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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『日吉の神と祭』
神さまの松尾大社が新たに発見された神像をまとまって展示する機会が昨年9月にあった。それを知っていながら見に行かなかった。いつでも見られるという思いがそうさせる。



●『日吉の神と祭』_d0053294_0521983.jpg摂社や末社から発見されたもので、保存上大社に置くのが好ましいと判断されたのだろう。1000年も前のものが今頃発見とはおかしいが、神像は普段目に触れないもので、存在は昔から知られていたものの、撮影するのが初めてで、そのお披露目もかねての機会を発見と称している。広く公にされずに、ごく狭い、小さな集団だけに神像や仏像が大切にされて来ていることは珍しくない。筆者の自治会では夏の地蔵盆の際、法輪寺参道下の祠に渡月橋たもとにある祠にまつられている石仏を運んで設置するが、その際その背後に地蔵を描いた著色の小さな掛軸も吊るす。この掛軸は、筆者の見たところ、せいぜい150年ほど前のものだが、地蔵盆当日以外は、自治会の会員が1年単位で持ち回って自宅で保管している。ところが、保管の対象になる家庭は、昔から代々この地に住んでいる人だけで、筆者のようなよそ者は含まれない。筆者も混ぜてくれと言えば仲間に入れてもらえるかもしれないが、どうでもいいので言わない。この掛軸の存在を筆者は会長を担当し始めた3年前に知った。そのため、筆者と同じような新参者はおそらく誰も知らない。知らないので1年間保管してくれという話もやって来ない。それはそれでいいのだろう。地蔵盆にその掛軸を必ず飾らねばならないという決まりはなく、昔から恒例でそうしているだけで、祠の奥に隠れてそれがあることもほとんどの人は知らない。その掛軸が500年くらい前のものであれば、筆者も熱心になるが、150年ほどならば、いわばいくらでも骨董品で出て来る。筆者ならもっと古いものを持っている。ただし地蔵像ではないが。それはさておき、このように、古くから住む人々は仲間意識を抱きやすく、そのよりどころとして、お祭りがある。だが、高齢化と少子化に伴なって地蔵盆がまともに開催出来なくなりつつあり、田畑をつぶして出来る新たな住宅に住む人々をどうにか自治会に加入させて、新しい自治会を作らねばならない。筆者は嵐山に来てもうすぐ30年になるので、よそ者ではあるが、3分の1くらいは地元の人ということになるのであろう。そのためにも自治会長を依頼されたが、その役割は、新しい会員を増やすことだ。それには古い住民との交流が必要と思うが、これがそう簡単ではない。京都という土地柄は難しい。表と裏の顔があまりに違うとよく言われるが、確かにそういうところがある。ま、どうでもいい話だが。
 氏神の松尾大社は、筆者が京都に出て来て最初に梅津に住んだ時から意識させられた。それは1年に1,2回、人の形に切り抜いた白い紙を小さな封筒とともに町内会長が、家族の枚数分を持参したからだ。その人形に名前と生年月日を書き、息を吹きかけて、1枚当たり最低100円を封入して大社に納めてもらう。これはほとんど強制的で、別段疑問を抱かなかった。梅津には梅の宮大社があるが、そこも同じことをしていたかどうか記憶がない。松尾大社のこの人形は、おそらくもっと東の葛野大路あたりの地域まで及んでいるのではないか。松尾大社を開いた渡来人の秦氏の地がそのあたりまで含まれていたからだ。この人形は嵐山に引越してからも当然やって来た。ところが7、8年前だったろうか、それがなくなった。その理由を知ったのは自治会長になった3年前だ。前任者が断ったのだそうだ。自治会と松尾大社は別だという意識があったのだろうか。あるいは、そうした寄附は平安神宮に対しても行なっており、自治会会員の経済的負担を抑えたかったのだろう。一旦なくなったものを復活するには、筆者が松尾大社に声をかければそれで済むが、今さら復活する理由もない。寄附したい人は徒歩10分で大社に着くし、お参りして賽銭を投げればそれで済む。それに、松尾大社以北の14の自治会は、毎年5月に子ども御輿を大社まで往復し、その際に御輿に貼るお札をもらうために寄付をしている。子ども御輿を大社まで繰り出しているのであるから、わが自治会も例の人形による寄附をするのがもあって、地蔵盆ですら辞退する会員があるので、事はそう簡単にまとまらないだろう。これは氏神の意識がうすれて来ていることを示す。人々の移動が活発化し、地元の神社にお参りするとは限らない。筆者は毎年正月は祇園の八坂神社に詣でて、松尾大社は2,3年に1回だ。そうそう思い出した。隣の地区の自治会長に、愛宕山に3日に1回登っている人がいる。その話をいろいろと聞くのが面白い。先日の新年会で聞いたが、愛宕山にわざわざ関東から10日ほど泊まりがけでやって来て、ほぼ毎日登る夫婦がいるらしい。その夫婦は日本各地の山を登り、また地元では八王子の高尾山によく登るが、断然愛宕山がよいそうだ。それは山道や景色がいいことのほかに、やはり京都市内を見下ろすことが出来るという、その地理的歴史的な重要さを思ってのことだ。このように、人は必ずしも自分の地元を一番とは思わない。
●『日吉の神と祭』_d0053294_0524263.jpg

 さて、今日取り上げる展覧会は、去年秋に開催された3館合同企画のひとつで、残りふたつは昨夜と、もっと以前に書いた。昨日書いた展覧会を見た後、JR大津に出て、そこから徒歩で歴史博物館に向かって見た。途中で何枚か写真を撮り、それをブログに載せるつもりで加工を済ませたのに、波動スピーカーについて投稿する日に誤って消してしまった。そのことは波動スピーカーについての投稿にも書いた。いい写真が何枚もあったのに残念で、ファイル復元ソフトをダウンロードしてあれこれ試したものの、結局復元出来なかった。その消去した写真を元に書く予定であったが、写真がなければ無理で、その話題は没にする。『日吉の神と祭』は、日吉大社についてのものと思ってよいが、展示された作品は摂社、末社だけではなく、滋賀県内の神社や、また他県の美術館などから借りられた。近江も渡来人が開いた土地で、百済寺などは名前からしてそうだ。また、松尾大社は大山咋神を祀るが、日吉大社も元は大山咋神を祀っていた。となると、この展覧会は松尾大社に祀られる神像とよく似たものが並ぶものかと予想したが、まさにそのとおりであった。だが、100体ほどもずらりとガラスケースの中に並ぶ様子は、生まれて初めて見る物珍しさが手伝い、これほど多くの、また形がさまざまな神像が近江にあることを知ってとにかく驚いた。図録をさきほど斜め読みすると、今回初めて存在が明らかになったものも含まれる。松尾大社の去年9月の例と同じで、非公開のまま長年地元の人々が大切にして来たものだ。これは、神の像であるから、人目に晒すとありがたみがなくなるという思いが強かったためか。仏像は見て拝むが、神像はそうではない。神社にお参りして拝む時は両手を合わせて音を立てるが、仏像と違って神像はだいたい手を衣装の中に包んで見せない。そこが仏像と大きな差だ。だが、イスラームの偶像禁止と共通して、日本の神は本来姿が見えないもので、それが山であったり、また物としては鏡や刀で代用されていたものが、仏教が入って来て、奈良時代からは事情が一変する。仏像の派手な姿形の影響を受けずにはいられなかった。神仏が習合して、神も仏像そのもので表現すれば事は簡単であったのに、そこには仏教流入以前の神への思いが強く、仏像のような派手な造形は避けたかったのだろう。そう思えば、まことに日本は質素倹約の国だ。明治の廃仏棄釈で仏教はけしからんということになったが、そのままそれが続いていれば、日本の高度成長はなく、アジアの中の目立たない小国として、ブータンのように国民の大半が幸福を噛みしめていたかもしれない。そんなことを夢想して、強い政治家を待望していると、また廃仏棄釈が湧き起こるかもしれない。冗談ではなしに。それはさておき、神像は高さ数十センチと、概して小振りだ。また木彫りで、その削りも素朴だ。男女の像のほかに、日吉大社では猿も彫って祀られた。これは「神」の漢字が「示」と「申(さる)」で出来ていることによる。著色されることもあったが、ほとんどは木地のままだ。そのため、木喰仏に似た素朴なたたずまいをしている。また、ガラスケースにずらり勢揃いしている様子は、ほとんど郷土玩具、あるいはみんぱくの民族学資料の展示に見えた。
●『日吉の神と祭』_d0053294_053077.jpg

 一級の仏師がそうした神像を彫ったならば、もっと表現が違ったように思うが、松尾大社の神像のように、最初の作例をその後も模すことを続けたのだろう。とはいえ、頭が丸坊主の僧侶の形をしたものや、先に書いたように、仏像と同じ形のものもある。どう見ても一般的な神像は位の高い人間をかたどったもので、仏像とは違って人間くさい。また、人間をかたどっているのに、仏像のように理想化がなされていない。これは彫り手の技術不足であろうか。そうとは思えない。仏像の顔の美しさは充分に知られていたから、それに似せなくても、男前や美人という理想化は出来たはずだ。にもかかわらず、むしろ醜に属するような風貌がほとんどだ。これがどういう理由によるか、研究があるのかどうか知らないが、秦氏夫婦の肖像画ないし彫刻があって、それを最初は模したりしたのかと思いたくもなる。だが、仏像とは全く違うそうした点によって、日本古来の神の姿は、渡来の仏教とは違うのだという、差別化の意識が露になっているとも言える。そして、そこが神像の魅力でもあるが、神仏習合の中で、神像が求められ、それを具現化したのは、やはり仏像のように実際に姿を見て拝みたいという欲求が人々に湧き起こったからであろうか。だが、神像が仏像のように、いつも見られるようなところに置かれていたとは思えない。写真を載せておくが、今回ぎょっとさせられたのは、甲賀市の八坂神社にある12体の男女の神像だ。どれも目をぎょろりと凸に表現し、墨で描き起してある。その様子が漫画的で、男神のうち、頭髪が悪魔のように左右に分かれて立っているものがある。これはどういう髪型かと思って図録の説明を見ると、蔵王権現や五大明王のようなとある。そう言えばそうだ。蔵王権現は吉野の金峯山寺本堂に巨大な3体が祀られ、筆者は5、6前にその正面まで行きながら、内部を見ることが出来ず、周辺をスケッチだけした。確かその1、2年後に蔵王堂内部が垣間見られたはずで、当時TVでも盛んに広告していた。その蔵王権現は片足を上げ、憤怒の表情をしているが、蔵王堂のものは全身を真っ青に塗り、いかにもインド的だ。つまり密教的だが、この日本独自の山岳信仰として生まれた蔵王権現は、神と仏の合体であって、その神仏習合の様子が、甲賀市の八坂神社の神像にも表われている。だが、蔵王権現のどこか悪魔じみた格好よさに比べて、この神像のとぼけた表情はいかにも土着の民間信仰の対象と言うにふさわしい。それだけこうした神像は非常にたくさん作られ、各神社に広く浸透していたのだろう。それもあって、松尾大社の摂、末社から同様の神像が今でも発見される。神像の次に、たくさんの「日吉山王曼荼羅」、そして隣りの部屋では、「日吉山王祭」に関する、同じくたくさんの屏風が展示された。これについては出来れば明日にでも譲る。
by uuuzen | 2012-01-13 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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