彌生ではなく、「弥生」と書くと、名字の「草間」とあまり釣り合わない印象がある。「彌」の「爾」には×が4つある。×はアメリカではキス・マークを意味するから、「彌」は女性的でなかなか草間に似合う。

今回の展覧会はポスターやチラシなどのタイトルの「草間彌生」が、明朝体を使いながら、水玉模様や網目模様で埋められている。そして、「彌」の×4つは扁平な波型に変えられて、インパクトが減少している。細川家の宝物展が昨秋京と国立博物館であった。その際も展覧会タイトルの文字は今回と同様に装飾された。それが気に食わないので同展に行かなかったとブログに書いた。今回も同じデザイナーが担当したのだろう。これでいいだろうという中途半端な態度にげんなりする。考えが単純過ぎる。明朝体の一部分に装飾を施すというのではなく、名前全体を昔のレタリングのように、全く新たなに描き起した方がよかった。あるいは草間自身にデザインさせるかだ。チラシやポスターに使用される目立つ文字だけに、草間がいくら許可したとはいえ、デザイナーの感覚は草間のそれとは全く相容れないものを感じさせる。ま、いきなりそんな細々したことをと思われそうだが、草間の作品の基本のひとつは水玉模様であり、そういう単純過ぎる要素で自己主張している作風を思えば、展覧会を告知するひとつの大きな要素のタイトル文字にはもっと気を配るべきだ。だが、草間の装飾的な作品の本質をタイトルに表わそうとするには、文字に装飾を施す考えはまともであり、かつ安易で、無難なところで収めたと言ってよい。「弥生」に戻ると、草間は弥生、つまり3月の生まれだろうか。この展覧会は4月8日まで開催中で、暖かくなる3月には最も多くの人が訪れるだろう。また、そういう春にふさわしい内容で、女性はなおさら歓迎すると思える。会場には大作ばかりが並んだ。大きな立体作品は写真撮影が許されていたが、その理由は、一昨日書いたように工場に依頼して作らせたものであるためでもないだろうが、草間の手が直接には加わっていない点で、1点ものの絵画とは違う空気を漂わせていた。だが、これもそうとは言い切れないところが草間の作品にはある。たとえば、2番目の部屋に並んだ50点のシリーズ絵画は、マジック・インキで即興的にキャンヴァスに描かれたように見えはするが、最初そう描きながら、その原画をシルクスクリーンで作り直したものだ。そのため、一点ものではないが、そのように見えるところがある。それはさておき、合成樹脂製の巨大立体作品は、美術館の外やホールに置かれていた軟体動物のようなもののほかには、黄色に黒の水玉を規則正しく施したカボチャ、そして白地に赤の水玉模様の植木鉢に入ったチューリップがあった。カボチャは以前見たことがある。チューリップの作品は、同じ白地に赤の水玉模様を床、天井、壁のすべてに埋め尽くした部屋にふたつあった。これら二作とは別に、美術館から西に300メートルほどにあるリーガロイヤル・ホテルに展示されている「明日咲く花」がある。これは見に行かなかった。チラシにはその写真が載る。赤、黄、青、緑とカラフルな色合いで、花、葉、茎に色違いの水玉が描かれている。どこかニキ・ド・サンファルを思わせるが、草間はミニマル・アーティストに分類してよく、出発点はかなり違う。

何をどこから書いてよいか迷うが、まず、草間は1929年長野に生まれた。10歳頃から水玉模様と網目模様を描いていたという。当時の有名な素描があって、母の顔全体に、疱瘡のように見える丸い泡状の文様が描かれている。草間はそのように見えたのだ。幻影が見えるところ、普通の子とは違って、精神のどこかが過敏であり過ぎた。20歳頃に京都に出て日本画を学ぶが、その伝統的に決まりがうるさい仕事に馴染めなかった。そのまま我慢して日本画をやり続けていても、結局同じような絵を描くことになったと思うが、20代後半に渡米する。1957年というから、ヨーコ・オノとどちらが早かったのだろう。ふたりは同世代だが、草間が4歳年長だ。草間はヒッピー文化に身を投じ、突飛な衣装を作って着たり、またほとんど裸でハプニングと呼ばれる行動の芸術を体現した。当時の草間の写真や、またその頃を思い出して書いた文章が最後の部屋にあった。フィルモア・イーストやローリング・ストーンズ、アヴァンギャルド(草間はアーバンガールドといった言葉で書いていた)などの言葉が踊り、60年代ロック文化のただなかにいて、オリジナルな作品を全身で追求していたことがわかる。その頃の活動だけでも別の大きな展覧会が開催されてよいが、今回は近年の作を中心としたもので、街中の画廊では間に合わず、巨大な空間を使っての新作個展となっている。これは自分のたどって来た道を回顧しないという覚悟からであろうか。芸術家は過去の栄光などどうでもよく、今この瞬間が何より大事というつもりなのだろう。最高傑作は過去にあるのではなく、現在描いている作であるという自信だ。それは、何にも隠れず、常に自分の裸を晒すという思いに裏打ちされている。そのことは50年代後半から60年代初期にかけてのロック時代から何ら変わっていないと言うべきだ。先にミニマルと書いたが、アメリカが生んだミニマル・アートに洗礼を受けたのではない。10歳頃から草間ならではのミニマル的な画風はほとばしり出ていて、それがアメリカのミニマルとたまたま呼応すたというだけのことだ。また、昔の草間の平面作品は、カラフルではなく、白いキャンヴァスに白や灰色でびっしりと網目を埋め尽くしたような画風で、そこには息苦しさが凝縮している。それに対し、今回メインとなった近年の作品は、もっと自在で、風通しがよい。即興で描くことには変わりがないが、天衣無縫とでもたとえてよい自在さが横溢している。ミニマル・アートにはどこか陰陰滅滅な印象があるが、草間はそこから脱して、陽気さに遊んでいる。

草間は文章をよく書くようだ。今回も最初の部屋にいきなり大きな活字で詩のような文章が紹介されていた。それは必ずしもわかりやすくはないが、言わんとしていることは伝わる。いつも自殺願望がありながら、描くことでそれを脱して来たとのことで、簡単に言えば芸術に対する感謝だ。また別の部屋では制作風景を撮影した10分ほどの映像が映し出されていて、死ぬまで大作を1000、2000と描き続けてやるとの決意が述べられていた。その制作の様子を見るだけでもこの展覧会に足を運ぶ価値がある。若い助手に絵具の入った大きな皿を持たせながら、草間はテーブル上に平たく置いた200号ほどの正方形のキャンヴァスに、四方からぐるぐると回転しながら順に描いて行く。下絵はもちろんなく、どういう絵が出来上がるのか、草間にもわからないのだろう。一旦べったりと塗った色を、ほとんど別の色で覆ったりもするが、最後はどういうようにまとめるかを心得ている。それはジャズのアドリブそっくりで、きわめて音楽的だ。マティスに近いと言ってよい。そのように四方から描くのであるから、絵の天地は描き終わってから決める。これは女性が着用するスカーフと同じで、20代から突飛な衣服を着ていたことを思えば、全く納得出来る絵画だ。水玉模様は衣服の代表的な生地だが、それを最大の表現要素としているところにも、草間の絵画はスカーフなどの洋服のプリント生地とつながっている。実際、今回披露された「わが永遠の魂」と題する、2009から2011年までに描かれた162センチ四方のキャンヴァスにアクリル絵具で描いた47点は、どれもスカーフに縮小してプリント生産すれば、飛ぶように売れるのではないか。このシリーズは現在140点描かれているとパンフレットにある。その後増えて200点になっているかもしれない。うち1点はポスターに選ばれた。その写真を昨夜載せたが、その小さなサイズのものが1月には阪急電車の吊り広告になっていた。筆者はそれを見ながら、実に素晴らしいと唸ったものだ。余白といい、また個々の形や色の配置といい、無駄もないし、また全体に動きがある一方、どの要素も動かし難い。造形的に完璧だ。それが即興で描かれたのであるから、これを描いている間、草間はよほど気分が高揚し、無我の境地にあったに違いない。ようやくそういう絵を描ける境地に至ったのだ。草間の絵はアール・ブリュットとして分類してよい面もあるが、それほどに心が無垢だ。それを狂気と思う人もあろうが、大多数の考えをひとまず横に置けば、何が本当の狂気かは、誰にも言えない。

制作中に草間が語っていた。ピカソやウォーホルに負けてなるものかと言うのだ。これには思わず笑った。それだけ正直なのだ。自分は欲がありませんなどとは言わない。欲がなければこれほどたくさん描くだろうか。そこには、やはり誰も到達したことのない高みを目指したいという願望がある。ピカソやウォーホルのように有名になりたいというのではないだろう。結果的にはそうなのだが、そうした巨匠に匹敵するほどの仕事をしたいのだ。それをすれば名声は後からついて来る。そういう意味でのピカソやウォーホルを超えたいという発言だ。また、83歳になっても、そうした負けん気や、旺盛な制作に耐える体力と気力があることは稀有なことだ。その点ではとっくにピカソやウォーホルを超えている。草間が望むことは、本当に「わが永遠の魂」を1000や2000点描くことだろう。それ以上望むものは何もないに違いない。老齢に達して、よりあらゆることから自由になり、制作に没入することが出来るようになった。草間は今が一番幸福なのではないか。それをようやく高齢になってつかんだことに、人々は、そして作家は勇気を与えられる。だが、そういう草間が「わが永遠の魂」を精神病院で暮らしながら描いていることを知ると、痛みも感じる。いや、そういう痛みを散々味わい続けて来た結果、ようやく何ものにも囚われない境地に至ったのであろう。その痛みを草間は忘れたのではない。会場最初の詩のほかにも、あちこちに草間の言葉を書いたパネルがあった。これも筆者なりにまとめると、女である草間は、熱烈な恋に生きながら、それが成就して長く続かなかったことの痛みを忘れていない。草間は子どもを生まなかったのだろう。その代用が創作であったと言いたいのではないが、心の欠落の埋め合せのためには、ひたすら制作することしかなかったという側面は否定し難いと思う。「わが永遠の魂」に至るまでの別の大きな部屋では、白と黒のみで描かれた同じく巨大な作品シリーズ「愛はとこしえ」があった。2004年から7年にかけてキャンヴァスにマジック・インキで描かれたもので、先に書いたように、それを転写してシルクスクリーンの版画にしたものが今回並べられた。全50点はどれも162×130.3センチだ。このシリーズに描かれる具体的な要素は、人の横顔の線や花や葉などで、それは「わが永遠の魂」にも使われるが、特に眼を引くのは横顔だ。これはみな男に見えた。そこに草間を何を投影しているのだろう。「愛はとこしえ」の「愛」とは何を指すのか。誰への、何への愛か。絵画への、自作への愛である一方、その動機となったものに対する愛が大きいだろう。

最後の部屋にあった写真の中に、草間とジョセフ・コーネルがぴったりくっついて写っている1枚があった。ふたりとも笑顔でなく、しみじみとした表情で、視線を合わせていなかった。コーネル展の図録を所有するが、今調べるのが面倒なのでこのまま書くと、ふたりは確か一時期同棲していた。どういう経緯で関係が終わったのか知らないが、草間と小さな箱の中にさまざまなオブジェを配置した作品を作ったコーネルとのカップルは、とても似合う。コーネルは内向的な芸術家であり、一見破天荒でありながら、傷つきやすい草間とは、響き合うものがあったのだろう。ただし、草間はヒッピー時代にアメリカで暮らして制作していたから、愛については奔放であったのではないか。だが、奔放でありながら、一途に思い続ける相手がいたことは矛盾しない。草間の詩の中に、そういう特定の男性への思いを綴ったらしきものがあった。あからさまな書き方ではないが、どこか切々として、胸を打つ。それを読みながら筆者は目頭が熱くなった。草間はその永遠に離れてしまった相手を思い続け、その愛を絵画にぶつけているように思えた。つまり、草間が描くすべての絵は、今はいない愛する人への手紙のようなもので、それを綴っている、つまり描いている時だけが一番幸福なのではないか。それは悲しいとも言える行為だが、一方では生きるための唯一の意味でもある。何を目的で描くのか。草間ほどになればもちろん金ではないし、また今さら名声でもないだろう。だが、かつて愛した人に会いたくてたまらないというのではない。愛し合って知った思いは永遠で、それを内に秘めて忘れない限り、自殺への衝動から免れ得るし、また制作に没頭出来る。その愛し合っていた日々はほとんど刹那と呼ぶにふさわしい短さで、であるからこそそれが永遠に忘れ得ないものとなっている。このように解釈すると、えらくロマンティックで、しかも草間の絵画が何となくやわなものに聞こえてしまいそうだが、それは全くの間違いであって、その刹那の愛こそが最も人間を強くし、また何物にも変えがたく、人を突き動かし、終生支配する。それを愚かと思う人はそれでよい。だが、女は男と違うだろう。筆者は男なので女の気持ちはわからないが、女の男とは異なる精神構造を見下げるつもりは全くない。それどころか、男がほしがるものなど、すべて玩具のようにくだらないものとさえ思う。今回の展覧会の直接的な感想ではないが、3日前、一昨日、昨日の3回の投稿は、この草間展の間接的な感想となっている。それらを全部つなげて、全く違うように書くこともいいが、草間に倣って、どれも即興でしたためた。