桂川の左岸を1万数千人が一斉に走る京都マラソンが2週間前の日曜日にあった。その日、筆者は初めて右京図書館に自転車で出かけた。
三条通りを東に向けて走り、図書館が入る新しい建物が見えようかという時、強風に煽られて、空からハンガーに吊るした1枚の青いシャツがふわふわと落ちて来た。それがちょうど筆者の目の前に落ちたのは、幸いにも信号が赤になった時だ。即座に拾い、それが干されていたマンションの中に入って管理人に手わたそうとした。ところが休日で管理人は休みだ。仕方ないので、その部屋のドアのノブに吊り下げた。翌日には持ち主の手元に戻ったと思う。それはいいとして、自転車で出かけたのは午前10時過ぎ、京都マラソンは終わり、その気配はどこにもなかった。図書館からの帰りは今までに通ったことのない道を走り、午前中に大勢のランナーが走った桂川左岸の罧原堤に至ったが、つい数時間前に1万数千人がそこを走ったとは思えない、いつもどおりの風景であることに妙な気分になった。かなり以前から当日はマイ・カーを控えるようにとの達しがあったので、大きなお祭り騒ぎになるかと思っていると、TVはどこも1年前の巨大地震関連の番組ばかりで、KBS京都でもマラソンの中継はなく、ニュースでごく簡単に紹介しただけであった。自治会の体育委員などは罧原堤で応援し、それなりにたくさんの人々で沸いたはずだが、家にこもっていると、それがわからない。このことは、重要なことがごくそばで起こっていても、それに接することがなければ存在しないも同然であることを物語る。去年の巨大地震は何度も映像がTVで流れるのでまだそういう気分にならないが、報道されなければ同じことになる。ほんの2時間かそこら前に大勢の人が走った道がその気配を何ら伝えないほどに普段どおりの様子に戻るのと同じことは、毎日至るところで、どの人にも生じている。関心がない、また出会える機会に恵まれなかったという理由によって、物事が後の祭りとなる。で、話が変わるが、このブログは、映画に関しては古い作品について書くことが多い。それは古い話題であるから、今取り上げる必要はなく、またその意味であまり読む気を起させないだろう。だが、いつでもよいものを今ここで取り上げることは、そのいつ取り上げてもよいことが無限に存在することからすれば、やはり縁としか言いようがない。そう思えば、今ここで書いておくことは、おおげさに言えば運命ということにもなろう。また、これは読者にはわからないが、筆者の内部では他の話題と関連があったり、ブログには書かない事柄と密接につながっていて、その感想を書くことは今でなければならないという必然がある。偶然に見えてそうではないということだ。
京都文化博物館の映像ホールはフィルム・シアターと呼び名が変わり、また座席も昔の映画館並みには改良されたので、以前にも増してここで映画を見ることが楽しみになった。とはいえ、いつも展覧会のついでに見るから、年に数回といったところだ。先週家内と訪れた。1日ずらしてもよかったが、それは今日取り上げる映画をぜひとも見たいからではなかった。ネットで調べると志村喬特集をやっているのは知っていたが、どれも見たことがないので、どれでもよかった。シアターは30分前から扉が開く。そのことを計算して展覧会を見、30分前にほとんど一番に入って一番いい席に座った。その時点でもまだどういう映画が上映されるのか知らなかった。断っておくと、このシアターで上映される映画は、基本的にはフィルムを所蔵する邦画ばかりで、DVDでも入手出来る。筆者は映画はなるべく暗い中で大画面で見ることを好むので、関心があってもDVDで鑑賞することはあまりない。どうせ見るなら昔上映されたのと同じようにスクリーンで大勢の観客に混じって見たい。今では5.1チャンネルといって、家で映画館並みの音を再現することが出来るが、そこまでして家で見たいとはあまり思わない。祇園会館は招待券のばら撒きが禁止されたこともあって、今は大半の日がヨシモトの漫才を上演し、筆者としては格安でスクリーンに接する機会が大幅に減り、この京都文化博物館だけがせめてもの場所となっている。古い映画ばかりであるのが欠点と見る向きもあるが、古い名作を全部見ているはずはなく、筆者にすれば新しい駄作よりはるかに古い未見の作がよい。亡くなった友人Nは映画狂で、しかも新作専門であった。筆者がたまに古い作品について話すときょとんとしていたが、晩年はDVDを買って古典も見ていたようだ。その古い名画に関してNがどう思っていたかを話す機会に恵まれなかったが、筆者より1歳年長では筆者の感じ方と同じであったろう。もちろん人間が違うので感じ方は異なるが、筆者が言うのは、同時代を体験したことによる映画に流れる当時の雰囲気だ。これは、先に書いた京都マラソンで言えば、筆者は確かにランナーたちを当日ひとりも見かけはしなかったが、マラソンが開催され、どこをどう走ったかなどの情報は得ており、その情報によって一種の想像的な追体験をすることは出来る。それは実際に見たものではないので、皮膚感覚的なものとはなり得ないが、少なくても同じ場所に立つことが出来るから、後ではあっても祭り気分を思い描くことは出来る。そして、それは身近に起こっていたことに実際に接することではなくても、同時代かつ同じ場所という共有の気分を持たせる。そう思えばこそ、筆者は日本の古い映画が面白く、またそれは年齢を重ねるほどにそう思える。
『酔いどれ天使』が黒澤明の作品であることは10代の昔から知っていた。それがようやくこの歳になって見ることが出来た。前知識なしに見てさすが黒澤と唸り、また時代の産物だとも思った。昭和23年の映画で、筆者が生まれる3年前だ。その頃の東京の下町の空気は知らないが、この映画に流れている空気は、昭和30年代前半の大阪にもあった。当時の10年は大きいが、都会の貧しさは同じで、この映画に見える街を形成する要素は、大阪にもあった。その点で懐かしさをまず感じさせる。まず驚くのは、戦後わずか3年目にして、当時の風俗を主題にこうした映画を撮った黒澤の手腕だ。それは常人の域を全く越えている。プロと言えばあたりまえだが、ひとりで本を書いたり絵を描いたりするのとは違い、また公開して収入を得、採算が取れることを第一義に考えねえばならないという、大きな賭けのような行為に晒される当時の映画監督の置かれた立場を思う。この興行的側面は今の映画でも同じだが、娯楽が少なかった戦後直後、大勢の人を文句なしに楽しませるという条件は、今とは大いに違って監督のひとりよがりは許されなかった。これは監督に映画を見る庶民への信頼とでもいうべきものがあったからだが、今は映画製作者はごく一部の物好きだけを相手にしてもよいという立場が大きくなり、その点で映画は黒澤時代とは違って、絵画や音楽のように、もっと芸術的になったと言ってよい。ただし、本当に芸術的なものはごくごく稀だろう。黒澤の映画が芸術的ではないと言いたいのではない。画家になってもよかったほど絵がうまかった黒澤は、絵画では表現出来ない何かを映画に認め、自作の映画が芸術的でもあると思っていたであろう。それはひとりよがりは許されず、多くの条件や制約の中で最大限の効果を発揮するという、一種の職人技で、作品はどこをとっても見事な仕上がりを見せる。無駄なものは一切なく、完璧と言えばこれほど完璧なものはない。その点がまさに芸術的だが、芸術は完璧を越えた不完全的をも内蔵する完璧なもので、その謎めきといってよい部分はこの作品にはない。
さて、内容を簡単に紹介しよう。主役の志村喬は眞田という町医者を演じる。アル中で、医薬品のアルコールを水で薄めて飲むシーンがある。戦争が終わって3年ではそういうこともまだ多かったろう。また、戦後の闇市とよく言われるように、東京の下町には多くの店が出来て、そこを取り仕切るヤクザが徘徊した。警察はいたが、ヤクザが商人や客の間でトラブルが生じないように見張っていて、表向きは平和に事が運んでいた。ただし、裏ではヤクザは抗争を繰り広げ、店を出している者はヤクザになにがしかのものを支払わねばならない。そういうちょっとした盛り場のすぐ近く、運動場ほどの大きさの沼があり、ゴミがどんどん運ばれて少しずつ埋め立てが行なわれている。その沼のほとりに眞田の町医院がある。当時は結核患者が多く、その患者を数名抱えるだけで町医者は食って行くことが出来たという話が眞田から語られる。これは国から補助金が出たためであろう。眞田は不精髭に丸い眼鏡をかけ、晩年の風貌とは違って豪快な印象だ。眞田を指す「酔いどれ天使」は、貧しい患者に篤く面倒を見るからだ。眞田とは対照的に、元同僚で大病院の医院長が少し登場する。眞田はその医者を別に責めてはいないが、金儲け主義の医者が多いことに不満をもらし、そういう連中は医者ではないと吐き捨てる。黒澤には『赤ひげ』という同じ医者ものの作品がある。聖職の医者に対しては関心が大きかったのであろう。眞田は独身で、中年の女性を受付として雇っている。この女性は、沼向こうの盛り場をかつて牛耳っていたヤクザの岡田に囲われていた。岡田はある人物の顔を刃物でめった切りにした結果、数年留置場暮らしをし、映画はちょうど岡田が出所する時期から描かれる。ある日、受付の女性は眞田に対して、岡田が出所して来れば自分はまた昔の悲惨な生活に戻らねばならないのかと相談するが、眞田はその必要はないと言下に否定する。ある夜、掌に銃弾を食らったヤクザが医院にやって来る。三船敏郎演ずる松永で、沼向こう一帯を任されているヤクザだ。眞田は傷の手当てをしながら、松永が結核を患っていることを察知する。そうしてふたりの交流が始まる。松永は眞田の指示にしたがわず、何度となく暴力を振るうが、眞田はへこたれない。ようやく松永は眞田が紹介した大病院でレントゲンを撮るが、病状はかなり悪化している。そんな時、出所した岡田と眞田が出会う。眞田はその風格に尻尾を巻き、兄貴と呼ぶようになる。ダンスホールや賭場など、夜の世界が描かれるが、これらは見物だ。笠置シズ子がダンスホールでビッグ・バンドを背景にブギを歌う場面があるのは、後年の有名歌手が登場する映画を予告した娯楽だ。また、眞田の肩幅を大きく仕立てたズート・スーツっぽい身なりや、夜の女たちのドレスやヘア・スタイルなど、昭和30年代になっても残るケバさも面白い。昭和23年にすでにこうしたヤクザが支配する世界があったことに今さらに驚くが、進駐軍がそうしたものを持ち込み、あるところには何でもあった。そういうことを、そうしたこととは無縁の当時の人々が見て感心いたのではないか。
岡田を演ずるのは山本礼三郎という、当時40代か50代であろうが、本物のヤクザのように凄みがある俳優だ。岡田は松永をカモにして賭博で大金を巻き上げ、そして親分から松永が仕切っていた一帯を任される。そうなると現金なもので、小暮実千代演ずる松永の女は、さっさと岡田に乗り換える。そのドライな女を小暮は見事に演じている。喀血した松永は親分のとことに談判しに行き、マージャンをしている親分の話を陰で聞いてしまう。そこで眞田から諭されたように、松永が言う仁義がヤクザにあるはずはなく、みな金次第であることを知る。そして次に取る行動は岡田との一騎打ちしかない。これが凄まじい。ヤクザ映画といってよいので、こういう場面をクライマックスで持って来るのは、観客の期待するところであろう。映画ならではの醍醐味を見せるが、それはヤクザ同士の悲しい不毛の争いだ。観客はどっちが殺されるかとはらはらするが、どっちが死んでもよい。比較的長い戦いの後、岡田は松永を刺し殺し、岡田はまた刑務所に行く。当時はそれに似たことは無数にあったはずで、しぶとく生き残るのは、金をたんまり持った親分だけだ。そのヤクザ社会は今は形を変えて密かに行動しているが、金の匂いのするところにはどこでも出没する。黒澤がこの映画で言いたかったのは、ヤクザの空しさもあるが、映画では二度出て来る女子学生の結核患者だ。これを久我美子が演じている。眞田は松永に対して、『結核に怯えているヤクザは女子学生よりも小心者だ』と言う。松永が犬死にし、遺骨となった後、女子学生は完治した結核を示すレントゲン写真を持って眞田の前に姿を見せる。そして約束どおり、あんみつをふたりで食べに出かけるところで映画が終わる。黒澤が戦後日本の将来に託したかったのは、死の病とされた結核を真面目に治そうとした女子学生の生き方で、ここに多少の教訓臭が漂っている。それは、一歩間違えば松永のようなヤクザになっていたという眞田の思いの告白の場面にもある。戦争に負けて焼け野原になった東京で、将来ある生き方を目指すのであれば、ヤクザはもちろん否定される。だが、その紋切り的な表現は、松永と眞田の多少の心の交流が描かれたにしても、どこか物足りない。松永が思ったヤクザの仁義は遠い昔のことで、戦後はヤクザ社会も含めて全く金本位の世の中となってしまったことをこの映画は突きつけてもいる。その見方は、金を払って見る映画はそれなりの満足度を与えねばならず、それを考えた場合、大多数の真面目な人のまともな考えに賛同するするしかなく、またヤクザが死んでまっとうな人が結核も完治するという結末が歓迎もされたであろう。映画は多くの人が見ることで成立する作品であり、多くの人の考えを保証しなければならない制限がある。それは娯楽的側面と、まっとうな社会に導く教訓的な表現が合わさったものだ。黒澤はこのふたつをどの作品でもバランスよく、無駄なく、そして実に見事な形で、退屈させずに見せたのではないか。そこまでサービス精神のある監督はもう生まれないだろう。その必要もないとも言える。限りなく個人のつぶやきのような映画がかえってもてはやされたりするのではないか。