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●「HELP ME,RHONDA」
日本の人口が減少して行くのを心配して、もっと子どもを生みやすい環境を作るべきだという議論がある。日本の人口は今から40年前の東京オリンピックの頃は9500万人程度であった。



●「HELP ME,RHONDA」_d0053294_2039849.jpg今は1億2500万人以上で、たった40年で3000万人も増えた。戦後のベビー・ブーム期を過ぎてなおこの増加で、今までがむしろ異常であり、今後は元の9500万人、あるいはもっと減少しても全くかまわないどころか、かえっていいと思うのだが、政府は税収が減って年金制度が崩壊することを恐れているのかもしれない。日本の人口は国の面積からして今の7、8割程度でも充分な気がするが、どんなものでも一旦増えたものが減るのは、嬉々ではなく危機に感じるらしい。収入は特にそうだ。働き盛りにどんどん収入が増えるのはいいが、定年が近づいたり、あるいは定年になってから年収が減ると、まるで人生の最期を宣言されたようにおののく人が多い。収入が最も多い時を当然の状態と思わなければよいのに、凡夫度が高いほどそういうわけには行かず、収入が多いことをまるで自分の人間的価値が高いゆえと勘違いしたりする。それで、国にとっては人口が財産なのだろう。日本のように地下資源に乏しいような国では人材こそが国力に直結する資源で、人口の減少は貧乏国に没落することだと思っているらしい。それもそうかもしれない。日本が世界でもう有数の金持ちになった時期の人口を基準にして考えると、その人口を割り込めばまた収入も逆戻りするかもと恐れるからだ。少ない人口のまま国の豊か度が変わらないという政策をこそ考えるべきで、地球の人口がこのまま増加するととんでもないことになるから、日本は率先して人口減少に加担すればよい。書き始めてとんでもないところに話が来てしまったが、9500万人という数字が念頭にあったためだ。
 日本の人口が9500万人の頃、筆者は中学生で、楽しみはラジオであった。TVではない。TVはあったがほとんど観たことはなかった。ラジオから欧米の最先端のポップスがいくつかの音楽番組で流れていたが、TVは全くそうではなかった。洋楽を翻訳して日本の歌手が歌う番組はあったが、オリジナルを聴くにはラジオに頼るしかなかった。ちょうどミュージック・フェアというTV番組が始まった頃で、来日したアニマルズやベンチャーズのTVスタジオ・ライヴがそんな番組でごくたまに観られる以外、TVではめぼしい外人ミュージシャンが登場する音楽番組はなかった。正確に言えばあったのはあったが、筆者はあまり興味がなかった。何と言ってもラジオに限ったが、まだFM放送はなかったから、もっぱら音質がよくないモノラル放送で楽しむしかない。音質がよくないと言っても、当時はレコードはちゃちな携帯用プレーヤーで聴くことがほとんどで、よい音質なるものに接する機会は乏しかった。本格的なステレオを買える年齢になるには大人になる必要があり、1965年当時では比較的金持ちか音楽好きの大人しかそうした豪華な電化製品は持っていなかった。FM放送がなかった頃、どうしてもステレオ放送をラジオで楽しみたい人のために、民放2局が協力して、同じ時間帯にそれぞれ左チャンネルの音と右チャンネルの音を別々に放送し、ラジオを2個並べて聴くクラシック音楽の番組があった。筆者が夜のラジオ放送に興味を持ち始めたのは64年からで、「9500万人のポビュラー・リクエスト」という欧米のポピュラー・ソングをヒット・パレード形式に紹介する1時間番組を毎週欠かさず聴いた。専用のB5サイズのノートに、毎週1ページを費やして上位20曲を上から順に並べてていねいに書き記した。ディスク・ジョッキーは声が渋い小島正雄で、今でもその紳士の語る声を耳奥にいつでも蘇らせることが出来る。その後もたくさんのDJの声を聴いたが、小島を越える人には出会えなかった。英語を交えて話し、日本語まで英語っぽく喋るアホDJばかりが増え、10年後にはほとんどラジオの洋楽番組を聴かなくなった。
 これは何年か前の日記に書いたことだが、「9500万人のポビュラー・リクエスト」の順位を記したノートは長い間保管していたのに、いつの間にかなくなった。惜しいことをしたが、インターネットを始めて試しにこの番組について調べたことがある。すると、ちゃんとホームページで紹介してくれている人があった。毎週のランク表はないが、年間ベストは記されていて、この番組をよく記憶している者にとっては大変懐かしく、またありがたい。この番組が東京の文化放送で始まったのは1963年9月13日からだそうで、筆者が聴き始めたのはその1年後ぐらいからだ。はがきによるリクエスト数で曲の順位を決めるもので、聴いていた当時、何度か筆者もはがきを送った記憶がある。つまり、日本の洋楽ファンによるヒット曲の順位づけの番組なのだが、アメリカのキャッシュ・ボックス誌の順位も紹介されて、アメリカで今どんな音楽がはやっているかをただちに知ることが出来た。そのため、どうしても日本でのヒット曲はその影響を強く受けた。ネット社会になって情報が瞬時に伝わるようになったが、ネットがなくても電波さえ飛んでいれば同じことは可能だったのだ。どんな場末の貧民窟であっても、電波によってただちにビートルズの最新のヒット曲を聴くことが出来たのは、改めて考えれば凄いことではないか。東京で放送された「9500万人のポビュラー・リクエスト」が放送局の提携によって関西でもそのままの形で流れ、筆者はほとんど誰にも話すこともなく毎週ひとり楽しんでいたが、ネット社会になって筆者と同じような人が日本の各地にいたことが改めてわかり、その中の熱心な人がホームページでこの番組を紹介するまでになっているという事実は、当時は予想することすら出来ず、つくづく遠くにまで来たものだと思う。がらりと変化してしまうものもあれば、毎年記憶が更新されて鮮明になることもあって、人間の頭は不思議なものだ。
 「9500万人のポビュラー・リクエスト」でビートルズの「ヘルプ!」が初登場でいきなり4位になり、次の週には1位になったことを鮮明に覚えているが、同じ時期にビーチ・ボーイズの「ヘルプ・ミー・ロンダ」も上位に入っていて、「ヘルプ」という言葉が欧米のバンドではやっているのかなと思ったりもした。筆者はビートルズの大ファンであったので、いかにも軽いサウンドのビーチ・ボーイズには特別の関心はなかったが、ラジオでかかるヒット曲はみなよく記憶している。「スループ・ジョン・B」や「バーバラ・アン」「グッド・ヴァイブレーション」といった曲は何度もかかったので、レコードを買わなくても覚えてしまったものだ。そんなビーチ・ボーイズの曲の中でも「ヘルプ・ミー・ロンダ」だけは別格で好きであった。現在ビーチ・ボーイズのアルバムは2、3枚所有するだけで、とても専門的には知らないが、「ヘルプ・ミー・ロンダ」だけは日本で紹介されてすぐに好きになって、幸い当時のシングル盤も手元にある。で、この曲を聴くといつも真夏を思い出す。真夏のバンドと言えば今は日本ではチューブらしいが、40年前の日本ではビーチ・ボーイズやベンチャーズであった。それは波乗りのサーフィン音楽からの連想だが、ビーチ・ボーイズがステージで歌っている写真を見ると、みんな揃いの半袖のストライプのシャツを着ていて、同じようなシャツが当時は日本でも爆発的に売られた。綿の半袖のワイシャツなのだが、襟先にボタンがついていて、ストライプの幅も5ミリ程度の間隔のものから数センチの太いものまであって、色も赤茶色から青などさまざまあった。ストライプも幅に寄って固有の名前がついていたようだが、そこらの市場などで母親が買って来る程度の、いわば紛いものの安物シャツであるため、ぱっと見だけはビーチ・ボーイズ風というだけで、特別にお洒落なシャツと呼べるものは手に入らなかった。それでも10代半ばの筆者はシャツにこだわって、誂えで1点もののシャツを作ってくれるところを紹介してもらって、襟の形やポケットの数や位置、肩のバンドなど、どこにも売られていない凝ったデザインを自分で指示して、明るい水色の生地で1着作ってもらったことがある。市場で売っているバッタもののシャツに比べるとそれなりの価格はしたが、それでもびっくりするほど高くはなかった。母親がそういうお洒落に大変理解があったため、反対にも合わずに作ることが出来た。お金さえ出せば当時でもJUNやVANという高価な男性服のブランド・メーカー品が買えたが、そういったものよりも独自のデザインのものに興味があったことは、その後の筆者の、自分だけのものを自分の手で作るという生き方に大きく影響している。
 「ヘルプ・ミー・ロンダ」は遠くで演奏しているような響きをしている。これはビートルズにはない音作りで、広い海辺を想像させるのにはぴったりな音だと思えた。だが、その後筆者が所有するシングル盤とは違うヴァージョンの「ヘルプ・ミー・ロンダ」をラジオで2、3度聴いたことがある。同じことはビートルズの「ヘルプ!」にもあって、LP収録のヴァージョンとシングル盤とでは録音が違う場合は当時でも珍しくなかったから、きっとこの曲もLPでは違うのだろうと今でも思っている。去年ネット・オークションでビーチ・ボーイズの2枚組ベスト・アルバムが安値で売られていたので買った。曲目を見ると「ヘルプ・ミー・ロンダ」が入っていたし、音質が悪くなったシングル盤ではなく、CDで聴くのもよいかと思ったのだが、届いたCDを早速聴くと、筆者の所有するシングル盤とは音が違って、前述のかつてラジオで何度か聴いたヴァージョンだった。ところが聴き慣れたシングル盤の方が断然よい。ふたつがどう違うかと言えば、まず演奏時間に差がある。シングル盤は3分7秒だが、CDでは2分45秒だ。たった20秒そこそこでも、60年代半ばの曲としてはこの差は大きい。3分を越えるシングル曲は60年代半ばでは珍しく、大抵は2分45秒程度に収められた。それなのに、シングル盤が3分7秒で、CDに入っているヴァージョンが2分45秒とはどういうことなのだろう。ベスト盤ではなくて、本当は「ヘルプ・ミー・ロンダ」が最初に収録されたオリジナルのアルバムを聴く必要があるが、さきほどネットで調べると、それは65年3月に発売された『TODAY!』で、筆者が所有するのはこのアルバムからカッティングされたもので、それが日本ではヒットした。ところがアメリカではそのヴァージョンは長過ぎるということで2分45秒にしたうえでもう一度録音し直された。これがベスト盤CDに入っているヴァージョンだが、ビーチ・ボーイズはこの新ヴァージョンを4か月後の10作目となる『SUMMER DAYS』 というアルバムに収録した。アメリカでヒットしたのは一体どちらのヴァージョンかは知らない。
 3分7秒ヴァージョンの方がよいと思うのは、最後のリフレインでフェイド・アウトしたまま終わるかと思えばまた突如音量が大きくなり、次にまたフェイド・アウトということをしつっこく5回ほど繰り返すことだ。この点がよくないという理由で再録音されたと思うが、この遊び感覚は当時としては画期的で、まだビートルズでも同様のことは行なっていなかった。つまり、「ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー」にほとんど丸1年先んじてビーチ・ボーイズがひねった編集をしていたわけで、このことはとかくビートルズの革新性と比較されて分が悪いビーチ・ボーイズの手柄として特筆されてよい。3分7秒ヴァージョンは全体に音がうすっぺらで、特にベースの音は2分45秒より完全に劣るため、3分7秒ヴァージョンが先に録音されたことは情報がなくても誰にでもわかるが、演奏が手慣れてからのヴァージョンが常によいとは限らない。初期ヴァージョンにもそれなりの粗削りのよさがある。そのいい例がこの「ヘルプ・ミー・ロンダ」だ。ビートルズの場合、シングル・ヴァージョンとLPヴァージョンが異なっても、ここまで差があることはない。改めて65年という時期を考えた場合、全く音が違う2種のヴァージョンを用意したビーチ・ボーイズの洗練された曲作りは、他に類例がなかったと思う。もちろん当時の筆者はこれら2曲のしっかりした聴き比べは出来ず、ただシングル盤の終わり方が大変珍しくて、そこにいかにも夏が遠のいていく名残惜しさのようなものを感じていたものだ。その思いは40年経ても変わらない。今日は8月15日で暦のうえではもう夏も終わりに向かうが、ちょうどそんな時に毎年「ヘルプ・ミー・ロンダ」を思い出してしまう。
 シングル盤の見開きジャケットの中には英語の歌詞が書いてあるが、中学生当時はどうにか一緒に歌えはしても、歌詞の正確な意味までは把握しなかった。興味もなかったというのが正しい。さきほどベスト盤のブックレットの歌詞と比べると、かなりあちこち違うことに気づいたが、シングル盤の歌詞は当時来日していたアメリカの学生などにアルバイトで聴き取らせたものが多く、適当なシロモノであったことが今ではわかっている。あまり明確に歌われないものは、ネイティヴ・スピーカーでさえも正確に聴き取ることは難しいから、あまり非難は出来ない。それに、細部は違っていても大筋は合っているのて、根本的な誤解は起こらない。また元々そんな根本的な誤解が生ずるような深い意味を込めた歌詞のポップスが当時にはほとんどなかった。「彼女にふられた、どうしよう」あるいは「彼女が好きでたまらないが、こっちを向いてくれないよ」といったお決まりの話で、そんな内容は中学生でもよくわかった。この曲の歌詞で一番記憶に残るのは、「Helpme Rhonda ya,Give her out of my heart」という下りだ。ちなみにシングル盤では「Help me Rohnda yeah,Get her outa my heart」となっていて、こっちの方が正しいようにも思える。ただし、シングル盤は歌詞でもタイトル表記でもRHONDAのスペリングがすべてROHNDAになっている。この間違いはひどいと思うが、ひょっとすればビーチ・ボーイズ自身がスペリングを変えていたかもしれない。ちなみにネットで調べると、『TODAY!』ではRONDAになっている。これでは一体何が正しいのかわからない。いずれにせよ、前述の歌詞の下りは、ロンダという女性に彼女のことを忘れさせてくれと助けを求めている内容だが、歌詞の概略を言えば、結婚するほどの仲であった彼女が別の男を割り込ませた結果、こっちもその彼女を忘れてロンダという女性に気を移そうというのだ。考えてみれば相当深刻な内容で、この短い歌詞を膨らませれば全20話の韓国ドラマになりそうだが、当時の中学生でも誰が誰を好きでどうのといった話は日常的に持ち上がっていたことであり、この曲の歌詞が深刻どころか、乗りのよいリズムとヴァカンス気分いっぱいの音の世界とで、むしろ楽しくて仕方がない日常をさらに演出してくれるものであった。さきほどキーを確認すると、嬰ハ長調で、あまり凝ったフレーズもないが、それでも全体にメロディは覚えやすくて変化に富んでいる。英語の歌い方はビートルズの曲に慣れた者からすればかなり歌いにくいところがある。そんなところからもビーチ・ボーイズの独自性がよくわかる。
 数年前にNHKの特集TV番組で放送されたように、ビーチ・ボーイズが父親や兄弟間の確執によって悲劇とも言える運勢を辿ることは、当時としては想像もつかなかった。今でこそ情報が多くなって、60年代半ばの彼らのアルバム『ペット・サウンズ』が不世出の作品と高い評価が与えられてはいるが、これは後年ポール・マッカートニーが絶賛したことも理由としては大きいのではないだろうか。だが、ビートルズ全員がポールと同じようにこのアルバムを高く評価していたわけではないし、ポールの音楽をビートルズの音楽の代表とは思わないビートルズ・ファンからすれば、ビーチ・ボーイズへの評価はまた変わる。1966年の日本ではビートルズの『ラバー・ソウル』から『リヴォルヴァー』への途轍もない変化ぶりにほとんどポップス・ファン全員の眼差しが集中していて、そうしたビートルズの才能に闘士の炎を燃やしたブライアン・ウィルソンの『ペット・サウンズ』作りへの執念も、実際の音の成果として聴く機会はよほどのファンしか持てなかった。LPは高価なもので、買える枚数はごく限られていたし、実際に聴くのはラジオでのみという情報収拾手段では、筆者の記憶する限り、当時のビーチ・ボーイズは前述の「スループ・ジョン・B」や「バーバラ・アン」「グッド・ヴァイヴレーション」といったヒット曲しか耳に入って来なかった。ずっとずっと後年になってのかつての情報をつぶさに後追いする社会における再評価は、筆者にはほとんど興味はない。したがって自分にとってのビーチ・ボーイズは今後もずっとこの「ヘルプ・ミー・ロンダ」であり、それはその最後のリフレインのように、消えるかと思えばまた復活する歌声同様、何度も繰り返し蘇り続けるものなのだ。
by uuuzen | 2005-08-15 20:26 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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