舞踊的と言ってよいジャクソン・ポロックのまとまった絵画展は日本で初めてだ。関西への巡回はなさそうなので、名古屋まで見に行った。

最終日の2日前であったから、1月20日だ。今は東京で開催中だが、評判はどうなのだろう。大阪は「具体」を生んだので、この展覧会が開催されるにふさわしいが、客が入らないと思われたのだろう。筆者が出かけた理由は、昨夜書いたこのブログのネーム・カードの自己紹介ページに、7年前に以下のように書いたからだ。
●散歩好きですが、毎日1万歩に足りない分をブログの文字数で補っています。
●そのため、長文ブログになるほどに健康を害します。困ったものです。
●散歩を取るかブログを取るか、これが問題。結局『歩録』にしました。
●『歩録』は『ブログ』と読んでください。『ポロック』ではありません。
●ポロックはアメリカはジャクソン村のロックな画家です。
●いつかポロックについての歩録をぽろっと書きます
この半分ふさけた内容を忘れたことはなく、いつポロックについて書こうかと考えて来た。その機会がようやく名古屋で展覧会が開催されることになって訪れた。1月17日に有機栽培野菜を販売するフランク・菜ッパに行った際、染色家のIさんと出会った。初対面だと思ったが、Iさんはお互いが知る染色家の先生の個展会場で何年か前に筆者を見かけたそうだ。それはともかく、Iさんがポロック展に行って来たことがわかった。そのほかに見るべき展覧会がなかったと言うので、それだけ見て来たのだろう。筆者は「掛け持ち主主義」であるから、ほかに見るものはないかと考え、そして一昨日書いたヴェネツィア展も見た。もうひとつ見たかったが、これについては後日書く。ともかく、ポロック展について今夜書く理由のひとつは、先に書いたように、ネーム・カードに7年前に宣言しておいた手前、その約束を果たすためだ。もうひとつは、ネーム・カードが今月を最後に消去されるからだ。ポロック展に行った時には、ネーム・カード終了について知る由もなかった。不思議なことに、ずっと気になっていたポロックについての感想をようやく書く段になって、感想を書くきっかけになったネーム・カードが消える。書こうと思いながら、また書くことを宣言しながらそのままになっていることは多いが、ネーム・カードの上記の文章に最後にポロックについてポロッと書いたことは、7年前に今回の展覧会が開催されることを筆者は本能的に感じていたのかもしれない。それはおおげさだが、毎日書いているこのブログも、気まぐれかつでたらめな順序のようでいて、内容がつながっている場合が少なくない。

ポロックは44歳で自動車事故で亡くなった。10代から酒好きで、事故の際も飲酒していた。その新聞記事が会場の最後に展示されていた。また、その下の床には透明アクリルのケースがあって、その中には布で作った落葉樹の葉から覗く車のホイール・キャップと、缶ビール、そしてポロックの靴がに入っていた。新聞記事にはそれと同じ様子を撮影した写真が載っていた。写真のキャプションには、「事故すぐに駆けつけた記者が撮影したもので、何も動かしていない」とあった。ハンドル操作を誤って樹木にぶつかり、頭を強く打ったのだ。記事によると、座席の隣りには若い女性が乗っていたが、当時ポロックは結婚していたから、浮気相手であったのだろう。当時ニューヨーク州のロングアイランドに住んでいて、まっすぐな田舎道で、おそらく対向車もなかったはずだが、そういう事故に遭うところ、運命と言うしかない。そのような早死にがふさわしいほどに、作品は以前に頂点をきわめ、どういう画風に進むか迷っていた時期であった。同じことを繰り返したくない真の意味での芸術家であったので、ドリッピングの技法の次の飛躍を生み出すことが出来なかった。燃え尽きた芸術家の悲劇とも言える。次のアイデアが湧かないから、また酒に浸る。それが悪循環になったのだろう。半ば自殺にも思える死に方をしてしまった。その悲劇性がポロックの芸術性を側面から高めている。ポロックの作品の価格は非常に高いが、作品がさほどたくさんないことにもよる。日本では生前から雑誌で紹介され、バブルの頃に購入されたのだろうか、日本にはそれなりに作品がある。今回はそうしたものも含めて70点が並べられた。やや少ないと思われたのか、アトリエの内部が再現された。ポロックは結婚して納屋をアトリエとして使っていた。死後は画家可の奥さんがそこで絵を描き、新しく床を張った。奥さんの死後か、床が剥がされた時にポロックが制作していた頃の絵具だらけの床が現われた。その全面を撮影し、原寸大につないだ写真が館内に並べられた。靴を脱いで誰でもその上を歩くことが出来たので、何枚か写真を撮った。ポロックの素足の跡もあって、そのかたわらに足を置いて撮影した。面白かったのは、板の節目だ。それが目玉に見えたりする。ポロックはその自然が作る造形をどう思ったであろう。

ポロックの制作の様子を撮影した数分の映像が2本上映されていた。それを見ると、ドリッピングの手法がよくわかる。思ったのは、ジャズの即興演奏だ。筆で缶から絵具をすくって垂らす。それは単純な行為だが、単純であるだけに、瞬時ごとが真剣になる。神がかりと言ってもよい。熱狂的な作業で、シャーマニズムの儀式のようにも見える。ともかく、絵具を垂らす行為は、垂らすことよりも、その絵具が画面にどういう軌跡を描いたかを瞬時ごとに確認しながら次の動作を決めるので、めくらめっぽうでたらめに垂らすこととは違う。時にはほんのわずかな間があったりもする。また、絵具だけではなく、小石をぱらぱらと撒いたりもしていたが、それと筆によるドリッピングとの切り替えの際には、やや得意気な表情を浮かべていて、興に乗って制作していることがよくわかった。それは即興演奏を奏でるのと同じ行為に見えた。手元の見開きのチラシを開いてみると、そこに「抽象絵画というものは、音楽を楽しむように味わえばいい」と書いてある。死ぬ6年前、1950年の言葉だ。フィルムを見ながら思ったのは、即興演奏であると同時に、体全体で描く舞踊性だ。床にキャンヴァス地を広げ、そこに踏み込みながら絵具を垂らし即興の前衛舞踊にも見える。これは当然のことだ。激しい運動と同じで、また一瞬の気のたるみがあれば絵に不純なものが混じるとでも思っているかのような真剣さだ。そうしたドリッピング技法の絵画は、具象絵画を愛好する人からすれば全くのでたらめでふざけた行為に見えるだろうが、ポロックは美的感覚を無視していたのではない。美の追求の果てに、その美が一瞬の思い、これは当然技巧と選択を含むが、によって姿を見せることを悟った。どこか禅のようだが、案外その見方は当たっているだろう。また、書に見える作品もあったが、ポロックは漢字の意味がわからぬままに、書の形の美しさを知っていたかもしれない。そういう東洋の美に近い部分があったので、「具体」の運動にも影響を与えたのではないか。足で描く白髪一雄の抽象絵画は、ポロックがいなければ生まれたろうか。生まれたとすれば、そこにはやはり書の存在が大きいのではないか。

ポロックは18歳でニューヨークに出て来た。トーマス・ハート・ベントンという、日本ではあまり馴染みはないが、アメリカでは地方主義と言うのか、後進に大きな影響を与えた巨匠だ。ベントンの画風を学んでいた頃の作品があった。国吉康雄にやや似た画風で、そこにシュルレアリスムを少々混ぜた感じだ。20歳頃であるので、まだ個性と呼ぶほどのものはないが、ポロックが最初は具象をやっていたことがわかって興味深い。ベントンの影響を受ける一方、メキシコの壁画にも魅せられた。それを示すのが30歳少し前の作品だ。仮面の群れをステンドグラスのように黒い縁取りの線の中にカラフルな色合いで描いている。そこにはピカソの影響も少し感じられる。ポロックはピカソを意識していたようで、新しい何かを思いつくたびに、ピカソが先にやってしまっていることに歯ぎしりした。そこには、画家として名を上げることへの強い思いがある。ポロックが惹かれた芸術には、インディアンの砂絵があった。これは地面に描くもので、描いた後は消してしまう。チベットの砂曼荼羅を連想させるが、そのように精緻で形が厳格なものではない。ドリッピングの技法は、このインディアンの砂絵の影響が大きい。四方から描くので、天地は本来ない。だが、絵画は壁に飾る必要上、天地を決める必要がある。草間彌生も四方から描いて、完成してから上下を決めている。ポロックもそうであった。このことの意味を考えると、ポロックの作品の場合、疑問も湧く。四方から描いて思いの作がまず出来たとする。それに天地を決める場合、画面が最も落ち着いて見える方向を見定めることであり、それは四方のうちの消極的選択ではないか。積極的な意味での選択であれば、四方から描きながら、絵の構成を強く意識し過ぎていたことになり、何かに憑依したような気持ち、つまり無我夢中の真剣さだけではなく、その一方で完成作へのイメージがある程度予めあったことになりはしまいか。この即興演奏を持ち出すと、話がまたややこしくなるが、ジャズの即興は、決められたキーや旋法があってのことで、それはある程度は完成作というものが前提にある。先にポロックは美を意識しながら描いていると書いた。そのことは、言い換えれば、完成作が見事であってほしいという思いを常に抱いていることだ。その恣意性と、一方での瞬時ごとに次の瞬時の行動が決められて行くという猛烈に素早い作画行為とが、絵を描く前、描いている途中においてどう折り合っているのだろう。

これは展示されなかったが、ドリッピングの技法でひとまず完成させた作品に、ところどころの小さな区画に筆できちんと絵具を塗り込めた作品がある。どこかミロの絵のような感じがしたが、それはいいとして、即興のドリッピングと、その技法を見出す以前の筆できちんと描く技法とが混ざり合った作品は、あまり関心しない。不純とは言わないが、ドリッピングの激しい動きの上に、つんと済ました美意識が乗っていて、美しい絵を作ろうとし過ぎているように見える。美しい絵はもちろん目指すことであるからそれはいいのだが、その美しさが、画面の上っ面に引きずられ過ぎているように見える。その後だろうか。ドリッピングだけの絵画が盛んに描かれる。その方がはるかに純粋で、しかも美しく見えるのはなぜか。ポロックの抽象絵画の意味はそこにある。そこで思うのは、アトリエの床板に見える節目だ。それは木を縦に切った状態で初めて見えるもので、何ら恣意性はない。木自身もそのことを知らないだろう。だが、木が成長するには枝を次々に伸ばす必要がある。成長することは自然であるから、枝がより太い幹から別れる箇所があることは恣意性とはひとまず言えないだろう。そのために、人は板目や節目を見て、それなりに美しいと思う。それは人間が生まれ出るよりもっとはるか昔、太古から変わらぬ造形だ。確かに木の種類によっては幹から枝の張り出し方が異なり、節目の模様やその間隔も違うのだろうが、樹木を縦に切ると節目が現われることには変わりがない。こうしたことをアトリエでポロックが考えたかどうかは知らないが、絵具で激しく汚された部分とは対照的に、部屋の隅の方は節目が見える白木のまま残されていて、その部分をポロックは愛好したのではないかと思った。その自然の美に対抗して人がどのような美を生み出すことが出来るだろう。話は変わるが、昨夜雀が飛ぶように地上から2メートルほどのところを飛ぶ夢を見た。夢を見ながら思ったが、それは足で歩くのとさほど変わらない気分であった。歩くことも飛ぶことも移動の点では同じで、それは意志の力による。そのため、飛ぶことの出来ない人間が小鳥のように飛んで移動出来たところで驚かない。人間が望めば、1億年ほど経てばその能力を有する。そして、次に夢で見た場面は、草の根元だ。緑の束が風で揺れている。その1本の茎の中に人間が知る全宇宙がすっぽり入っていると感じた。そう思うと、人間の一生は全く些細にもならないほどの小ささで、どう生きても同じだ。こうして書いていること、またポロック展の記憶、身の周りにあるあれこれの愛玩物などなど、みんな草の1本の根にも値しない。実際にそうであっても何の不つごうもない。ポロックもそのようなことを思ったとは言わないが、ポロックの作品を見ていると、人間の存在や宇宙を考えたくなる。

恣意性を限りなくなくした状態で描く方が、純粋に美しい画面になるとすれば、ドリッピングだけで突っ走ればよい。そして実際にそうしたが、そのドリッピングも大方試し尽くしてしまうと、その同じ行為に耐えられなくなった。また、そのドリッピングにしても、1947年から50年までの4年間、同じことをしたのではない。ドリッピングで描いた多色の絵具の飛沫画面を地模様とみなし、それを元に別のイメージをそこに付与することも考えた。先の筆による小さな色の区画を描き込むことも、そういう思いによるのかもしれない。究極にまで行ったドリッピングの先を考えるならば、そういう方法しかないかもしれない。そのように誰もやったことのないドリッピングの技法を獲得しながらそれに安住せず、先に進もうとしたが、それは30歳頃のメキシコの絵画の影響を受けていた画風を黒1色で描いたようなもので、絶頂期を過ぎたものとみなされた。収入も途絶えたようで、心配した兄はシルクスクリーンの版画を作らせたりしたが、低迷期から脱することなく事故死した。その低迷の作品群はドリッピングによる作品を見た後では、黒1色であるせいもあって、かなり鬱陶しい。ドリッピングのような地模様的な作ではなく、顔のようなものが描かれている。ポロックは一時期、飲酒癖から脱するために病院で治療を受けたことがある。その時、医師が絵を描かせた。それらは医師の手元に残り、今回も多少展示されたが、それらの素描には、人や獣の形や顔のようなものが見える。無意識下にそういうものが見えたいたのだろう。それがドリッピング絵画の後にまた顔を覗かせたと言ってよい。そうした顔らしきものは、インディアンのトーテム・ポールを思わせる。ポロックはアメリカが生んだ最もアメリカらしい抽象画家だが、ベントンやメキシコ絵画、そしてインディアンの造形にも関心を寄せたところ、生まれるべくして生まれたと思える。アメリカは太古から大地が存在した。そこに最も新しく白人がやって来て絵を描くとして、それは最先端の何かを表現しながら、太古の歴史をも引きずったものであることが、アメリカが世界に誇る芸術になり得る条件ではないか。