞窟はよくぞヘルツォークが生きている時代に発見されたと思う。これまでのヘルツォークとの関係から何かこの映画で見える眼差しがないかと言えば、それは用意されている。洞窟があるのは、壁画が描かれた頃と変わらない、近くにある独特の景観だ。大きなアーチ型の岩が、水をたたえる峡谷の上に虹のようにかかっている。そこをヘルツォークはドイツ・ロマン派が好む風景と言い、壁画を描いた人物はそのアーチ型の岩が水の上にかかる景色を見て、その洞窟内に描くことを決めたと想像する。それほどに魅力のある絶景で、そこをどのようにして撮影したのか、映像はそのアーチをくぐって鳥のように飛ぶ。カメラの前方に鳥たちが四方にばらばらと飛び去って行く様子が見え、3D眼鏡を通ずると、そのアーチくぐりの瞬間は特撮映像のように楽しい。
さて、この南フランスにある洞窟壁画から直線距離で80キロだったか、さほど遠くないところに原子力発電所がある。この映画は2011年に公開されたが、撮影は東日本大震災の前ではないだろうか。となると、この映画は日本人が見るには大いに意義がありはしまいか。フランスは原発大国だが、福島原発の事故後に原発を撤廃することを決めたドイツの映画監督が、この映画の最後に原発の稼動を撮影するのはどことなく風刺が利いており、これまたいかにもヘルツォークらしい。原発の映像は本編が終わった直後の編集後記的に添えられ、ヘルツォークのまとめが述べられる。そうそう、洞窟内には4名ほどしか一度に入ることが許可されず、ヘルツォークはひとりで何役もこなすために洞窟内に入り、その姿が多少映る。中に入った者ならば誰しも思うように、誰かに見られている思いが去らず、外に出た途端に安堵するとのことだが、そういう洞窟内にいるかのような思いになるには、明るい部屋で見るDVDではよくなく、やはり映画館に限る。そこをヘルツォークはこの映画で強調出来たことを得意がっているようにも思える。話を戻す。発電所から出る熱によって発電所のすぐ近くで熱帯植物を植えた温室が運営されている。その中の池には鰐をたくさん飼っているが、突然変異で真っ白なアルビノが生まれ、それが増えている。ヘルツォークは想像する。3万年経って、その鰐がショーヴェ洞窟に到達し、現在とは全く違った文明を作っていない保証はない。壁画に描かれている動物たちはみな今はヨーロッパにはいない。3万年でそこまで変わったからには、さらに3万年後がどなっているかは誰にもわからない。先日書いたキャプテン・ビーフハートの「人間トーテム・ポールの1010日目」と題する曲の歌詞も同じようなことを歌っていた。一方、日本を見ると、1000年前の大地震を忘れたために、昨年の巨大地震でとんでもない被害を受けた。『3万年前や先のことなんかどうでもいいじゃん』という声が大勢を占めるし、この映画を見て悠久の時に思いを馳せる人も少ないのだろう。