抽象絵画は今はどれほど盛んなのだろう。戦後から50年代にかけ、日本の美術界ではブームとなったが、今は精密な写実画が売れているのではないか。こういった一種の流行に絵画は左右されている。
絵画が人類にとって普遍的なものを表わそうとしても、時代ごとに画界を牽引するリーダー格が登場し、それに感化されるたくさんの画家が後に続く。細密な写実画であれば、いつの時代も技法はあまり変わらないが、抽象画となると、描き上げる速度は写実画より圧倒的に短くで済み、その単純性ゆえに、画風の差がより求められる。そして、そのことがほとんどアイデア勝負のような闘争をもたらす。画家が自作についてあれこれ注釈しても、見る人はそんな言葉を思い出さない。パッと見て瞬間に感じるものがあるか、また面白ければそれでいい。そのため、抽象画家はその一瞬の眼差しに応えるだけの迫力を持っている必要がある。それは先に書いたように、誰も描いたことのないものであればあるほどいい。ところが、抽象画ではたいていの方法は試され済みで、どう描いても先人の誰かに似たものになる。そのため、今ははやらないのではないか。その点、時間を費やせば細密な写実画は、たいていの画家は描ける。不況になればなるほど、そういう絵画は売れるだろう。抽象画がアイデア勝負の詐欺的なものとすれば、写実画はきわめてケチな考えによるものだが、不況になるほどに世の中の気分はこつこつした努力をみなに強いるし、簡単なアイデアと簡単に描けてしまう抽象画を見れば腹立たしいという思いが増す。戦後から経済成長に向かう日本が、たくさんの抽象画家を生んだのは当然だ。そして、経済が衰退に向かう今、写実主義が幅を利かす。そういう時代の大きな流れに絵画の流行が左右されていると思えば、何だか絵画鑑賞はあほらしい。画家がいくら哲学的な思想を持っていると自惚れても、それは単に時代の空気、つまり先んじた誰かの思いに感化されているだけで、時代が過ぎればすぐに忘れ去られ、古い絵だとみなされる。だが、その古さは、時代がすぐに隣り合っての昔であるからだ。もっと長い100年や200年が経つとわからない。
去年11月下旬に西宮市大谷記念美術館で津高和一の展覧会を見た。
『生誕100年 津高和一 「対話のための展覧会」 架空通信展』だ。その感想を書いたが、書きながら気になっていた。あまりいいことを書かなかったからだ。特に、津高が大きな日本家屋に住み、作品をかなりの高額で販売する旨を美術雑誌に広告として載せていたことを知ったからだ。同展は津高以外の作品も多く、津高の全貌を知るためのものではなかった。それがいささか不満で、違う作品にまとめて接することが出来ないものかと思った。すると今年に入って、隣りの芦屋市の美術博物館で津高展が開催されることを知った。津高の画風はあまり特徴がない。先の話のつながりで言えば、時代の先鞭をつけた抽象画家の後塵を拝しているだけで、同じ抽象なら菅井の方がはるかによい仕事をしたように思えた。それは今も変わらないが、菅井の作品を見るほどには、津高の作品に接したことがない。そのため、今回の展覧会は、気があまり進まないながら、義務としても見ておくべきと思った。そして、律儀にもこの展覧会だけを見るために、会期の最終日の19日に行った。副題は「ねこがみた現代美術」で、「現代美術」は蛇足だが、「ねこがみた」は西宮展では知ることの出来なかったことだ。津高は夫人のほかに大きな犬一匹、そして猫10匹と生活した。完全な猫派とは言えないが、犬より多いところ、猫派と言ってよい。筆者は犬猫を飼ったことがないので、犬猫好きの心がわからない。そのため、飛躍した思いかもしれないが、津高の本当のよさがわからない。それがいわば結論だ。だが、それで締めくくると味気ないので、もう少し書く。
津高が最初詩人を目指したことは以前書いた。その理由が今回わかった。津高の父は都市近郊の篤農家であったそうだが、津高に言わせれば、働くことしか頭になく、しかもその働くことの意味は、物への執着であった。それは想像を絶するほどで、津高はその醜さに絶えられなかった。読書は時間と金の浪費という父の見方に反発して詩を書き始めたが、言葉が他人に誤解されるという恐れを味わう事件に遭遇した。同人誌が当局の目に危険と映り、津高は連行されたのだ。問題なしとして釈放されるが、自分が想像もしない解釈が施される言葉という媒体を見限り、変わって絵を描くことにする。最初は具象画であったが、1940年代末期に、物の形に囚われない抽象画に転向する。その方が思いを託すことが出来ると思ったのだ。今回は30点ほどの展示で、数は西宮展と大差ないものの、1948年の「月と人と」と題する今回唯一の具象画から、阪神大震災で亡くなる3年前の1992年まで、各時代を満遍なく揃え、コンパクトではあるが、西宮展より面白かった。だが、津高の抽象画は40数年間、ほとんど変化がなかったと言ってよい。これをどう捉えればいいか、まだ考えがまとまらない。よく言えば、ずっと同じ精神を保ち続けたことになるが、早々と硬直化したと言うことも出来る。先に書いたように、絵画が時代に応じて流行を変えるとするならば、ほとんど半世紀もの間、目立った画風の変化がなかったことは、ますます流行遅れになって行ったとみなすことが出来る。だが、津高の抽象画の画風が本当にあまり変化がなかったとは断言出来ないかもしれない。何を基準にするかの問題でもあるからだ。筆者が念頭に置いているのは、たとえばモンドリアンであり、また菅井汲だ。どちらもすべての時代の作が当人らしく、また時代ごとに画風をかなり変えた。その作品の変化が見事で、また不可逆的でもあるところに、巨匠の風格が表われている。津高に欠けているように見えるのは、作品の変化における不可逆性だ。30点ほどにしろ、全時代の作がそこそこ満遍なく並べられたのに、ある作品を別の時期の作品と取り替えても差が見えない。こういう画家もあると認めるしかないが、最初は小さな芽であり、それがやがて大輪の花のように変化して行くことを見せられるというタイプの作家ではない。これは画業もまた花の一生のようなものであるとするならば、何とも物足りない。
以上のように書けば、やはり西宮展と同様、感激はなかったことになる。確かにそうだが、もう少し続ける。津高の特徴的な画風の、白い地に黒い絵具を使うところは書に通じる。その書というものが、すでに根本的な形が決まった漢字や仮名を表現するものであることを思えば、津高は絵画を書と同じように思っていたか。ならば書を試さなかったのはなぜかということになる。は書も出品された。それは「無」や「遊」の一字を紙に書いたもので、榊莫山らの仕事に通じる。そうした前衛的な書とは別に、きわめて単純な黒い形を白地に置いた油彩画を描いた。そのことは、「無」や「遊」という意味のある文字の世界に強く魅せられながら、油彩による抽象画にこだわった思いが見える。最初から書家として立つ、あるいは転向してもよかったと思うが、そう簡単ではなかったのだろう。また、書や書のような油彩画を描いたことは、最初は詩人を目指したことから説明出来るかもしれない。つまり、文字や言葉で表現したかったのに、それを棄てて絵画に進んだため、その作品は詩や書に近いものになったという見方だ。それもまた、そういう画家があっていいと認めるしかないが、一方で津高の活動と軌を一にして盛んであった墨象作家たちの活動を思う。津高はそうした前衛書家の作品やまた人気をよく知っていたはずで、彼らの世界に負けないものを構築することを求めたろう。だが、21世紀の今、津高も墨象もとても古臭いものに思える。時代に即して人気があっただけに、時代が変わり、つまり流行が過ぎてからは、そこに込められた精神までもが古いように思えてしまう。筆者は津高の時代のレトロなモダンさが好きだが、それはものによりけりで、日用品や大衆が好んだ映画といったものがよい。その一方で育まれた抽象絵画は、ほんの一握りの先駆的仕事だけが後世に伝えるべきものとなっていいのではないか。最初の抽象画家だけが価値があるとは言わないが、その後はほとんどアイデア勝負の競争となって、その手っ取り早い安易とも言える仕事において、いかに自己と他者を巧みに欺くかという才能のきわめて優れた者だけが歴史に長く残って行くだろう。そうした大きな博打のような画業に賭ける勇気のない者は、小心をちまちまと小出しにして細密な具象画を描くのがよい。
最後に猫のことを。今回の展示の隣室には阪神大震災の記録写真がたくさん展示された。それは昨年の大震災に対して芦屋市が継続的支援を続けていることの一種の宣伝を兼ねてだが、津高が阪神大震災で被災して死んだことにも関連づけている。津高の家は古い木造で、震災ですっかり倒壊した。津高夫婦はその下敷きになった。犬や猫は隙間から全部救出された。今回、写真の展示は絵と同じほどあって、その中に、急ごしらえの津高の祭壇の前で2,3匹の猫がひざまずいて祈っているような姿の数点があった。よほど主に懐いていたと見え、しかもその死を痛く感じているようであった。これは写真家の技術と言うより、本当にそういう思いで傷心に暮れたのだろう。津高の家は、古い農家を改修したものという。それであのように広い敷地であった。津高が購入した当時はまだ安かったのかもしれない。また洒落た鉄筋コンクリートの家に住まずに、農家を改修したのは、津高の実家がそうであったからか。父の働き詰めの生活を嫌悪したことから、書のような単純で洒落た感覚の抽象画を描きたくなったのだろうが、40数年の画業に変化が乏しいことは、父の農業と似てはいまいか。少なくても狩猟的ではなく、地道に同じことを繰り返すことを津高は好んだ。狩猟的であれば、あらかた成果を得尽くすと、同じ場所に留まらず、別の場所に赴く。農業国の日本ではそういう作家は少ないようだが、これも見方による。基本の基本は変わらぬまま、表面上だけは次々に異なる様相をまとう者は目立ち、これは半農半漁、あるいは半猟みたいなものだ。話が前後するが、津高は読書家であったので、東西の古典にも精通していたであろう。書のような油彩画を描くに当たって、漢字の意味を考えるかたわら、自作画における意味をそうした言葉に絡めてどう思いを込めたのだろう。作品の題名は単に「作品」とされている場合が多いので、作品の訴えるものについては各自勝手に想像すればいいというつもりであったと考えるべきだが、多弁であった津高であるから、その反動で作画は最少のものだけを込めようとしたのかもしれない。そこには精神的なものを描き留めたいという思いがあるのは当然として、その精神性は漢字の向こうに見える古代中国の思想に連なるものか、あるいは欧米の抽象主義への追随と対抗なのか、それとも戦後日本の経済成長とその歪への凝視なのか、そういったことが全く見えて来ないのは、津高が猫好きで、自分勝手の好きなことをやるという独立心が旺盛であったためか。おそらく猫好きでなければ理解出来ないのだ。そうでないとしても、津高の作は時代から逃れられず、また時代にあまりに即していたため、20世紀後半が今よりもっと冷静に判断出来るようになった時代でなければ、見えて来ないものがあるのかもしれない。蛇足ながら、最初の写真は壁画ロードから谷崎潤一郎記念館を見下ろしたものだ。2枚目の写真はその西隣りに立つ美術博物館。4枚目は、最上端に壁画ロードの壁画が小さく数点見えている。最後の写真は北側から撮ったもの。館の色合いがきれいだ。