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●『笹尾周平遺作展』
を持った人の数は目立たなかったが、今夜のゑべっさんの残り福はあいにくの小雨で、人の出は今ひとつではないだろうか。



一昨日沢辺さんに訊くと、昼間はとても人が多かったそうだが、夜になって少なくなったとか。不況がさらに深刻になって、神頼みする人が増えたと思うが、出かけるのにも金を使うとなると、ゑべっさんにも行かない人が多いだろう。さて、今夜は去年12月18日に河田先生から封書でチラシを送っていただいた展覧会について書く。河田先生とはすっかり年賀状だけ交わす間になってしまったが、2年前の冬か、北大路通りの府立大学前のバス停前でばったりと出会った。送っていただいたチラシは、少し以前からあちこちでポスターで見かけていて、またチラシもすでに入手済みであったが、改めて手元に届くと、これは緊張して見なければならないと思った。会期が始まるのは新年の6日からで、14日までの2週間弱だ。ゑべっさんに行くついでがいいかと計画し、9日に家族3人で中華料理を食べに行くことを決めた時、一足先に出て、見ようと決めた。最初6時半に店の前で待ち合せしようと言ったが、出かける直前に15分遅らせた。展覧会の会場に着いたのは思いのほか早く、5時半頃であった。1時間以上かけてじっくり見るのもよかったが、筆者以外に若者がひとり見るだけで、6時30分に会場を後にした。店まで15分と踏んだが、5分で着く。そのため、何度も振り返りながら満月の写真を撮り、2,3分前に着いた。50メートル手前で影の家内と息子が見えた。訊くと、30分から待っていたという。寒いのに中で待てばいいものを、外で待つのは、筆者が店の中を覗かないと思ったか。そんなに早く待っているのであれば、さっさと店に駆けつけたのに、ケータイ電話を持っていないため、連絡のしようがない。だが、あまりに便利過ぎるより、15分ほど寒い中で待つのもいい経験だろう。おかげで筆者は満月の写真を何枚も撮ることが出来た。それらの写真から半数を一昨日のブログに載せた。ついでながら、満月のことを筆者はムーンゴッタと呼んでいるが、その理由は今までに何度か書いたので、検索するとわかる。
●『笹尾周平遺作展』_d0053294_13533.jpg

 展覧会の会場は京都芸術センターで、室町通りにある。10年ほど前に明倫小学校を利用して出来た。その点では国際マンガ・ミュージアムと同じだ。京都中京の小学校はドーナツ化減少で児童が集まらず、明倫小学校途同じように廃校になったところがいくつかある。昭和初期の開校で、その運動場は市内にあって一種の公園的な空き地として消防上からもそのままあるのが望ましいのだろう。歴史ある小学校を潰してマンションにするのが、市の考えそうなことだが、そうなればレトロ感溢れる後者が消えて味気ないし、運動場の空き地は永遠になくなる。それで校舎、教室を少々改築し、ほかの目的に転用することが考えられた。京都芸術センターは若手作家の展示会場となっていて、筆者は今回初めて足を踏み入れた。市内に住み、しかも芸術関係の仕事に携わっているというのにこのありさまはまずいが、筆者はもう若くはないので、若い人の作品を熱心に見る興味がない。また、室町通りは筆者のように染色に携わる者にとっては本場、核となる場所だが、室町の呉服問屋とは今まで無関係に仕事して来たので、関心も知識もない。そのため、室町通りを歩いたのは、この30年で20回もない。京都芸術センターのすぐ近く、室町通りにある呉服問屋が、京都の染色作家の作品を毎年買い上げ、また自社ビルをそれらの染色作家の作品展示場としていることも昔から知っているが、筆者はその会から声がかかることがない。京都の有名染色作家の団体から弾かれた存在で、無名と言えば聞こえがいいが、無名にもならない無視された作家だ。それは伝統工芸展や日展に出品しないからだ。そうした有名な会の会員にならない限り、名は広まらない。また、有名な作家の弟子筋になる必要もあるが、筆者は独学だ。それでも昔多少公募展に出品したことがあったので、その時に知り合った作家が何人かいる。河田先生はそのひとりだ。もちろん河田先生は先の呉服問屋が後押しする染色の会に所属しているし、教え子も入会している。そういう一種の学閥があるのは仕方のないことだ。評論家がおらず、作家自身がグループを作って自己主張するしかないからだ。そのため、そういう学校を出ていない、あるいは教えを受けた師のいない者は、たとえば竹久夢二のように、よほど生涯がドラマティックで、作品が人々から愛されなくては、生きている間に自己宣伝に大いに努力しない限り、まず歴史に名前が残らない。だが、あまりに地味で、芸術とはほとんど認識されていない染色ではまずそういうことは絶望的で、どうにか食べて行くことだけが出来れば人生は成功といったところだ。その意味で筆者はどうにかぎりぎり食べているので、これ以上望むものはないと言うべきだろう。
●『笹尾周平遺作展』_d0053294_132544.jpg

 校舎の全部が展示場となれば部屋が多過ぎる。門を入って正面の建物の2階が会場となったが、教室がふたつ分程度の面積であった。最初1階の廊下を歩き、突き当たりの部屋に行った。油彩画家数名のグループ展が開催されていた。街中の画廊を借りずに、そうしたグループ展が開催出来る場所があるとは知らなかった。ただし、そこまで足を運ぶ人がどれだけあるだろう。そう思えば、100号サイズの大画面がさびしく見える。精魂詰めて描いても、あまり知られることなく、また自宅に持ち返らねばならない。それでも長年描き続けると、いつかは遺作展も開催されるかもしれない。その2階にも会場があると書いてあったが、階段を上がると真っ暗で、場所がわからなかった。板の廊下を靴音を鳴らしながら戻り、ふたたびチラシばかり置いてある教室にも入った。その奥の隣りが教室をそのまま使った図書室で、手前の隣りが喫茶店になっていた。古ぼけた教室を使った喫茶店というのがいい。今度家内と来ることがあれば入ろう。笹尾展がどこで開催されているのかわからず、その店に入って訊こうかと思った瞬間、2階へ上がる階段の近くに、2階で開催されていることを示す小さな札が立っていた。夜でもあるから、喫茶店は別にして、人がほとんどいない。これは笹尾展を見た後のことだが、校庭を見晴らす端に立った。左手奥にも展示場があるようで、窓から光が洩れていたが、そこまで行く気力がなかった。筆者は校舎は好きではない。学校と病院だけは生涯行きたくないと思っている。レトロな雰囲気はそれなりに味わいがあっていいが、夢を見ているような気分になって何となく落ち着かない。
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 笹尾周平遺作展の発起人の名前が会場を入ってすぐの壁にずらりと書かれていた。約50名で、河田先生も含まれる。笹尾は1940年に大阪に生まれたから、河田先生と芸大の西洋画科で同窓であったのだろう。芸大を出るといいのは、このような仲間がたくさん出来ることだ。作家活動を長年続け、かなり多くの作品を残しても、遺作展を開催してもらえる場合はごく少ない。それは費用も時間もかかることであり、誰しも他人の仕事にまで関わり合っている暇はないのが現実だ。それがこうして50近い仲間の発起によって、半世紀の仕事の中から65点が選ばれて、一堂に会するのは、笹尾の人柄がそれだけよかったからでもあるだろう。70歳を目前に世を去ったが、具象から始まって独特な抽象、そして華麗な画面へと進んだのは、作家としては順調に成長を続け、総合化を成したと言ってよい。個展は1971、76、93、2005年の4回開き、もっぱらグループ展に新作を出品した。筆者は今回初めて名前と作品を知った。そのような作家が市内には数千人以上いるはずで、それを思うとめまいを感じる。大量の作家が日々従事していることの目的は何か。ロジェ・カイヨワは最晩年になるほどに、そうした作家の仕事に興味を失った。その一方で自然界に存在するもの、特に石に目を向けた。そのことは以前に書いたが、筆者も少しずつそのカイヨワの気分に同調したいようなことになって来ているのを実感する。ある画家が何を思ってどう描いたか。そんな他人のことはどうでもいいではないかという思いだ。好きにやってくださいといった気分でもある。だが、そう思う一方で、好きな画家や作品がある。そのことの不思議を思い、未知の画家に関心が湧くことに気づく。それは結局のところ、心に響く何かがあるかどうかで、画家と対話したいからだ。その対話は、作品に接してすぐに始まる場合もあれば、何年も、あるいは長年かかる場合もある。また、以前は夢中であったのに、さほどでもなくなる場合もあるだろう。笹尾の作品はどうか。
 絵は何をどのように描いてもいいが、制作にはある程度はまとまった時間がいる。また、費やした時間のとおりに作品はだいたい出来上がるが、作者はその費やした時間に自信を持ちやすい。それはある意味ではケチな根性とも言える。長時間費やした作品を誰かが模写する場合、同じかそれ以上か、ともかく長時間を要する。その長時間を費やしたことに絵の価値があるかどうか。今は時間給いくらで人が雇われる時代であるから、長時間費やした作品は、売れる売れないにかかわらず、長時間に見合う価値があると思いがちだ。笹尾の初期作はさておいて、30歳頃以降からは、木炭の微細な点描を画面全体に埋め尽くした作品がひとつの様式となって現われる。そうした作品を縦横数センチの小さな図版に縮小すると、点は見えず、全体が灰色に化する。ならば最初から灰色をべた塗りすればいいものをと思う人はあるだろう。だが、それでは絵の前に立った時の味わいが全く違うし、絵が手技による産物という根本事項を思い出せば、微細な点を何万、何十万と打ち続けたことがその絵の意味であることがわかる。点で埋め尽くすのと、灰色をべた塗りすることとの間に価値の差があるかということになれば、何百、何千倍もの制作時間のかかった点の充填の方がありがたみや重み、作家の熱意を感じると言う人は多いだろう。だが、その一方で、先に書いたように、一種ケチな思いが見え透く。点の充填といった時間が膨大にかかる技法を用いることによって芸術的に高いものが出来上がるのであれば、それは誰でも出来ることで、芸術の神秘性がなくなる。確かにそうだと言う人もあるだろう。芸術など誰にでも出来ることで、それをことさら持ち上げる必要はない。ある作品を前に、好きか嫌いか、気に入ったかそうでないかでいいではないか。笹尾が紙のほとんど全面を木炭の細かい点で埋め尽くしたのは、そうして時間をかけたものは、それだけの価値があると思ったからかどうか。筆者にはわからない。ただひとつ思ったのは、そうした技法は、日々細切れの時間しか取れない場合、絵を作り上げるのに有効であることだ。何しろ、木炭と画用紙さえあればいつでも点を打ち始めることは出来るし、いつでも終えられる。画面のどこか中途半端な場所で中断しても、また時間を見つけて続きを始めればよい。笹尾はおそらくそのようにして描いたが、それは美術の教師をしていて、毎日終日画面に向かう時間が取れなかったからだろう。食べて行くためには収入を得る必要がある。芸大を出て美術の先生になるのはその最も手っ取り早い手段だ。河田先生もそれを続けている。そのことと作品の仕上がりは別だが、制作の方法が制限される側面はある。
●『笹尾周平遺作展』_d0053294_145136.jpg ここで思うのが、笹尾が教師をせずに経済的に豊かであった場合、同じ仕事をしたかどうかだ。それは笹尾に訊いてみないことにはわからないが、会場のパネルにあった笹尾の言葉によると、点を打つ愚直な行為を、仏教の修行と捉えていたようで、教師をする合間の制作という自分の立場を受け入れながら、そこに積極的な意味を見出していたのだろう。だが、仏教的な画題からはかけ離れているので、笹尾のその言葉がどこまで真実であるかは、見る人によって思いが違うだろう。点描の作品は、80年代にはCOPPER、つまり銅色の水彩絵具を用いるシリーズにバトンタッチする。点描作と同じく画用紙に描くが、銅色の絵具を画面の大部分に平面的にべた塗りしながら、乾いてからその表面をスプーンの裏で擦って艶を出す。すると、紙が銅板のような光沢を持つ。この銅色の絵具の説明はそれ以上なされていなかったが、小学生の頃の水彩絵具に金や銀があったことはよく記憶する。そして、銅もあったかもしれないことを思うが、こうした絵具は金属の粉を溶剤に混ぜたもので、そのままでも画面に光沢を生む。笹尾の作品も全部が全部スプーンで表面を擦ったものではないはずで、たとえば今回の展覧会のチラシに印刷された作品は、とても長い水彩用の紙に、銅色の水彩絵具の塊をぐにゅぐにゅとなぐり描きした箇所を撮影しているが、厚みのある箇所から下方は大刷毛でプレーンに塗られている。そして、その部分はぐにゅぐにゅ部分と同じ銅の光沢を持っているので、どの部分もスプーンで擦ってはいないだろう。金属粉を混ぜた絵具を用いることで、画風を導いたのは、絵の質感に関心があったことを示す。物としての絵画と言えばいいか、物としての面白さの追求だ。実際の銅板を展示するのではなく、紙に絵具で描くことでその感じを表現したことに、どれほどの意味があるか言えば身も蓋もない話で、紙に水彩という、小学生が普通にする作画行為にここまで個性的な表現をしたことを評価すべきだ。そして、木炭による点描の画風と根底でつながっているのは、細切れの時間を積み重ねた仕事だ。だが、点描と違って、銅色の画面は全体がただ光沢のある無地であるから、ケチな印象はない。
●『笹尾周平遺作展』_d0053294_14231.jpg

 90年代の作品は、構成主義的なものに変わる。図版ではわからないが、この画風もまた細切れの時間を多大に費やすことで成立している。場合によるが、画面は今で以上に大きい。横長はがきに印刷された最大のものは、横5メートルはあったのではないか。また以前のように紙に描かず、ベニヤ板を使っている。また、1枚のベニヤ板に描くのではなく、ベニヤ板を絵の区画ごとにのこぎりで切り、描いた後それらをまた組み合せて、別の基盤となるベニヤ板に貼り尽くしている。つまり、パッチワークだ。それらの区画は、数種の描画技法に分けることが出来るが、ベニヤ板に直接描く場合と、紙に描いたものを貼りつけている場合がある。大半は紙に描いて区画ごとに切ったベニヤ板をくるむように密着させている。なぜそうした手間のかかることをしたかと言えば、画面全体を1枚のベニヤ板ないし画用紙を用いて、それら数種の技法を区画ごとにくっきりと描き分けれないからだ。詳しくは書かないが、この区画ごとに技法を違う画面を同居させる画風は染色と大いに関連がある。言い変えれば工芸的だ。そこに笹尾の京都の画家らしさがある。おそらく河田先生らとそうしたことを議論したであろう。写実的に具体的なものを描くのとは違って、素材を工夫しながら、今までにない手技、手仕事の面を強く見せる笹尾の画風は、ある意味では日本の西洋画に残された道であり、それを京都の画家が試みている。工芸と西洋画の中間的なもので、その一種の曖昧さや辺境的な様子は、写実を生んだ西洋から見れば評価に値しないものかもしれないが、京都の歴史や風土からはそういう新しいと言ってよい作品が生まれてしかるべきだ。ただし、それは作品にとっては表面的なことであろう。工芸的な技法であろうとなかろうと、最後に吟味されるべきことは、作品が何を見る者に訴えるかだ。その答えはそれこそ各自が絵の前に立ってみてからの話で、特に手技を見せる笹尾の作品は図版では味わいは伝わりにくい。これは河田先生の作品にも言える。チラシには印刷されなかったが、風景を描いた数点もよかった。その中に、数年前に描かれた「大阪大空襲」と題した作品があった。画面の隅に1945年3月などと小さな書き込みがあった。笹尾が5歳の頃に大阪市内は火の海になった。それを思い出して描いたのだろう。これは最晩年にまた具象画に戻る予感があったためか。だが、具象と言ってはまずいかもしれない。ほとんどマーク・ロスコの絵に近い、紅蓮の画面で、わずかに画面周囲に黒が塗られていた。その作品がベニヤ板のパッチワークを用いた構成主義的な画風とどう関連しているかは、これからの作品で明らかになるかもしれなかった。
by uuuzen | 2012-01-11 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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