備忘録のつもりで展覧会の感想をなるべく書くようにしているが、何のために忘れないようにしておくのかと言われれば返答に困る。書いては次々と忘れて行くと言ってよく、またたいていは会期が終わってから書く始末だ。

会期中に書けば、これをよく人が見に行くつもりに多少はなるかもしれないが、実際はこのカテゴリーは人気がない。おそらく書いて2,3日以内に読む人はひとりかふたり、あるいはゼロだ。それがなぜわかるかと言えば、数日後にその理由を書く。ともかく、筆者が毎晩2時間ほどを費やして書くこのブログのうち、展覧会についての感想は人気がない。後で何かに役立てる備忘録のつもりであれば、そんな人気のなさはどうでもいいが、後のことを何も考えず、ただの感想であって、ひとりごとと同じことだ。街中でよくひとりごとをしながら歩いている人に出会うが、このブログはそれと同じで、他人に聞こえる声を発するのではないだけのことだ。他人のひとりごとはとても気味悪いものであるから、おそらくこのブログもそう思われている。だが、ひとりごとをする人はそれをしている自覚がほとんどなく、ごく自然な、必要な行為だ。このブログも同じと言えるかもしれない。さて、今日取り上げる展覧会は、去年12月7日から今年2月5日まで京大の総合博物館で開催された。一度館の前まで行くと閉まっていた。1月17日のことだ。その日は仕方なく、もうひとつの用事を済ませた。そのことはその日に投稿した
「フランク菜ッパ」の後半に書いた。ついでながら、当日室井さんからおまけでもらったウコンのふたつの塊は、2日に一度ほどは紅茶に擦り下ろして飲み続け、後1回分を残すのみとなった。当日買った野菜はみんな食べたのに、このウコンだけが長く残った。さて、同展に出かけ直したのは1月25日だ。ちょうど1か月経つ。感想がこれだけ遅くなったのは、気乗りしなかったからでもあるが、いつもの展覧会とはかなり毛並みが違うので、どう書けばいいかわからないからでもある。もうひとつの理由は、なるべく春に近くなってからがいいと思ったことによる。筆者がウフィツィに行ったのは10年前の確か2月下旬の今頃であった。同じ季節を待ったのだ。それで、今日はもう日づけが変わっているが、どうしても今夜は取り上げねばならない。

イタリアに数日旅行するのに、ひとり15万円ほどであることを、今朝のTVの旅行コマーシャルで知った。家内と行くと、30万、雑費を含むと50万はかかる。捻出出来ない費用ではないが、それでも少しは痛い。また、ヨーロッパに行くならフランスやそのほかの国がいいと家内は言う。筆者は北欧に行きたい。そんなこんなで結局は行かないだろう。そのうちもっと高齢になってさらに行くのが面倒になる。海外旅行は思い切りが肝心だ。それはさておいて、ウフィツィについての展覧会というので、これは見ておかねばと即座に決めた。実際に歩いた場所がどう紹介されているかを見るのは楽しみだ。そのため、本展について書こうと思えば、いくらでも切り口があり、また文章を増やすことも出来る。そのことが、かえって感想を書くことを躊躇させる。そのため、何かひとつのことに絞って書くのがいいかと今思っている。幸いそういうネタは、本展に用意されていた。まずそれについて書こう。フィレンツェに訪れた10年前、ウフィツィ美術館の新しい玄関の磯崎新による設計案が決まったばかりであった。その後完成したというニュースを聞かないので、すっかり忘れていたが、今回のヴァザーリの生誕500周年記念の特別展に併せて、その完成模型や、完成した時にどう見えるかの写真などが展示されたので思い出した。模型で見るとどういう場所にどういう形のものを造るのかがすぐにわかる。係員に訊くと撮影はOKというので、妹から借りていて、本展を見た後に返しに行こうと思っていた一眼レフのデジカメで撮影した。まずこの新玄関の感想について書く。とはいえ、模型を見てのことだ。実際はどうなのかはわからない。そう思えば、この新玄関が完成してからウフィツィを訪れたい。この玄関が10年経っても完成しないのは、反対意見が多いことと、また地面を掘ったところ、遺跡が出て来たので計画を練り直す必要があるからだ。こういった事情については本展では全く説明されていない。後で知ったが、本展に併せて東京ではこの磯崎による新玄関案についての説明会がイタリア会館で開催された。本展のチラシ裏面に載るシンポジウム3件は、みなヴァザーリについてのもので、京大ではなかった。近くにイタリア会館があるが、そこで同じ時期に開催されたのであれば、その告知が本展会場にあったはずだが、それがなかったところ、京都では無視されたと見える。

磯崎は自分の案について、ルネサンスの理論家の考えを持ち出しながら説明していた。それはそれとしてひとまず考えずに模型を見ると、まるで日本的と言おうか、そのたたずまいに違和感を持つ。それは日本の数奇屋建築のような一種の軽さで、西洋の石造建築から見ると、あまりにすかすかして風通しがよく、仮設建築物に思えるだろう。あえてそういうものがいいと磯崎は考えたのだろう。ルネサンス風なものを造って違和感をなくすことは簡単だが、そうしても新しい時代の何かが付与されて、それが古いものとは異質の空気を発散する。ならば、全く新しい、一見イタリアとは思えないものを持って来た方がよい。ところが、そこに反対する人が多いことは想像にあまりある。磯崎が日本人的なものを表現するのは当然であり、また仕方がない。ウフィツィがイタリアに馴染む、そして古さに混じって目立たないものがほしいのであれば、国際コンペなど開催しないか、あるいは開催しても磯崎案を落とせばよかった。それがそうならなかったのは、21世紀の幕開けにふさわしいものをイタリアが求めたためだろう。ウフィツィの玄関前の広場は、京都の碁盤目状の市外を見慣れた目からすれば、あまりに歪な形で、そこにどういう形の建造物を持って来れば、その周辺を含めて美しく見えるかは、日本人からすればかなり手ごわい問題だろう。外でもなく、また内でもない場所として機能するものであるから、ロッジアがいいことはわかるが、磯崎案は、屋根が平らで、しかも放射状に鉄骨が並ぶ。これでは雨天の際は入館待ちの人は雨に濡れる。あるいは鉄骨の隙間をガラスで覆うのだろうか。また、ロッジアとして機能するとして、歪な台形状の敷地をただ鉄骨で囲っただけでは、デザインと呼べるかという気がする。だが、これは先に書いたように、磯崎はすぐに撤去してしまえる仮設的なものがいいと思ったのかもしれない。そういう建築の思想は木造の歴史が長かった日本ではごく当然で、風化すればまた同じものを建てればよい。鉄骨と書いたが、ひょっとすれば木材かもしれない。また色は灰色のようだが、これも実際に見ないことにはわからない。平らな屋根が、その半分ほどを覆う形で放射状に材が組まれることは、放射状の要の位置にウフィツィがあるので、人々はそこに吸い寄せられる思いでロッジアの下を歩むことになる。これは、模型で見るのと違って、期待感を高めてくれる効果があるだろう。また、屋根全体を覆うと、ロッジアでも暗くなる。チラチラと光が射し込むことを磯崎は好んだことになるが、それもまた日本的な考えだ。そういうことがイタリア人の反対派には理解されないと見える。ウフィツィの入口と言えば、とても重要だ。そこを設計する名誉を得た磯崎が、そのことをあまり深刻に捉えず、日本的な雰囲気の濃い案を出したのは見上げたことだ。違和感があっても、完成して使ってみなければ、つまり世界中の人の意見を耳にしなければわからない。そうしてもなお、悪評が多ければ、さっさと造り直せばよい。それだけのお金がないので慎重になっているとも考えられるが、駄目なら撤去し、その撤去が簡単に済むことを磯崎は考えたのではないか。そこまで考えているとすれば、世界に類を見ない親切な案だ。

さて、本展のメインはヴァザーリが設計したウフィツィだ。ウフィツィに行っても、ピッティ宮殿と結ばれる空中回廊の内部を歩くことは出来ない。それには許可が必要だろう。自画像がたくさん並ぶ回廊で、そこに飾られる自画像コレクションは、去年だったか、国立国際美術館で開催された。ウフィツィ美術館の内部さえも、予約性になったと聞く。ツアー客は会社が予約を取っているので時間のロスがないように決まった時間に入場出来るが、個人が勝手に行くと、かなり待たされる。それほど内部は大混雑だ。ゆっくりと心行くまで名画を鑑賞するには、何度か訪れる必要がある。ヴェッキオ宮周辺を散策した後、美術館に入り、その内部を見た後は、ウフィツィ内部の、縦に細長い中庭に出るというのが、鑑賞のルートだ。その中庭には2,3人の絵描きがいて、観光客の似顔絵を描く商売をしている。どれもたいした腕前ではない。筆者の方が何倍も上手だが、旅土産に家内とふたりで描いてもらった。15分ほどかかったろうか。黒のコンテでざくざくと漫画的に描く。家内はかなりの美人でしかも若く描かれたが、筆者は手抜きされた。それで3000円ほどした。探せばどこかにあるが、あまり土産にはならなかった。フィレンツェであるから、もう少しましな才能の絵描きがいればいいのに、どの国でも観光客相手の商売はその程度だ。画用紙をくるくると丸めて、中庭をアルノ川の見える突き当りまで行き、そして川べりに出ると、そこは川に沿ってアーチが続くロッジアになっている。フィレンツェで一番思い出に強いのはこのウフィツィのロッジアではないだろうか。その空間を楽しんだ後は当然のごとくポンテ・ヴェッキオをわたる。その向こうがピッティ宮で、そこにも行くというのがお決まりの見学コースだ。このウフィツィをヴァザーリがごく短期間で設計建築した。

ヴァザーリの名前はイタリア美術に関心のある者は誰でも知るが、その才能を正しく把握する人は少ないのではないか。それは、ダ・ヴィンチとまでは言わないが、才能が多彩であったからだ。筆者がまず知ったのは、10代の終わり頃で、『美術家列伝』だ。これはルネサンスの画家を紹介するどんな本にも必ず登場する。だが、その実物を読んだことがない。それはその内容に創作が混じり、間違いも目立つといったことを、そうした簡単な紹介で知ってしまうからだ。つまり、先入観を抱いてしまう。また、ヴァザーリ時代の画家の評価を詳しく知っても仕方がないという思いも反映している。だが、これは話が逆で、ヴァザーリの同書によって、現在のイタリア・ルネサンスの画家の評価が定まった。それほどヴァザーリは正しく評価出来たが、これは単なる評論家ではなく、画家であったからだ。ところが、日本では『美術家列伝』で有名になっていて、まともな画家としてはあまり認識されていないのではないか。画家が評論家を兼ねることは、画家からも評論家からも評判が悪い。商売を侵されているという思いと、どっちの仕事もどうで中途半端に違いないという侮りの気持ちだ。日本では特にそうだ。日本では画家よりも美術史家の方が偉いと自惚れている。あまり本も読む時間のない画家の作品を、美術史家が論評して有名にしてあげているという思いがある。これも話が逆で、画家がいるから、そういう評論家が飯を食べられる。画家並みに絵を描く才能がない人物が、絵の価値を測るというのは、実におこがましいことではないか。おそらくヴァザーリはそのように思ったであろう。また、ヴァザーリの凄いところは、絵だけではなく、建築の設計も出来たことだ。この建築は建物そのもののほかに、イタリアでは広場があって、それも含めての、内と外との関係を見定めた総合的なものだ。建築家が画家を兼ねるのは珍しいことではない。絵が下手な建築家はあり得ない。視覚的な美意識の度合いを見定めるにはその人の絵画を見るのが最も手っ取り早いが、そういうあたりまえのことが日本ではあまり重視されず、絵を本質的に理解しない人がしばしば美術関係の仕事に就いていて唖然呆然とさせられる。話が脱線し過ぎる。ヴァザーリが設計したウフィツィは、役所や庁舎と訳されるように、司法や行政機関であった。いや、今でもそのように機能している。ヴァザーリのデザインの基本は、1階が柱2本で区切られた等間隔の3つのスパンを持つロッジアであるモジュールだ。この3スパン1単位のモジュールを横に数多く並べ、しかも向かい合せにしてその間に中庭を設けた。3連スパンが繰り返されると、一見それはモジュールごとの区切りがわからず、一体化した建物に見え、奥のアルノ川まで続いて透視図法的視覚を訪れる者に体感させる。モジュールを繰り返す手法を使ったので、設計も建築も早かった。それは現代のマンションに通ずる考えで、それだけ新しい考えであった。最後になるが、ヴァザーリは1511年生まれで74年に死んだ。16世紀の人で、ルネサンス絵画はポントルモのようなマニエリスム時代に入っていた。ヴァザーリの芸術もその面から見る必要がある。マニエリスムは英語ではマンネリズム、日本語化したマンネリで、否定的な言葉として使われがちだが、方法主義とでも訳すのがいいか、ある決まった方法、様式を用いて似た作品を作ることを言う。これはどんな絵画にもあると言ってよいが、マニエリスムはそれが一種異様な形で意識され表現された。