氷上旅日記と題するヘルツォークの本を図書館から借りて読んだのは10数年前だ。今年のような寒い冬になるとなおさらその本を思い出す。

京都市立中央図書館から借りて来て読み、当時は家内も読んだが、家内もとても印象に残っていると言う。手元に置きたいとずっと思い続けているが、今アマゾンでは古本が3200円、ヤフー・オークションではそれより1000円高く出ている。ほしいのはほしいが、大阪人の筆者は、買い得でなければ手を出さない。だが、あまり刷られていない本で、しかも価値を知られているから、3000円以下ではまず買えないだろう。一度読んだだけでなのに、あちこちの景色が目に浮かぶ。こういうお気に入りの本との出会いは人生にそう何度もない。それはいいとして、ヘルツォークはミュンヘンからパリまで、敬愛する映画監督の病が治るようにと、願かけのために歩いたが、それは凍てつく寒さの徒歩での旅であった。荒涼とした風景が本から伝わるのが何ともいい。歩くのは、暑い中より寒い中の方がいい。今日は午後6時半に家内と家を出て、ムーギョとトモイチに買い物に行ったが、ふたりとも両手にいっぱい買い物袋をぶら下げて松尾橋をわたっている時、目の前の西山の真上に、明るい三日月が見えた。松尾橋から眺める空はとても大きい。それを味わいためにムーギョに買い物に出かけるほどだが、寒さが染みる夜もいい。そうそう、梅の宮神社参道の四条通り角から東へ少しのところに、1本の太い銀木犀の木があって、それが満開の、寒い晩秋の夜に一句詠んだことがある。去年つぶろぐに載せたが、今日はそれが高さ1メートルほどのところで伐採されていた。切り口が真っ白で、痛々しかった。筆者が知る限り、嵐山も含めて銀木犀はその木だけだ。それが植わっているバーのような店が営業をやめてしまったのだ。来年には別の建物に変わるのだろう。さて、一昨日、「明日書く」としながら書かなかったことをまず書く。一昨日、筆者も木の太い枝を2本、4時間ほどかけて切った。裏庭の向こうの小川沿いに張り出している合歓木だ。川のすぐ向こうの畑は、夏からこっち建築工事をしていたが、わが家の真裏に建った家には2,3日前から人が住み始めた。工事中は、合歓木は葉がたくさんついていて、伐採すると葉の処分に困ると思い、冬になるまで待った。そして、人が住み始めるより前に切るつもりが、忙しさにかまけたこともあって、人の住む方が早かった。慌てて、天気のよい、また寒さも一息ついた一昨日の11時頃から作業に取りかかった。ふたてに分かれた太い枝の片方を切った後、昼食を取り、その後また庭に出ると、雀や見慣れない小鳥がやって来て、もう片方の太い枝の方にたくさん留まっていた。それがとてもかわらしく、邪魔せずにしばらく見つめていた。やがて作業に取りかかって、その枝も切ったが、かわいそうに小鳥たちは留まるべき合歓木の枝が以前の20分の1ほどに減って、面食らうだろう。枝はまた伸びるが、一昨日までのような、川を越えて前の家の壁に到達寸前というほどまでに徒長させては、文句を言われる。自治会長としてはそれは恥になる。
この合歓木は種子を発芽させて25年かけて育てたものだ。その太い枝の半分以上も切るのは辛かった。だが、あまりに川に向かって伸び過ぎた。川面から高さ4メートルほどの枝に腹這いになってノコギリを挽くのは、スリルがあった。バランスを崩せば川底に落ちて骨折は間違いない。あるいは死ぬかもしれない。また、枝を切り落とせば川の中に落ちるので、ロープで太い幹とつなぎ、しかも切り落とした後に岸で作業がしやすいように計画した。2本とも筆者ひとりではとても抱え切れないほどの重量があったが、どちらも伐採した瞬間、思いのとおりの位置にぶら下がり、気分はよかった。ぶら下げたまま、アンコウの身を切るような格好で、小枝を順次切り落としては30センチほどに刻んだ。大量にあって、しばらくは岸に置いたままにし、腐食してから捨てる。どうでもいい話のついでに書くと、昨日と今日の2日間で年賀状を書いて出した。ここ数年はいつも30日になっている。クリスマスくらいに書いてしまえばいいものをと家内は言うが、筆者は何事もぎりぎりにならねば行動しない。また、行動すれば早い。先ほどの話に戻ると、ムーギョもトモイチも年末の買い物客でいっぱいであった。帰りの途は、ぼんやり今日の投稿のことを考え、そしてアイヌの人々の生活を思った。アイヌは正月を祝ったのだろうか。暦はどうであったのだろう。祭りはしたが、暦に直結した祭りをしたのだろうか。もちろんスーパーはなかったから、食物の確保は大変であったろう。今は食物は金でいくらでも買えるから、金を稼ぐことにみんな追い立てられている。アイヌは物物交換で自分たちには造られないものを入手したが、作ったものを見ると、どれもそれなりに装飾文様が器用に施してあって、生活を彩ることをよく知っていたことがわかる。それは神への感謝や畏怖の思いが込められているはずだが、文様を施すことは生活にゆとりがあるからで、暮らしがそれなりに満たされていたものと言える。ここで思うのは、現在人の生活だ。ゆとりは経済的が豊かであると生まれると通常考えられている。だが、経済的に豊かな人が、生活を彩る装飾文様に関心があるだろうか。経済的に豊かな人は高価なブランド品を次々に買うが、それらは装飾文様とは関係がほとんどない。ある人はこう言うかもしれない。現代の都市文明社会は、神への感謝や畏怖がなく、生活を彩る装飾文様もあまりに多様化し、それらはみな意味を持たなくなっている。そして、ブランド品のロゴが装飾文様と同じ意味を持つ、と。確かにそうだろう。であるので、ブランド品など買えない貧しい人は手造りで生活を彩ろうとすると筆者は言いたいが、貧しい人はそんな時間のゆとりがなく、ノー・ブランドの安物を買うしかない。つまり、アイヌの人々の生活用品を見ていると、経済的に豊かになった現代が、何と貧困であるかと思えて来る。文明は進歩すると言うが、進歩の一方で退化は確実にある。わが家の裏庭の向こうは以前畑であった。そこには山から毎夜猪や鹿、猿が下りて来て野菜を食べた。それで畑の持ち主は土地を売った。すぐに家が建った。そのために筆者は庭の大きな木を切った。すると鳥たちの留まる場所がない。新しい家の住民はそんなことは知らない。だが、筆者と同じ立場にあるならば、同じような思いを抱くだろう。そのようにして家が建ち、人が増えて、アイヌの人々はどんどん北へと追いやられた。そしてついにはほとんど表向きは日本人に同化してしてしまった。それとともに、アイヌの文化が失われたりするのは誰の目にもわかる。
アイヌの展覧会は2年前に鳥博士さんと一緒に京都文化博物館で見たので、今回は興味が大きくて出かけたのではない。『岡本太郎 地底の太陽展』を見た後、ついでにみんぱくに行った。2年前の展覧会はロシアの所蔵品であったが、今回はドイツだ。ドイツは、南のミュンヘンでも寒いのは、先に書いたヘルツォークの著書からわかる。ロシアは言うまでもない。こうした地域の国がなぜアイヌに関心を抱いたかと言えば、自分たちの先祖ではないかと考えたことによる。その後の研究でそれは否定されたが、100年前のヨーロッパではアイヌへの関心が強く、19世紀末から20世紀初めにかけて資料が盛んに集められた。今回の展示は、いつものみんぱくの特別展の円形会場を使いながら、展示品が比較的少ないこともあって、より閑散としていた。だが、それがかえってアイヌ民族が住んだ寒い地域を想像させた。2年前の展覧会と出品作の種類はほぼ同じだが、いくつか違うものがあった。そのひとつにはまず音楽だ。これはCDを再生しているのではなく、北海道のアイヌ民族の末裔で、資料館を運営している人の2弦楽器だったろうか、素朴な手作りの楽器を奏でて収録したものだ。ごく小さなスピーカーを埋め込んだベニヤ板の壁面があって、そこから小さな音量でエンドレスで流れていた。音の数は少なく、5つほどだ。その繰り返しの多い演奏が、寒い北の地域の、天気のよい日を思わせ、1日中聞いていたい気分にさせた。森や川、草原などが目に見えるようで、そこで狩をするのでもなく、だがぼんやり過ごすのでもなく、アイヌの人々がくつろいでいる。それは衣食住が満ち足りた生活で、何ひとつ不平不満がない。その演奏は100年前の演奏と大差ないだろう。ならば、今でも昔の生活用品などを手作りする技術も伝えられていると考えるべきだ。実際そのとおりで、神に捧げる供物に添える飾りを手作りする様子を撮影した映像が流されていた。これも2年前にはなかったことだ。さすが国立のみんぱくはサービスが違う。この祭壇はかなり古くなったものがみんぱくに所蔵されている。今回はそれをアイヌの末裔に再現してもらった。画面に映った男性は40歳ほどに見えた。またとても毛深く、アイヌの血を納得させる。この男性が森に生えている柳を吟味し、祭壇の飾り物に使えそうなものとして伐採する。それはごく少量で、昨日書いたようなエジプトの王のために万単位のトキを殺すというのとは雲泥の差だ。その柳の枝を、鉛筆を削るように樹皮を幾重にもカールさせる。日本の郷土玩具で同じように木を削って鳥を表現するものがいくつかの地域にあるが、それはアイヌ譲りの考えではなく、どの地域の民族でも同じようなことを思いつくだろう。ともかく、そうして樹皮を小刀でめくり、その白いカールした束を御幣のように垂らしたものを何本か用意する。これが祭壇の飾りとなるが、この飾り物こそが祭壇のメインで、幅も高さも1メートルの壇にさまざまに削ったそうした枝を立てる。そこにもアイヌの日用品と同じく、装飾の考えが見られ、そのことがそのまま神への捧げものになっているところが面白い。つまり、神は装飾ということになる。そのように装飾に敏感なアイヌであるから、交易で日本や中国から派手な衣装を入手し、それを珍重した。そうした染物や織物は、アイヌの想像を絶したものであったろう。文明の差と言ってしまえば身も蓋もないが、小袖1枚とどれほど多くの鮭や熊の肝と交換したのかと思うと、悲しさを感じる。そして、アイヌは自然から必要以上のものを採ろうとはしなかったから、他の民族や文明との接触は、自然破壊を招く遠因になったと思える。

さて、2年前と異なる別の展示物は写真だ。100年前に撮影されたアイヌの人々の生活は、全く自然に溶け込んで見える。それを原始的と言う人はあろう。であるからヤマト民族に北へと追いやられたと考える。ここには、力の強い者が弱者を駆逐する弱肉強食の図式が見える。それは、地方都市の商店街がシャッター通りと化す中、郊外の田畑の中に東京資本の巨大集合ショッピング・センターが出来ることと似ている。写真の中には子どもがたくさん写っていた。子どもはどこでもいつの時代でも同じだ。これは2階での展示だったと思うが、ロシアから樺太に島流しにされた男が、同地でアイヌ研究に没頭し、子どもたちに取り囲まれて笑顔で収まる写真があった。その男は幸福そうであった。島流しになったことがかえってよかったのかもしれない。子どもたちも優しいその男になついたのであろう。また、ある写真には男の子しか額の中央にぶら下げない、幅2,3センチほどの扇型の飾りが写っていた。その実物はいくつか展示されていたが、実際にどのように身につけられるかはわからないから、そうした記録写真は貴重だ。今回のチラシの裏面には、写真とともに手作りの道具の名前がアイヌ語で書いてある。エキネムは小刀、ウパロキは葦で作った蓋つき容器で、黒の樹皮か何かで模様が織り込まれて何ともかわいい。イペは木製の匙だ。イノミは全面に彫刻された木製小刀で、今ならペーパー・ナイフに使われるだろう。こうしたものは、後の時代になるほど交易品として量産されたものが多いだろう。イミは首飾りで、翡翠などの石を丸く削ってつないでいる。真っ青な色をアイヌは好んだ。空の色であるからだ。他の生活道具の中に混じると、別世界から来たものに見えるが、アイヌもそう思ったのではないだろうか。こうした石も交易でもたらされたであろう。飾りと聞くと、まず装身具を思う人が多い。アイヌもそうと言ってよい。あらゆる道具に文様を彫り込んだり、また織り込んだりしたが、鮮やかな石はそれだけで美しく、丸いものを多くつないで首飾りにすることは、最大級の贅沢ではなかったか。それは直接には衣食住には不要だが、そうした宝石で身を飾る心のゆとりがアイヌにはあり、それは結局は豊かな自然の恵みが周囲にあったことを物語る。鳥や魚や獣がいくらでもいた生活を想像することは、もはや現代人には困難だ。それが文明発展の姿とすればさびしい。手技を忘れ、機械が取って代わることの出来る仕事に就いて定年まで働き、余生は年金暮らしという生活からすれば、ない物ねだりかもしれないが、アイヌの人々が厳しい寒さに苦しみながら、暖かいところにみんな集まって過ごした生活を想像すれば、うらやましさが募る。なお、今回は2階の展示に、北海道在住のアイヌの末裔が、時々アイヌの衣装を着て、資料館に詰めていたり、また観光客に自分たちの姿や風習を見せている様子が紹介されていた。アイヌの衣装を身につけなければ、どこにでもいる若者だが、一旦アイヌの衣装をまとうと、風格が増して見えた。民族の誇りがそうさせる。筆者は北海道には行ったことがない。それもあってアイヌのことについては知識が乏しい。みんぱくその他でアイヌに関する記録映画が上映されることはチラシでたまに知るが、今はアイヌが見直されている時期なのだろう。