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●『生誕100年 伊藤清永展』
ち味はどんな作家にもあるが、それがよくわかっても好みとなるかどうかは別問題だ。伊藤清永の名前と作品は、文化勲章を受賞して話題になった前後から知っていたが、その画風に注目したことはなかった。



●『生誕100年 伊藤清永展』_d0053294_14491113.jpg生誕100年という区切りを向かえて、関西で初展示される代表作の大作『釈迦伝四部作』を含む70点が展示された。会場は神戸の兵庫県立美術館で、会期は去年12月10日から今年1月22日であった。確か最終日に見た。その時に写した蛙ピエロの写真は一昨日載せた。その写真の左端に少しだけ写るのは家内だ。切り取ろうと思ったが、せっかくなので載せた。不機嫌そうな顔をしているのがよくないが。出品の70点の中には下絵やデッサンが多少含まれていた。そのため、全体にゆったりと間隔を取って展示された。『釈迦伝四部作』は、一作当たり高さが4メートル、幅3メートルあるので、この大きな美術館でなければ、仮に展示出来ても映えなかったであろう。名古屋の松阪屋でも伊藤展が開催されることを知っていた。1月20日だったか、名古屋に行った時ついでに見ておこうと思ったが、2月8日からであることがわかった。となると、兵庫県立美術館での開催が終わってから名古屋に巡回したのかと思うが、内容には差がある。チラシを見比べると、まず副題が違う。松阪屋展は「華麗なる女性美の表現」となっている。神戸では「絵筆に託す愛と祈り」だ。「祈り」は『釈迦伝四部作』を暗示しているだろう。百貨店では高さ4メートルの油彩画を飾ることは無理だ。また名古屋では50点の出品となっている。これらは神戸の展示から20点を省いたのではなく、別のものを補充しているかもしれない。それはさておき、大阪や京都に巡回しないのは、人気があまりないからだろうか。なぜ神戸と名古屋かと思っていたところ、展覧会を見て理由がわかった。チラシ裏面に書いてあることを少し引用する。『伊藤清永(1911-2001)は、兵庫県立出石町(現豊岡市)に生まれました。生家の曹洞宗吉祥寺にて幼少期をすごし、12歳の時、名古屋の曹洞宗第三学林(現在の愛知中学)に入学。在学中から油絵を描きはじめ、卒業後上京し東京美術学校西洋画科に入学。』 つまり、生まれと育ちの地に因んでの開催だ。その意味でこの展覧会は郷土の画家を顕彰するのが目的といったところがあるが、文化勲章をもらっているので、全国的に有名ではある。『釈迦伝四部作』は愛知学院大学100周年記念講堂の壁画となっている。これも母校に錦を飾った格好だ。油彩による仏画で、清永にすれば異例の作だ。「華麗なる女性美の表現」という副題からもわかるように、女性、しかもふくよかな裸婦が専門と言ってよく、そこに仏教臭とでも言うものは見られない。だが、本人は仏教的な祈りの思いを女性像に込めたかもしれない。それは鑑賞者の判断に任せるといったところであろう。裸婦以外に静物や風景も描くが、だいたいひとりの人物を描くことを得意とした。『釈迦伝四部作』も人物画だが、群像だ。これも若い頃からよく挑戦した。
 生家が寺であるので、本来なら僧になったが、とにかく絵が好きでその道に進むことを10代半ばで決めたようだ。今回は当時の作品が最初に2,3点出ていて、すでに達者な筆さばきを見せていた。だが、後に巨匠と目される画家であればごく当然の技量と言うべきだろう。そして、それらの作は、個性がほとばしっているというほどのものではない。油絵具を扱うのはそれほどに難しい。また、西洋で長い歴史のある油彩画を日本でやるとなると、あらゆることがすでに成し遂げられていて、残るは風土の差による、光の当たり具合、色彩感覚、物の見え方といったところの差で、それは突き詰めれば日本的な油彩画を描けばよい、また描くしかないことであって、清永はそのひとつの個性を作り上げたと評価出来る。このことは、悪く言えば西洋に対する日本というローカル、辺境性の表現であって、いくら逆立ちしても西洋の油彩画の歴史に匹敵するものではないことになる。そういう見方、つまり西洋ですでに試された技法から清永の作品を見ると、即座にルノワールやナビ派の作品を思い出す。ふくよかな裸婦となると、ルノワールから抜け出すのは無理と言ってよい。だが、清永の側に立って言えば、ルノワールがほとんど見なかった日本女性の肌の違いを表現したから、ルノワールにない画風となる。それはもちろんだが、豊満な裸婦という代表的画題のすぐ向こうにやはりルノワールがちらつく。そして、ルノワールの描く美人を見ると、清永の裸婦はいかにも田舎臭い顔立ちで、同じ見るなら美人の方がいいと思ってしまう。これは、モデルが日本人では、顔立ちが西洋人並みの美女は無理であったと考えるしかない。そこを理想化して描くことは、おそらく簡単であったはずだが、絵に嘘が混じり過ぎたであろう。嘘を嫌うのであれば、写実によりかかろうとする。清永の基本はそこにある。ヨーロッパに60年代だったかに旅行し、現地でモデルを雇って描いた作が10点ほどあって、ひとつの部屋にまとめられていた。印象深いことに、その部屋の空気だけは明らかに違った。どのモデルの顔も実際にかなり似ていることを思わせ、またそれまでの日本人をモデルにしたものと全然違う顔立ちでもあって、かえって生々しい現実感があった。また顔だけではなく、西洋人の肌が日本人とは異なることを痛感し、それを見事に描いていたが、そのまま西洋に留まって描き続ければよかったのではないかと思わせられたほどだ。だが、やはり日本の女性を描くことにこだわり、その困難な問題に挑みたかったのだろう。ともかく、ヨーロッパで描いた女性像は、タッチは日本女性を描く場合と同じであっても、色彩が全く違って、清永の腕の確かさを認識させるに充分であった。だが、ルノワール調の裸婦を日本人に置き変えることの意義と言おうか、それが見えにくい。
 残念ながら2枚のチラシの裏面に図版が載っていないが、清永の代表作と言ってよい裸婦は、鏡の前に立って口紅を塗る姿を描いたものだ。これは教科書に載る代表作であろう。腰や尻がかなり大きく描かれていて、官能的という表現がふさわしいが、この絵を見ながら性の対象としての女性を感じない。そう言えば清永の描く裸婦はどれもそうだ。言葉は悪いが、情欲というものを催させるものではない。かといって清潔感溢れるという表現でも当たっていない。そこで思うのは、やはりルノワールの裸婦で、とかく健康的なのだ。これに対して不健康と言えば、たとえばクリムトの描く裸婦だ。頽廃的と言ってもよい。そういうムードからは清永の裸婦は遠い。これは名前の「清く永い」が反映しているのかもしれない。あるいは寺が生家で、頽廃を拒否する思いが強かったからか。だが、頽廃ムードが悪くて、健康的がよいという問題でもない。見られるべきことは、真実味がどれほどあるかだ。また、男は裸婦像を見る時、つい邪な考えを持ちがちで、「頽廃ムード大好き、退廃のどこが悪い」という思いを抱く。そして、その立場からすれば、健康が前面に出ている裸婦はさっぱり面白くない。これはミケランジェロとクラナッハの裸婦を対比してみるとよい。男のような筋肉隆々のミケランジェロの裸婦は、性の対象として見るべきものでは全くないが、クラナッハの裸婦は、見てはいけないものをこっそり見てしまったような思いにかられる。このように、裸婦像は500年ほど前からふた通りあって、画家はそのどちらにより傾くかを試される。清永は健康美派で、そこが面白いと思う人と、そうでない人とに別れる。2枚のチラシの裏面ともに図版が載る、1936年に描かれた大作「磯人」は、褐色の肌をした海女を7,8人描いたもので、豊満な肉体の点で後年の代表的な裸婦像の先駆となっている。また健康美の点でもそうと言ってよい。しかも晩年盛んに繰り返される室内で椅子に座る裸婦の作品とは違って、野外の群像である点で特筆すべきだが、よく見ればそこにピカソの影響が感じられはしまいか。浜辺の豊満な裸婦はピカソの代表的な画題であったが、清永はそれを日本に置き換えながら、しかもピカソが表現しようと考えた古代ギリシア美術的な健康さを盛り込みたいと思ったであろう。そのように見ると、先に書いたように、清永の作品の向こうに、ヨーロッパの画家の先駆的な仕事が感じられ、何だか冷めた二番茶を飲んでいる気になる。
 清永がそういうことをどれほど悩んでいたのかそうでなかったのか知らないが、たくさんのモデルを使いながら、精魂込め尽くした『釈迦伝四部作』は、今まで繰り返されて来た型どおりの表現を踏襲せずに、自分の画風でありながら、釈迦伝でもあるといった難しい方法を採った作だ。そこに初めてルノワールやピカソには出来ない表現を自覚したのではないだろうか。ただし、それが成功しているかどうかは別問題だ。油彩画を今ではもう西洋の表現と思い込まなくてもいいほどに、日本ではそれなりに長い歴史があると見れば、『釈迦伝四部作』は少しも違和感のない、描かれて当然と思えるが、背景の一部に金箔を貼っていることを無視しても、釈迦を油彩で写実的に描くことにはありがたみが乏しい気がする人も少なくないだろう。キリストを油彩で描くことには無理がないのに、なぜ釈迦では駄目なのかと言われそうだが、釈迦が生きていた時代と国にあった表現になるべく近いもので見たいという思いは一般的なものではないだろうか。だが、それを言えば、釈迦はインドの東西で全然違った風に表現されたから、清永の描く釈迦はガンダーラ仏に似たバタ臭いものと思えばいいかもしれない。また、キリストがどう描かれて来たかの歴史も一筋縄で行く問題ではなく、写実的もあれば、様式化が著しいものもある。そう考えると、釈迦が油彩で描かれてもよい。これは慣れの問題かもしれない。ともかく、清永にすれば母校にふさわしい大作を残せたことは本望であったはずで、それも健康、幸福といった言葉で形容されるにふさわしい。だが、清永の人生がそう単純で何ひとつ不自由がなかったというものではない。若い頃は絵具代に困り、援助してくれる人々があったそうだ。たとえば「磯人」はある人からの依頼によって描き、描いてもらったその人は、空襲の際には絵を丸めて防空壕に持って入ったという。援助する人、あつまり理解者が壮年の時期から少なからずいて、また大作が宝物のように思われていたのであるから、やはり幸運であった。また、そういう戦争を経験しているので、なおさら悲惨なものに眼を向けず、健康的な美しい女性を描きたいと思ったという。それはそれでよく理解出来る。清永は二度結婚したが、最初の奥さんとは死別だろうか。年譜にそのことが書かれてあったのかどうか。晩年に若い裸婦像を盛んに描いたことは、毎日のようにそういう女性を眼の前に置いたことであって、これはうらやましい。モデル料は大変だったはずだが、モデルを雇って描かねば、現実感が出にくかったはずで、そこに写実を忘れない覚悟が見える。最後に付け足しておくと、清永の裸婦は、間近で見ると激しく細い糸のような線の絡みで、ほとんど表現主義だが、やや離れて見ると、肌の奥の青や赤の血管までが浮いて見える。それもまたルノワール譲りと言ってしまうのは酷で、清永が苦心してつかみ取ったものだ。そして、そういう画家としての大きな特徴を持ち得たところからも、幸福な画家であったと思える。
by uuuzen | 2012-02-21 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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