義務感からではないが、わざわざ時間を作り、お金を払って見たものについては、このブログに感想を書いておきたい。一昨日は今後書くべきものを紙片に列挙した。
10日分になったが、何か忘れている気がする。それを今日電車の中で思い出した。そのようなありさまであるから、無理して書いてもろくな内容にならず、自分でも楽しめないだろう。だが、書くと決めれば、不思議にすらすらと出て来る。毎日書いているためであろう。ボケるのは早いと思っているが、書く気力のある時にせっせと書いておくべきだ。やがてそれも出来なくなる。そして、現在のように毎日長文を書いていた時こそが、元気であったことを実感するようになる。その実感する人はこれを読む人だが、本当を言えば、読者のことは何も考えていない。たまたま目に触れて読む人があるだろうが、そのことで書くことが左右されることはない。勝手に書き、勝手に読まれる。それだけのことだ。さて、ここで取り上げる対象は、鑑賞して1か月以内が限度ではないか。それ以上経つと読者にとって鮮度が落ち、筆者も忘れる。今夜の内容はほとんど1か月前に京都国立博物館で見た。書く機会を失いかけたが、今夜半ば無理して書いておく。無理というのは、先日書いたが、この展覧会のチラシを所有しておらず、また図録を買っていないので、詳しく書くことが出来ないためだ。だが、チラシはなくても、会場内に置いてあった作品目録は手元にある。文字だけなので、題名から作品が思い浮かぶものもあればそうでないものもある。ところが便利なことに、京都国立博物館のホームページを見ると、本展の説明が見られる。期間限定かもしれない。次々と新しい企画展を開催するから、そうそう過去のそれらを全部いつでも見られるようにはしないだろう。何しろ図録に展覧会の内容はしっかりまとめられているから、美術館としてはそれを見てほしい。図録の売り上げが経営を左右するので、ホームページに図録の内容をそのまま全部掲載することはない。話が戻るが、このカテゴリーは、なるべく展覧会がまだ開催中に取り上げる方が読者には親切でよい。そう思いながら、たいていは終わってからになる。これも筆者が読者のことを何ら考えていないことを説明する。この読者というのは、見知らぬ人だ。誰しも見知らぬ人に思いを寄せることは出来ない。ネットは基本は孤独な世界だ。そこで知り合い、実際に会って初めてその孤独の雲が晴れる。だが、そういうことが現実にたくさん生じているのだろうか。筆者は毎日ブログを書くのが精いっぱいで、ほとんど他人のブログを見ない。それはネット上の他人と絆を形成したいという思いが希薄であるからだろう。どうでもいいことを書いてしまった。先に進もう。
去年1月から今年2月終わりまで、関西では中国書画の展覧会が9会場で17回開催された。今夜取り上げるものはそのひとつだ。この全17回のうち、四日市の澄懐堂美術館で開催されたものは、以前に岐阜や名古屋に行くついで立ち寄ってもいいかと思っていたが、結局そうしなかった。四日市に行くにはかなり不便で、時間的に難しかった。そういう企画展でもなければまず四日市に行くことはなく、また次の機会と思っていながら、それが10年ほど、あるいは一生なかったりする。ついでに書いておくと、上記9会場でまだ行っていないのは、和泉市久保惣記念美術館、近江市の五箇荘にある観峰館、西宮の黒川古文化研究所、そして藤井斉成会有鄰館だ。久保惣記念美術館は泉州なのでなかなか訪れる機会がない。観峰館はもっとだ。黒川古文化研究所には昨年秋に行こうかと思ったが、駅からバスで行かねばならず、その不便さに諦めた。有鄰館はすぐ目の前が京都国立近代美術館で、40年前からその前を何度も歩いておきながら、開館日がごく少なく、行く機会がない。このように、関西には中国美術を楽しめる美術館が比較的多いにもかかわらず、利用するには不便なところが多く、そのことが日本における中国美術の立場をよく示している。これがフランスの印象派の絵画となれば、おばさんたちが団体となってバスで押し寄せるが、中国美術はそんなことにはならない。愛好家はごく限られていて、西洋画のファンとは接点もあまりないのではないか。だが、中国は日本と違って清時代に西洋科学を取り入れ、また宣教師が入って宮廷画家にもなったので、中国絵画と西洋絵画のつながりの歴史は日本以上にある。ところが、あまりにも原則が多く、独自に発展した中国絵画が、自らの力で西洋画を取り込んで新たな地平を切り開くことは出来なかった。伝統の重圧が大き過ぎたのだ。その点、日本は常に外来文化を取り込み、それを消化する技術には長けて来たから、明治になって中国相手に戦争をし、それに勝利してからは、それまで中国の芸術を崇拝していた態度が一変し、もっぱら西洋に学ぶことになる。変わり身が早いのだ。それは物事をすぐに忘れることでもあって、とにかく「軽い」ことが日本の特徴だ。その軽さを愛好する態度が、今の漫画王国につながっている。ともかく、中国から学ぶものはもはやなく、西洋から積極的に科学や芸術を学び、早く列強に伍するのでなければ、中国のように国がいいように蹂躙されてしまうという恐れがあり、結果的に明治維新を成功に導く。一方の中国はそういう日本に遅れを取った。「軽さ」とは正反対の重厚で長大な歴史や文化の中国は、小回りが利かず、西洋に学ばねばと思った時には、すでに日本がそれをやっていて、日本に学ぶ方が手っ取り早いと考えるようになった。このつけ刃とでもいうべき態度は、当然混乱をもたらし、後に深刻な問題を引きずることになる。現在の中国美術はざっと言えばそういう状態にある。
ところが、現在の中国は経済発展を遂げ、また現代美術家を多く輩出して欧米で人気を誇る者が出現して来た。それらは中国の重くて長い歴史文化とは無関係に見えるものからそうでないものまでさまざまだが、半世紀もすれば美術史家がすべてをうまく理由づけして中国美術の歴史に組み込むに決まっている。それは、これまでの中国美術では語られることがなかった別の側面をあぶり出す可能性を持っている意味において興味深いが、さて、そういう才能が現われ、また過去の美術論にうまく適合しながら新解釈が出来るほどに、古き中国美術における決まりが、作家に束縛を強いて来たものでなかったは疑問でもある。日本は中国美術に学びながら、その学んだものが輸入された限定的なものであったこともあって、影響を受けても独自性を発揮することが出来た。これは朝鮮でも同じだ。日本よりもっと圧倒的な文化の影響を受けながらも、朝鮮の美術はやはり中国とは違う。一方の中国は自分たちが世界の中心であると思っているから、周辺国に学ぶ気はない。それは今も同じだ。そのため、経済大国になったからには、ますますそうなって、自国の芸術や文化に誇りを持ち、海外に流出した作品を買い戻そうとしている。現在の日本の美術骨董業界は、中国の金持ちがせっせと日本にある中国美術を買うことで潤っているといわれているほどで、それは日本の観光業界も同じだ。
日本が中国美術に憧れてそれを買い求めたことには1000年の歴史があり、また明治以降に往来がたやすくなって、大量の中国美術がもたらされた。それは中国の美術品が日本の茶道にも使えたからだが、もちろん古来憧れが強かった。この尊敬の態度は今も中国美術ファンにおいては変わらないが、それは清時代までの作品に限られるだろう。それ以降は、前述したように、中国は日本に留学して日本人画家に学んだため、あまり見るべきものがないと考えているのではないか。あるいは、それらは清以前の美術とは一線を画するもので、別の鑑賞眼が必要だ。ただし、そうも言えない部分がある。それは、日本が明治になってそれ以前の美術とはがらりと違うものを生んだのと同じように、中国なりの革新さ、実験性が顕著で、それはそれで時代性も反映して面白いからだ。そして、そういう近代作品は現在の中国では空前の価格となっている。それを一概にバブルのせいとは言えないであろう。たとえば、中国近代絵画の祖とされる徐悲鴻や、彼から推薦を受けて芸術大学で教えることになった斉白石の作品が、中国史上最高価格で作品がオークションで落札されているが、そうしたことは中国が近代を歴史に組み込み、ようやくまともに評価出来る余裕を持ち得たことを示してもいるだろう。そして、中国近代絵画が歴史の文脈に組み込まれ、評価が高くなっているその延長上に、世界的に活躍する現代芸術家たちがいる。そういう動きを見て思うことは、日本も世界的に有名な現代の作家がいるが、その反面、江戸時代やそれ以前の美術がほとんど浮世絵以外は評価されていない現実だ。せっかく経済大国になったというのに、古い文化の紹介や価値づけが積極的ではない。若冲が国内でいくら評価されようと、世界にまで広がらない。それではいつまで経っても日本の美術は中国に劣り、取るに足らないものと思われるだろう。
さて、今回の展覧会は、3,4年前だろうか、同じ京都国立博物館で開催された斉白石展と同じ作品がたくさん並んだ。つまり、所蔵品を主に並べた点で、新鮮味がうすかった。ただし、斉白石展に関してはこのブログに書こうと思いながら機会を逃したので、今回は本展について書くべきだと考えた。日本に斉白石のまとまったコレクションがあることは、中国人にはうらやましいであろう。なぜ日本に中国近代絵画がたくさんあるかと言えば、先に書いたように、日本は明治になっても中国美術に愛着を持ち続け、積極的に購入したからだ。京博の中国近代美術コレクションは、外交官であった須磨弥吉郎が収集したもので、彼は斉ほか、気に入った画家の作品を多数購入した。いつの時代でも美術に興味のある外交官がひとりやふたりいると思うが、須磨はいい時期に中国に赴任した。また、斉は日本人相手に一文字いくらで印章を彫る広告を雑誌に出すなど、日本ではよく知られ、作品も多い。そういう作品が少しずつ中国の金持ちによって買い戻されている。それほどに中国にはいいものが残っていないのだろう。そのため、須磨コレクションは中国で今後評価が高くなるかもしれない。また、斉を有名にするきっかけを作った徐の作品は、評価が著しく転々としながら、今は落ち着き、近代絵画の父とされている。徐は最初日本に留学して油絵を学び、そしてフランスに行った。そこで最先端の美術に触れながら、それに関心を示さなかった。それほどに中国人の意識が遅れていたのは、中国絵画の伝統の重みのせいでもある。徐はリアリズムをもっぱらとし、一方で水墨画も手がけるが、水墨の近代性に関してはすでに日本では竹内栖鳳が行なっていた。また、斉の絵画は、八大山人の追随的な水墨から、極端に幾何学的な形態を表わす山水画、また派手な絵具を用いたいかにも近代的な淡彩画といったものまで多彩だが、そこにも古いものと新しいものに揉まれて一種支離滅裂になっている様子が見える。斉の作品は、見慣れない間は、そのどこか社会主義的な、そして中国大陸の茫洋とした白々しさとでも言うような画面に戸惑うが、一旦その持ち味がわかると、当時を代表する才能に見えて来る。
他に有名な画家として、高剣父がいる。上海の人で、そこで活躍する画家は海上派と呼ばれた。中国は広大であり、地域によって美術の特色が大きく異なる。上海は外国の文化の流入場所で、それだけ先進的な画風が生まれた。剣父はなかなか奇抜な実験をした画家で、今は評価が高い。だが、どこかその際物的なところは、中国近代美術の底の浅さのようなものを感じさせる。これは致し方のないところかもしれない。日本に比べて美術どころではなかった時代であり、また一気に流入した西洋画の前で何をどう表現すれば、伝統の延長に即し、また当時の美術愛好家に評価されるかがわからなかった。今回は剣父の作品が香港芸術館から6,7点ほどやって来て、これが一番の見所であった。また、文人画家の系列として、呉昌碩を見逃すことは出来ないが、京博には森岡コレクションとして10点ほど入っていて、今回それが並べられた。そして中国近代絵画を云々する場合に欠かせない日本画家の作品も展示され、明治になっていかに日中の美術が交差したかがわかる展示となっていた。その交差の期間は歴史的に見ればごくわずかで、中国は早々と独自の道を歩んだ。もっと大規模な中国近代絵画展の開催はこれからであろう。だが、そうした展覧会が中国で開催されるとして、はたして日本画家からの影響をどう評価し、展示するだろう。その程度の具合によって、日中関係の良好さが推し量られるように思う。また、筆者が興味あることは、中国の近代画家が明治の日本画家の作品を見たとして、それ以前の絵画をどう思ったかだ。日本は中国に憧れ続けたにもかかわらず、中国は日本に対してそうであったのは、明治のごく一時期だけとすれば、それはさびしい。また、仮にそうであったとして、次に思うことは、現在の日本の漫画やアニメを中国がどう見ているかだ。羨望の眼差しを抱いているとすれば、そこから遡って、中国の影響を受けたと彼らが思っている明治以前の美術を見つめるべきであろうし、それをどう評価するかという問題が残っている。その意味で、日中の美術の関係は、お互いがより関心を抱くことで今後新しい視野が開かれるかもしれない。