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●『犬塚勉展-純粋なる静寂』
粋なる静寂という副題はうまくつけたものだ。犬塚勉という名前を知らない人でも、おおよそどういう絵か想像出来る。だが、元来絵画鑑賞は映画を見るのと違って音はない。



●『犬塚勉展-純粋なる静寂』_d0053294_0473633.jpgそれはひとり静かに絵の中の世界に没入することであって、純粋な静寂を味わうことにほかならない。とはいえ、純粋な静寂という状態がどれだけ可能かとなると、自然豊かなところであっても、鳥のさえずりや風の音が聞こえるであろうから、あまり現実的ではない表現と言える。だが、そうも言えないか。昨夜寝る前に窓の外がどうもいつもと違うことに気づいてドアを開けると、雪が10センチほど積もり、また粉雪が降っていた。今年初めての積雪だが、純粋な静寂と呼ぶにふさわしかった。雨は音でわかるが、雪は音なしで降る。そのことが、雪の積もる様子を静寂と思わせる。さて、今日は昼間は陽が照って多少暖かかった。これを書き始めた午後11時、思いのほか、冷え込んで来た。傍らの温度計を見ると、摂氏8度だ。我慢出来ない寒さではないが、指の感覚が鈍い。それでストーヴを点けた。さてさて、今日は午後から展覧会をふたつ見に行く予定でいたが、ついぐずぐずしている間に午後3時になり、そのまま仕事に没入した。3月下旬までやっているので、また暖かくなってからでもよい。明日は今日予定したものとは違う展覧会に行くつもりでいるが、天気予報では雪が降る。となると、今日と同じように、結局出かけないかもしれない。それはいいとして、今日取り上げる展覧会は1月6疲から23日まで京都高島屋で開催された。今年初めて見た展覧会だ。次々に展覧会を見ていると、1か月前でも見たものを忘れる。保存している半券の束を見て思い出した。今夜と明日はそんな展覧会について書く。さっさと忘れてしまうようなものを無理に思い出して書く必要もないが、無理に思い出そうとするところに、また有益なこともある。そうとでも思わない限り、毎晩こんな長文を書くことは出来ない。誰が読まなくても、とにかく書く。山の白百合は、誰が見ていなくてもきれいに咲く。たまたま誰かが見かけて、ああきれいだなと思っても、白百合はそのことに無関心だ。筆者のブログもそうありたいものだ。で、何事も見てすぐに忘れて終わりでもいいが、こうして書き留めることは、筆者が何を考えたかの軌跡になる。展覧会の内容よりも、筆者がどう考えたかが大事だ。これは自分のためだ。その意味で、展覧会についてでなくてもよく、とにかく何か書けばそれが自己表現になる。ま、せっかく白百合のたとえを持ち出したのであるから、そんな大げさなことを無粋にも言わなくてもよい。
 犬塚勉の画業は2009年にNHKの日曜美術館で紹介された。そのことで人気が出た。今回の巡回展はそれを受けてのことだ。日曜美術館は放送が始まった昔はよく見た。それが2,3週間に一度となったのが、20年ほど前のことだ。その後はほとんど見なくなった。そう言いながら、先週は見た。見なくなった理由は、TVで詳しく紹介されると、それに気分が左右されるためであろうか。あちこちに置かれているチラシをせっせともらって来るが、いつもそれをつぶさに見てから展覧会に行くのではない。展覧会を見た後、気分が向いてこうしてその感想を書く段になって初めてチラシのわずかな文章を読み、裏面の小さないくつかの図版も眺める。前もっての情報をあまり持ちたくないのだ。それでわかったような気になって見るのもひとつの手だが、実際の作品に間近に対面して初めて感動を味わいたい。チラシに印刷される図版では、作品の大きさは体感出来ず、また表面の絵具の載りといったこともわからない。そのため、チラシは便利なようでいて、誤解を与えかねない。なので、見終わってからじっくり見るに限る。この、絵は実物に対面すべきという重要なことが、ネット時代になってますます軽んじられている。日曜美術館も同じだ。家庭のTVは液晶の大型画面が普通になって、細部まで鮮明に見えるが、解像度がいくら高まろうが、それはカメラを通して見た映像で、本物とは違う。ところが、人々はそうは思わない。むしろ、本物の絵画よりも、そうした画像の方に普段から親しみ、ぱっと見ただけでもう知っていると誤解する。絵は買わねばわからないとよく言われる。それはある程度は正しい。絵は撮影した画像そのものではないからだ。本物の人間と、その人の写真が同じ存在でないのと同じことだ。ヌードやポルノ写真が本物とは大違いであるのと同じで、本物には無限の情報がある。そのごく表面的なものだけをカメラは写し取る。だが、こういう見方は今は非難を受けるだろう。何しろ、写真、画像で飯を食っている人があまりに多い。ネット関係者、TV業界はみなそうだ。そういう人々が世界を牛耳っており、ネット上には世界のすべてがあり、TVによって世界のあらゆるところが家にいながらにして見られると高をくくっている。だが、それは全くの自惚れであって、言うなれば画面上の画像は死の世界に属するものだ。画家はそういったことをいつも考えているか、あるいは考えたことがある。前にも書いたことだが、平安画廊で10年ほど前にある作家がこのように言った。「今はもう絵画の時代ではなくなった。誰もじっくり絵を鑑賞することなどせず、TVやTVゲームに時間を潰す。」 全くそのとおりだ。さきほどTVのコマーシャルを見ていると、スマートフォンのアプリに、面白い映像が見られるものがあって、それに夢中になっている笑顔の女優が映った。絵画鑑賞よりもっと面白いものが今は溢れ過ぎている。そんな世の中にあって、画家が何をどう描いたところで、個人の静寂のつぶやき程度にもならない。確かに、日曜美術館が今も続いていることを思えば、ある一定数の美術ファンはいる。だが、それは少数であり、大多数はTVやネットの画面に向かう。そして、日曜美術館もそういったメディアであり、そこに本物の絵から味わえる世界はない。それを得るには、むしろ何ら予備知識なしで会場に出かけるがよい。
 犬塚勉については何の知識もなかった。会場で初めて38歳で死に、その20年後に日曜美術館で特集されたことを知った。多磨に住み、美術教師をしながら描き続けたが、最初は孤独な人物の群像を描き、やがてスペインで学び、モチーフはスペイン的なものが占めるようになる。その頃の作は現代のスペイン風と言えばいいか、色鮮やかで、比較的素早く描かれ、洒落たイラストっぽい感じだ。似た画風は半世紀前の日本人画家にあった。本人もそれをわかっていたのか、あまりその期間は長く続かない。その後に、同じようにタッチは荒めだが、仏像を描くようになる。色はぐんと変わって、渋くなる。それまでの洒落た色からの大転換で、かなり違和感がある。何でも描けるという、卓抜な技術はわかるが、それだけに訴えるものが少ない。本人は仏像を描くことで精神的なものをもっと深く見つめたいと思ったのだろう。だが、写真集をもとにした制作で、本物の仏像を前にして描いたものではないだけに、あまり迫って来るものがない。こうした模索は1983年頃まで続く。そのまま変化がなければ、凡庸な画家で終わっていたかもしれない。会場の最初の4分の1ほどは、そうした初期の変遷が紹介され、少々退屈であった。ところが、それががらりと変わる。それも自信を得たかのように、一気に力強さを帯びる。その新たな画風は、細密描写だ。それまでは具象に多少抽象を混ぜた感じで、しかも色面構成と言ってよかった。それが、去年12月下旬に紹介した磯江毅の画業のように、スペインのリアリズムに開眼したのか、それこそ純粋な静寂という表現がふさわしい作風になる。それまでも風景画を描いていたが、誰かに誘われてであったか、山登りをするようになり、画題をその山に登った時のスケッチを元にするようになる。もちろん絵具やキャンヴァスを持って高い山に登って描くことは出来ないから、簡単な素描と、それに写真をたくさん撮って来て、それらを元にアトリエで画面を構成する。そのため、実物と同じ風景ではなく、そうであるかのように構成した、半ば架空の風景だ。だが、絵を構成するとは本来そういうことだ。そこが写真とは違う。本物と同じではないが、より本物らしく見える。写真でそれをするのはかえって大変だ。山登りは体を思い切り使う行為だ。そういう過酷とも言える行為を通じてしか得られない思いがあるのは、山登り愛好家がいつの時代にも多いことから想像出来る。犬塚の絵が共感を呼ぶとすれば、そういう業に似た行為を背景にして制作しているからだ。誰かに山に登らせてその経験を耳に描いたのではない。自分の手足と目を使って味わった感動をもとに描いている。これはあたりまえのようでいて、誰にでも出来ることではない。
 犬塚が死んだのは、谷川岳で遭難したことによる。山登りで本当に描きたいものを見つけ、またひとまず代表作と呼べるものを矢継ぎ早にものにしたにもかかわらず、山の神は犬塚を長生きさせず、純粋なる静寂の世界に連れ去った。1984年から絶筆となった1988年までの5年間の密度は、凡庸な画家の一生に匹敵している。そのため、その意味からすれば、幸福であったと言ってよい。夭折は確かにそうだが、一個の画家と画家として誇るべき仕事を成し遂げた。もう10年や20年の寿命があっても、そう画風は変化しなかったろう。画家はだいたい長命が多く、また同じような絵を数十年にわたって描き続けるものだが、そういうある種見苦しい態度を見せなかっただけでもよかったのではないか。また、夭折することを知っていたかもしれない。それほどに、一作づつに手応えがあって、とにかく山登りが楽しく、また描くことが生甲斐であったろう。磯江は人物や静物を得意としたが、犬塚は風景画だ。ともに写真のように克明に描いたが、どっちが緻密かと言えば前者かもしれない。また、犬塚はアクリル絵具を用い、その分礒江よりも制作は早かったと思うが、面相筆で細い草の1本ずつを描き分けるほどに細かいので、1点に磯江に劣らないほどの多大の時間を費やしたに違いない。会場で年配の夫婦がいて、夫は異なる作品ごとに、「これは写真やで」と何度も言っていた。そのたびに奥さんが、「違うで、絵やで。描いてあるんやで」と返答していたのが面白かった。絵を見慣れない人には、絵とは思えないほどの緻密さなのだ。だが、礒江も語っていたように、写実を突き詰めて行くと、幻想がふと入り込む。犬塚も同じことを思い、そして現実にはないが、あるかのような画題の構成をした。筆者は山登りをしないので、山の純粋な静寂を知らないが、わずかな経験から想像することは出来る。それは、どこか恐ろしいようなところがあって、山には神がいることを思う。犬塚はそういう空気に魅せられたのだろう。そして、それは仏像を描いたこととつながっている。そうして犬塚の画業をまた元に戻って最初から見ると、卒業制作当時の若描きの大作は、たくさんの道行く人を描きながら、どの人物も眼を合わさず、孤独に浸っているように見える。その静寂は、山登りをするようになってからの、人のいない風景画に通じている。最初に書いたように、絵画を鑑賞することは、そういう静寂な思いに浸ることだ。絵に対峙することで、自分の内面を見つめるのだ。山の風景を描いた作の中に、10歳くらいの帽子を被った夏服の女の子を大きな岩の陰に立たせてこちらを向かせたものがあった。点景といった程度の扱いだが、見ている間にその女の子がふと消える思いにかられた。実際にそのとおりだろう。個人はすぐに世の中から消え去るが、山は永遠にある。その永遠を人間が凝視するには、純粋に静寂な思いを抱く必要がある。
●『犬塚勉展-純粋なる静寂』_d0053294_0482832.jpg

by uuuzen | 2012-02-18 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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