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●『EGYPTIAN ANTIQUITIES ペトリーと濱田が京大エジプト資料に託した夢』
及の文字がチラシの四隅にぼやけて浮かび上がっている。「埃が及ぶ」とは、エジプト人が知れば差別だと怒るかもしれない。それが砂埃の意味だと説明すると、それなら「砂及」とすればいいではないかと言われるだろうか。



●『EGYPTIAN ANTIQUITIES ペトリーと濱田が京大エジプト資料に託した夢』_d0053294_1152236.jpgだが、この埃という文字は、それだけ歴史が堆積しているという雰囲気があって、なかなかいいではないか。この展覧会は京大総合博物館で10月19日からちょうど2か月間開催された。途中で毎年恒例の「関西文化の日」があって、無料で入ることが出来たが、その前の11月5日に有料で入った。また、先日書いた『INCLUSIVE DESIGN NOW 2011』を見た時にもう一度見ることが出来たが、それはしなかった。この展覧会は開館10周年記念という名目で、気合が入っている。筆者が見ていた時、女性係員による作品解説が行なわれた。半分以上見終わっていたので、遠くにその声を聞いただけだが、10数名が集まっていて、その中には小学生もいたから、発掘の夢を与えるものとしてはよい展覧会であったと思う。また、その説明の最初の方に、「エジプトの発掘は吉村作治先生が有名ですが、ここには華々しい発掘品はありません」などという前置きがされていた。その一言で、この展覧会の中身と意図が半分以上はわかる。また、吉村作治の名前を出すところに、一種の関東に対する対抗意識も見える。吉村作治はほとんど芸能人的な活動をし、エジプトでの発掘の夢とロマンをお茶の間に届けている功績はあるが、その一方で批判を書いた本を読んだことがあるが、なかなか当たっていると思わせられたものだ。発掘は「世紀の大発見」と呼ばれるものを自分の手で成し遂げた場合、歴史に大きく名を残すことになって、考古学者はみんなそんな夢を求めていると錯覚しがちだが、実際はかなり地味な仕事で、またそんな世紀の大発見はそうあるものではない。それに、そういう発見を意識し過ぎると、10年ほど前か、発掘を自作自演するというとんでもない贋学者まで現われる。吉村作治はTV番組や定期的に開催されるエジプト展のために、世紀の大発見、つまり大穴を当てたい一心に見えるが、エジプト学とはそういうことだけが重要なのだろうか。エジプトの発掘には長い歴史があり、各王朝のことは今までの発掘品によって大方はよくわかっているだろう。そこにまだ地下に歴史を大きく塗り変えるようなものが眠っているのかどうか。それを夢見るとするのは、ほとんど勝負師といったところで、言い変えれば賭博好きの変種だろう。学者にそういう側面があっていけないことはないが、大穴狙いのあまり、それ以外のものを過少評価してはならないし、また地味に活動を続ける学者を侮ることになってもいけない。学者も人間であるから、普通の人と同じく有名ということに憧れるだろう。だが、吉村を見ていると、少々マスメディアに顔を出し過ぎで、風貌がほとんど香具師の親分に見える。少なくても筆者が好む学者のイメージには当てはまらない。
 この展覧会は、京大が所蔵するエジプトの発掘品を見せるもので、それはイギリスから贈られたものだ。考古学教室の初代教授の濱田耕作は、ロンドン大学教授のフリンダース・ペトリーと交流し、濱田はペトリーの研究方法を日本の考古学に適用した。今回は全6章に分けた展示で、その第1章が「ペトリーと濱田耕作」と題されていた。つまり、京大の考古学はペトリーに多くを負うことをまず宣言しているようなものだ。そして、展示の大半はペトリーの生涯に充てられていた。第2章は「聖書の記述を求めて」で、ペトリーがヘロドトスやストラボンが著作に記した遺跡を発掘する。ギリシアの都市ナウクラティスやシナイ半島に近いデルタ地帯東部のダフネで、後者は1886年に調査し、国産の土器、ギリシア陶器、武器、護符、装身具、印章、錘などを発見している。70人近い作業員を雇ってテント生活をしながらであった。作業員をまとめたのは親方のモハメッド・エル=サプリという人物であったが、ペトリーは彼が作業員の賃金をピンはねしていることを知り、自分で給料を配ることにした。そのことからも、清廉で真面目な人物であったことがわかる。また、発掘は金になるめぼしいものが見つかると、作業員は黙って自分のものにしてしまうことがあるので、作業員と一緒にテント暮らしをするのはつごうがよかったであろう。これはグレンツェルとハントという学者が100人を常時雇って発掘したが、ナイルの氾濫の影響を受けなかったオリシコスでは、紀元前4世紀から紀元7世紀までのエジプトについての膨大な情報を記す大量のパピルス文書が出土した。この第2章の展示物は、ランプ、木製の櫛、象牙や骨製品、ガラスや鉛の装飾品、奉献像、供養碑で、みな比較的小さなものだ。第3章は「古いエジプト学の名残」で、ペトリーと双璧を成したスイスのエドワール・ナヴィーユが紹介された。ナヴィーユは、文字が記されていたり、美術的に価値の高いものを評価し、土器や石器は取るに足らないとみなした。これをペトリーは厳しく批判した。ここで問題となるのが、発掘には大金が必要であることだ。当時のエジプトの発掘は、小説家のアメリア・エドワーズが1882年に設立したエジプト探査基金から賄われた。これを使って1893年にナヴィーユは、ルクソールの西岸の谷デル・エル=バハリで第18王朝のハトシェプスト女王の葬祭殿を発掘し、葬祭船の模型を数多く見つけた。日本の埴輪を思えばいいのだろうが、もっと写実的で、当時の船やそれを漕ぐ人の姿がよくわかる。実物の展示はなく、写真が飾られた。またこの章では、これはペトリーの発掘だろうが、古代エジプトの聖地アビドス出土の供物卓が展示された。人骨とともに出たもので、表面には5世代の家族名が記されている。ピラミッドのような王の墓でなくても、また人骨であっても情報は多い。今回は、そうした人骨を調べて、その人物が何歳ほどで死んだか、またどういう食生活、労働であったかもおおよそわかることを伝えていた。
 さて第4章は、「科学的考古学の登場」で、ナヴィーユに対してペトリーが採った行動だ。ペトリーは自分の調査組織を設立し、アメリア・エドワーズの遺言によってロンドン大学に設けられた世界初のエジプト学講座に就任し、ふたたびエジプト探査基金のもとで調査、前述のアドビズでは細かな遺跡も逃さなかった。最初に発掘した場所は、ウンム・エル=カアブ(壷の母)で、大量の土器が乱雑な調査で散乱していたが、この場所を調べたことから、エジプト最初の王たちが眠る墓が続々と発見される。ペトリーは妻ヒルダの姉と遺跡に住み込み、また器用であったので、遺跡実測の工夫も凝らした。また、エジプト基金からの給料はナヴィーユの3分の1であった。これは少しでも長く、そして多くの現地で作業員を雇うのには必要でもあったろうが、ペトリーは作業員に対し、遺物や作業量で給金を支払った。遺跡に住むのはロンドンとは違って大変なことであったはずだが、残されている写真を見れば、女性は笑顔であるし、またロンドンと同じ格好で、それで不自由がなかったのかと思わせられる。イギリスのレディは、郷に入れば郷にしたがえというわけには行かなかった言うべきか。ところで、エジプト基金は、世界中から寄附を募った。そして、その額に応じ、エジプト考古局から持ち帰りの許可を得た発掘品を分配した。この世界の中に日本は入っていたのだろうか。京大が所蔵する今回展示された発掘品は、ペトリーが発掘したものを好意でイギリスが寄贈してくれたと思うが、そうであれば日本はエジプト基金の考えに賛同しなかったか、あるいは打信もなかったのだろう。また、エジプトからの発掘品が大英博物館など、有名な博物館に蔵されることに対し、アフリカの人々が返却を求める動きが20年ほど前に起こったが、エジプト考古局が許可したとはいえ、それは現在の目から見て妥当なことであったかは疑問があろう。エジプト探査基金は、発掘にかける学者にとってはつごうがよかったが、金を出し合った者で発掘品を山分けするということであるから、力が弱かったエジプトは西欧にいい鴨にされたところがある。埃が及ぶ古い遺跡から、宝物を発掘し、それを磨いて世界的に有名な博物館に展示してあげますといった雰囲気があって、ピラミッドやスフィンクスなど、ヨーロッパに持って帰れないものは仕方がなかったとして、エジプトにあれば国宝クラスのものが数多くエジプト基金によって国外に流出したのではないだろうか。発掘によって古代エジプトのことが飛躍的にわかったのはいいとしても、発掘品は当時掘らなくてもよかったものであるし、またさまざまな計測機器や記録機器が発達した現在の方がよかったかもしれない。だが、エジプト基金が発掘しなければ、一般人の盗掘によって、破壊が進んでいたとも考えられるから、判断は難しい。
 さて、ペトリーの科学的考古学とは、集成とSD法だ。SDは仮数年代の意味で、これは暦のない時代、層位的な出土遺物のない地域で用いる年代決定法のことだ。たとえば土器を取り上げると、それを数多く集め、型式学的に比較検討し、上下の配列を順次決めて行く。これは誰しも考えることで、そうするしか方法がないが、ナヴィーユが評価しなかった土器を用いて、その形の多様性の変化を順序づけることで、どれが最も古く、また逆に新しいかはわかる。また、土器のような単純な日用品の方が、そういう時代の新旧の配列は容易であるかもしれない。もちろん美術でもそうだが、美術では、回顧趣味があって、あえて古い様式を用いることがあって、そうした作は数百年経つと、そういた作が規範とした古い作と区別がつかなくなることもあるだろう。さて第5章は「遺物研究の深まり」で、ペトリーは「細事こそ重要」、「一括遺物の重要性」を言い、「スカラベ護符の集成」を行なった。この章で紹介された遺跡は、まずペトリーの弟子のブラントンとケイトン=トンプソンが1922年から31年にかけて調査したエジプト中部のナイル東岸の遺跡数キロにわたって存在する王の墓地ハダリだ。そして、エジプト郊外、ナイル東岸のカウ・エル=ケビルで、これはイタリア、ドイツの発掘後、ペトリーが1923から翌年にかけて発掘し、聖ヨハネ福音書(コプト語版)の一部も発見した。そして、大正13年(1924)に遺物を分配し、京大に贈った。第6章は「研究は続く」で、トキのミイラが展示されていた。トキは日本やアジアの鳥と思っていたが、古代エジプトには同じほどの大きさのアフリカクロトキが大量にいた。知恵の神のトト神として知られる。アビドスで1914年に約1500体が発掘されたが、布をぐるぐる巻きにしているので中は見えない。そこで今回はレントゲン写真も展示された。そこにははっきりと鳥の骨格が見えていた。これは年に数千から1万羽もミイラとして土器の中に入れられ、地下回廊に埋葬されたというが、それでも絶滅しなかったとすれば、エジプトはよほど自然が豊かな土地であったことがわかる。最後の展示は、キリスト教徒であるエジプト人すなわちコプト人の織物で、これは日本ではよく見る機会がある有名な綴織だ。ローマの属領時代からイスラム支配の3世紀から12世紀の間に織られたもので、貫頭衣や肩かけとして織られた。また、濱田耕作の考古学の紹介もあったが、濱田はペトリーの学に倣ったのは言うまでもない。最初に書くのを忘れたが、最初の展示は、有名はネフェルティティ王の妃像の模刻で、よく似ていたので驚いた。これは1928年に京大にもたらされた。国宝級の、そして美術品としても重要なこうした出土品は、研究のためにいくつも模造されたのだろう。1960年代半ば、大阪市立美術館でツタンカーメン展が開催された。これを見に行って、図録も買ったが、その後何で読んだのか忘れたことに、ツタンカーメンのマスクの寸部違わぬ模造品を、会期後にある人物が持参し、エジプトから来た同展の関係者に見せたらしい。すると、勝手にガラスケースを開けて寸法を計測したなどと言ったようだが、模造作者は、毎日ガラスケース越しに観察しただけと答えた。
by uuuzen | 2011-12-29 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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