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●『宮沢賢治・詩と絵の宇宙―雨ニモマケズの心』
沢賢治の展覧会は2年前に神戸の百貨店で見た。その感想を書いたと思っていたが、今調べるとそうではないことがわかった。それで今日は昨日見たばかりの賢治展について書く。



●『宮沢賢治・詩と絵の宇宙―雨ニモマケズの心』_d0053294_2231864.jpg大丸京都店市場烏丸出店100周年記念と銘打たれ、京都のみの展示のようだが、次は横浜で展示される。2年前の展覧会のチラシは探せば出て来るが、その時間がない。実は今夜は別の展覧会について書くつもりで、そのチラシを探したが、30分経っても出て来ない。その書くつもりであった同展を見終わった直後、館内から外に出る時、同展のチラシがチラシ・コーナーに置かれていた。所有していると思って持って帰らなかった。いくら無料であっても、持っているものをもう1枚持って帰る気持ちが筆者にはない。だが、持っていると思ったのは勘違いで、そのチラシがないことには感想を書くのにあまりに手間取る。それで今夜は昨日の宮沢賢治展について書く。2年前に比べて賢治の生涯に関する資料展示ははるかに少なく、まず「雨ニモ負ケズ」の詩へのオマージュ作品、次に賢治の童話に対して現在の画家が描いた挿絵の原画が中心になっていた。それらは童話一作品当たり3,4点で、各童話の概略の説明がそれぞれに添えられていた。これをつぶさに読みながら絵を鑑賞すると、2時間近く要する。それほど大量の作品の展示であった。最後の部屋を見ている時、自治会の総会の時間が迫っていることに気づき、数話の童話や映像コーナーを見ることが出来なかった。総会には帰宅後走って駆けつけ、開始時刻1分前に到着した。それはともかく、今回の展覧会は、副題がいみじくも暗示しているように、東日本大震災後、賢治の作品がまた注目されていることに因む。東北の代表的文化人となれば何と言っても賢治賢治であり、その作品を改めて味わうことで、元気をもらおうということだ。まず、展覧会の要となった「雨ニモ負ケズ」の詩は、筆者は小学3年生頃に学校で習った。今はどうなのだろう。その詩を子ども心ながらに気高く美しい心のものだと感じたが、これは誰でもそうだろう。筆者の賢治体験はほとんどそれのみに尽きる。たくさんある童話はどれもまともに読んだことはない。その理由は、「雨ニモ負ケズ」で賢治の精神の奥がすべてわかると思うことと、東北は、そこに身内や知人が住んでいない限り、大阪人には遠く、関心を抱きにくいことによる。これは東北人が多く住む東京であれば違うだろう。そして、賢治の作品は関西よりも関東でよく読まれ、また歓迎されているように思う。だが、それは他の誰にも訊かない筆者個人の想像で、京阪神にも熱烈な賢治ファンがいて、東北に何度も旅をしている人は当然多いだろう。そうであるために、この展覧会が京都大丸の出店100周年記念として開催されもする。会場には思った以上にたくさんの人が入っていた。
 「雨ニモ負ケズ」で最もよく記憶するのは、「寒イ夏ニオロオロ歩キ」という下りだ。これは東北の米作りの地に冷害があれば悲惨なことになることを表現している。学校でこの詩を教わった時には、冷害についても学んでいた。そして、その冷害があれば娘を身売りさせることもあるなど、何とも残酷なことが行なわれたことも知ったが、そのように東北のイメージは、寒くて貧しいということが今なお筆者に固定観念としてこびりついている。筆者は茨城より北に行ったことはなく、東北はさっぱり知らない。今は賢治の時代と違って裕福になっていると思うが、去年の大震災を思うと、やはり東北は悲しい土地であるとの見方を強くする。「雨ニモ負ケズ」は困っている人を助ける内容に溢れていて、その人助けの精神を、今は「絆」の言葉の下、日本全体が持つべきものと思われている。そのため、去年の地震がなければ今回の賢治展がなかったであろう。だが、今回の展覧会はことさら大地震と結びつけて構成されず、地震とは無関係に賢治の世界を再認識するための内容となっている。伊丹市立美術館ではよく童話の原画展を開催するが、同美術館で開催するにふさわしいものだ。「雨ニモ負ケズ」に触発された作品には、まず棟方志功の版画による「雨ニモ負ケズ」があった。同じ東北人として、棟方は賢治のこの詩を版画にしておく義務を感じたであろう。10数点の組作品で、どれも小品だが、力強い彫りによる文字に仏の絵を配して、賢治の法華経に基づく精神を表現していた。「雨ニモ負ケズ」は賢治没後まもなく、大きな石碑が高村光太郎の揮毫によって建てられた。今回はその拓本ではなく、光太郎が書いた文字を掛軸仕立てにしたものが初展示された。説明によると、詩は長いので、全部書いて彫ることはせず、後半だけでも充分意味が通ずると判断され、光太郎は後半部のみ書いた。ところが、彫り上がってから4か所ほど文字の洩れがあることがわかった。光太郎は憮然としたという。その訂正追加文字は、石碑では行の合間に小さく彫られているが、光太郎の書には追筆されていない。なぜそのような訂正が後になってわかったかだが、賢治は手帳に記したまま没し、それを後に原稿用紙に浄書する際に賢治が施した推敲の文字を隅々まで読まなかったのだろう。賢治は生前から有名な詩人たちに存在が知られ、没後に「雨ニモ負ケズ」の石碑が建立されたのは当然と言える。「雨ニモ負ケズ」に因む作品は、他に書家のものが2,3あって、井上有一の作品がそこに含まれていたのは嬉しかった。
 賢治は自分のことを「サイエンチスト」と認識していたようで、これは童話を読めばわかる。また音楽好きで、農民も芸術を愛好せねばならないと考えていたが、賢治の人気が不動のものであるのは、科学に接近するかたわら、仏教の心を忘れず、しかもそれを童話や詩、そして時には自ら絵を描くという芸術作品に表現したためだ。科学者で絵もうまいという人は今もいるだろうが、人や生物を憐れみ、篤い信仰心を併せ持つ点に関してはどうだろう。今は科学が発達してかなりひとり歩きしている感があるが、賢治が思うそれは、たとえば田畑にどういう化学肥料を施すかといった、農民に役に立つことを本位にしたものだ。そういう農業化学はもちろん今もあって、賢治の思いは伝達され続けているが、賢治の時代よりもはるかに経済性が考慮され、悪く言えば田畑から収奪出来る限りのものを要領よく得ようという態度ではないか。遺伝子操作された種子を蒔いて作物を育てるなど、賢治の想像をはるかに超えたことが行なわれ、そのことで人類は新たな不安を抱えるようになっている。冷害に強い稲の研究者についても小学生3,4年生の頃に学んだが、その果てに遺伝子操作の作物の思想が芽生えたのではないか。賢治が生きているとそのあたりのことをどう思ったであろう。賢治は37歳で夭折し、その若さによって悲劇性がまとわりつき、より有名になったと思える。だが、賢治が80代まで生き、どういう仕事をしたかと考えることは意味がなく、それより賢治の思想を反芻して、それを現在がどうつながるのがそうでないかを吟味しなければならない。そこで問題となるのはやはり仏教心だ。賢治は死ぬ間際に、遺族に対して自分が死ねば国訳の法華経を1000部印刷してほしいと伝えた。この法華経と賢治との関係は、昨年だったか、日蓮展でも多少紹介された。だが、賢治から日蓮に興味を抱く人はどれほどいるだろう。宗教の重要性は認識しながら、そのアレルギーが増加して行ったのが賢治没後のこの80年ではないだろうか。その間に新興宗教がたくさん出現し、またオウム真理教という賢治には考えられない集団が芽生えるなど、賢治が思ったようには法華経を見つめられない人が多いように思う。だが、それを危惧する必要はあまりない。「雨ニモ負ケズ」を読めば法華経、そして仏教が言わんとすることがわかると考えてよい。また、それは人類共通のものであり、であるからこそ、賢治の作品は世界中で翻訳されている。「雨ニモ負ケズ」の英訳は「STRONG IN THE RAIN」とあったが、玄米や味噌といった言葉を英語に訳して賢治の時代の東北がイメージ出来るだろうか。それはさておいて、賢治の心が外国人にも伝わるところに、単なる詩人を超え人類愛の思想家と認識されていることを思う。
 さて、会場の大半は、賢治の童話につけた絵の原画で、その原画作家はスズキコージといった有名どころから、童話の内容を絵解きするのではなく、抽象画で表現した現代美術家のものも目立った。それほどに、賢治の世界を慕う作家が多いことに認識を新たにする。賢治の童話を読んでいないので何とも言えないが、賢治の世界とはあまり馴染まないと思わせられる絵も少なくなかった。だが、そのことは自分ならばどう表現するかという問題をすぐに突きつけるので、この展覧会は絵を描く人が見るとよい。賢治の童話の絵本は図書館に行けばすぐに何冊も手に取って見ることは出来るが、今回はそうした本の原画を可能な限り一堂に並べているはずで、手短に現在の賢治の世界に対する豊富な視覚的解釈が眺められる。賢治の作品にどういう絵を添えるかは、賢治の思想にどこまで肉薄出来るかでもあって、また一方では子どもが見ても楽しく、印象深い画風が求められる。この難題の前に今後も挑戦する作家は後を断たない。そうした絵本作家のひとつの手本というか、ヒントとなるものが、賢治が描いた絵だ。「日輪と山」という、ノートブック程度の大きさの水彩画が代表作で、2年前の賢治展にも並べられた。青い富士山のような山の頂上に赤い太陽が描かれていて、写実的ではあるが、抽象とも言える。この絵の世界に近い画風を持つ作家は誰だろう。絵本作家から見れば素人っぽい拙い作品に見えるかもしれないが、芸術家であった賢治は東北にいても時代の空気を敏感に吸っており、筆者には今回並んだどの絵本作家のものよりも興味深い。他に電柱男や装飾的な抽象模様が大半を占めるカラフルな作品など、ごくわずかしか絵は残っていないが、本当はもっとたくさん描いたであろう。「雨ニモ負ケズ」を記した手帳は今回も展示された。そこに見える文字は、即興で綴ったことが明らかで、その筆跡にもまたどの書家のものより神々しさを感じる。賢治の一番の理解者は妹であったというが、24歳で病死した。賢治の悲しみの深さを想像しながら、それが去年の大震災で大勢の東北の人が味わったことを思い出す。東北が悲しい土地であるからこそ、賢治のように法華経を強く信仰する人が出たのだろうか。物が溢れ、それを消費する一方の大都会では、信心の必要がないかもしれない。
by uuuzen | 2012-03-17 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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