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●『人間国宝 北村武資 「織」を極める』
が人間とは、人の命は地球より重いという言葉からすればあたりまえのように思うが、たいていの人は宝と言えば年末ジャンボ宝くじを連想するなど、財宝のことと思う。



●『人間国宝 北村武資 「織」を極める』_d0053294_1534179.jpgそして事情の知らない人は、人間国宝が作る作品は国宝と勘違いするだろうが、人間国宝その人がそう思うこともあろうし、この人間国宝という言葉はかなり罪なものだ。筆者の知り合いの染色家はこの人間国宝に憧れ、昔からいつかそれになりたいと思っているようだが、本末顛倒と言うべきだ。ひたすら真面目に作品を作っていると、やがて認められて指定を受けるというのが、人間国宝になる正しい道ではないか。だが、それはあまりに世間知らずな考えで、実際は人間国宝になれば、国宝級の巨額が動くこともあるので、「ひたすら真面目」は当然としても、人間国宝になるための運動のようなことをせねばならないのが実情ではないか。人間国宝で思い出した。関西のTVでは平日の朝に芸能人が毎日違う町を歩いて取材し、「隣りの人間国宝」を見つけてちゃちなシールを手わたす番組が放送されている。視聴者には珍しい人物を見出すことは全くのたまたまに見えるが、実際はTV局に予め売り込む人も多いはずで、そこには世間の沙汰も金次第の現実が見え透いている。そう感じたのは筆者の地元が取り上げられた回のことだ。詳しくは書かないが、芸能人がぶらっと駅を降りて歩いたのでは絶対に遭遇しないような場所や人物が取り上げられていた。その人物にすればそれは非常に大きな宣伝になるから、ディレクターにかなりの額を持参しても充分元が取れる。だが、ほとんどの人はそういう裏事情があるとは想像しない。それほどに番組は「たまたま出会った」を装って作られている。だが、朝の視聴率の高い番組だ。時給に直せば世間の10倍や20倍の高額の芸能人を無目的に歩かせるはずはない。そこはかなり以前からスタッフが地元を取材し、どういう人物を取り上げればいいかを編集会議にかけているはずだ。回を重ねるごとにそういうことがますます確実視されるようになって来てからは筆者はその番組を見ないことにした。それに、そうして取り上げられる地元のいわば隠れた有名人に、「隣りの人間国宝」のシール1枚というのはないだろう。これは人間国宝を持ち上げているようでいて、侮辱しているように感じられるし、またそういうシールをもらって喜ぶとTV局が考えるのも人を馬鹿にした話ではないか。話を戻して、この人間国宝は、正式には重要無形文化財保持者と言われるが、実際にはその指定を受けなかった作家までをそう呼ぶことがある。たとえば染色では皆川月華だ。人間国宝級の仕事をしたが、実際は指定を受けなかった。それほどに、人間国宝という言葉はいい加減に使われている。また、人間国宝になっても、一般的にはあまり知られない人も多い。
●『人間国宝 北村武資 「織」を極める』_d0053294_1521374.jpg

 北村武資もそのひとりではないだろうか。織物は染色と同様、だいたいが女性が携わるものというイメージが強い。また、さほど華やかではないため、織物で人間国宝と聞いてもぴんと来ないのが普通ではないだろうか。その地味なところから、この展覧会を鳥博士さんに招待券をもらって10月末頃に見たにもかかわらず、ブログに感想を書く気がしなかった。今もそうだが、昨夜の続きとして個人を取り上げるのはつごうがいいと決心した。羅を織る北村の名前は昔から知っていたが、今回の展覧会で羅に続いて経錦でも重要無形文化財の指定を受けていることは初めて知った。つまり、ふたり分の人間国宝で、これはかなり珍しいだろう。チラシは透ける紙に両面を違う作品を刷った凝ったもので、作品の実態を知るにはなかなかいい。織物であるから、織り上げた組織の模様の面白さが主体で、糸の色はどれでもよい。作品はほとんど無地で、間近に寄って織りの繊細さを味わう展覧会だ。羅はうすくて向こう側が透けるが、経錦はそうとは限らない。筆者は織物には無知であるので、経錦の美しさやまた技法上の難しさは皆目わからないが、織物は時間に比例して確実に長さが織れるし、また文様の繰り返しの美であるから、その最少単位の文様をどう表現するかという工夫を鑑賞することは出来る。昨夜書いたように、工芸家は画家とは違って絵に割く時間が少ない分、絵ないし文様において独創性を発揮することは困難な立場にある。だが、筆で描く絵画は、筆という道具や紙や布地に作風が影響されるから、素材と道具にもっと密着している工芸では、仮に下絵が陳腐であっても、表現されたもの全体には独特の味わいが宿る。これは道具や素材に助けられることだが、昨夜のガラス彫刻の場合は、繊細な仕事をするほどに、大理石や象牙を浮き彫りする作業と変わらないことになって、味わいはそこに表現された絵よりも、ガラスの質感や反射の面白さにあるということになる。それも素材に助けられている点では他の工芸と同じだが、写実的な表現を目指すほどに、油彩画には決して追いつけない惨めさのようなものが露になる。絵を表現したいのであれば、ガラスの塊など使わずに、油彩画や日本画を描けばいいのであって、ガラス彫刻なるものの面白さは切子硝子のような抽象文様にあると思える。だが、そういう作品は多いし、そこからどうにか新たな世界をとなると、背伸びしたように、写実的な絵をガラスの表面に根気よく刻もうという考えになるのは理解出来る。これは織物でも同じだ。織物は生地であるから、染色という工芸は織物が存在しなければあり得ないと考えることも出来るが、染色では比較的自由な絵画表現を、織物が目指す例は古代からある。
 その先端に西陣織のの帯のような高度なものがある。その西陣で制作する北村の織りは、絵画表現を目指すものではなく、織りの組織の独創性を求めるもので、文様的には昔からあるものをいささか崩したようなものに留まっている。そこが、絵画的な面白さを求める分にはかなり物足りないが、細かい文様が整然と織り上げられた反物、ないしそれを元にしたキモノを見ると、絵画にはない、あるいは抽象絵画のような味わいが漂い、それはそれで絵画とは全く別の表現物でありながら、美を感じさせる。また、そうした整然とした連続模様は、今では機械で簡単に織り上げられるので、少しも面白味を感じないという人があるかもしれないが、長時間費やして織り上げる反物は、最初から最後まで同じリズムで織るのは当然としても、微妙に揺れが生じ、そこが一種の魅力にもなり得る。北村の織物は、キモノに仕立てた時、左右の身頃で文様の一単位の高さが違っている場合が目立つ。少し詳しく説明すると、衣桁にかけたキモノの最上端部の背中の左右で、たとえば菱型の模様がぴたりと左右対称形で縫われているとして、順に目を裾に移して行くと、左右の身頃で水平に並んでいた菱型模様の位置が少しずつずれて来て、最下端の裾では左右でずれが生じている。つまり、身丈1メートル60センチほどの長さにおいて、模様的に見れば左右のどちらかの身頃が4,5センチ縮んでいる。これは手で織るからとも言えるが、機械織りでもそういうことがよく起こる。そして、そうした白生地を使って総絵羽模様の友禅染をする時は困る。筆者は必ず湯のしをし、それでも左右の身頃の文様単位の長さが一致しない場合、あくまでも左右の身頃で模様の数を同一になるように、どちらか片方の生地を緩め、もう片方を引っ張り気味にして絵をつける。そうすれば最終的に染め上がった時に左右の身頃で生地の長さが同じになっている。こんなことを書くと何のことやらさっぱり理解されないかもしれないが、織りの組織としての繰り返し文様は、反物全体で均一の高さになっている必要があると考えているということだ。その点、北村の織物は、仕立てる段階で全くそういうことを考えていない。これはあえて手織りを示すためではないだろうか。仕立てたキモノのどの部位においても一単位の模様高さが1ミリの狂いもなく同じというのであれば、機械織りと変わらないではないかという意識だ。人間の手は機械のような正確さを持ち合せながら、そこからごくわずかにずれた部分を表現することで、作品に人間味を持たせるという考えだ。これは北村のような繊細な織物であればなおさらそうだろう。友禅染は全部を手で染めるから、いくら完璧な仕事を心がけても、表現された絵模様のすべての箇所で、人間味が不可避的に現われる。それを知っていることもあって、せめてその染める反物としての織物の文様はどの部位で計測してもぴたり同じ長さにしたいと筆者は考える。
 さて、北村の織りがどのように超人的で美しいかを示す展覧会であったが、古代の羅の復元から始めて、まだ誰も織ったことのない複雑なものを織るということに進んでいる。その制作の映像が紹介されていた。全部を見ていないが、そこでわかったことは、織る前の下準備の大変さだ。経糸を機にかける際、助手の若い女性を使ってふたりで複雑な綾取り遊びのようなことをしていた。その準備に大変な時間を要するらしいが、そこに現代の作品の本質を見た気がした。古代の羅もそのように助手を使って下準備したであろうか。もしそうであれば、なかなか不自由なことだ。言葉は悪いが、筆者にはそれが不健康に見える。筆者は友禅を全く助手を使わずに全部ひとりで行なう。助手を使えばはかどる部分が多いのは知っているが、助手がいなければ仕事にならないという立場に自分を置きたくない。助手の手を必要とするものにはそれなりの利点や効果があるのはわかっている。だが、筆者は助けなしでひとりで作る。北村の織物が誰も織ったことのない複雑なものとして、それが助手を使って非常に面倒な下準備を経たものであるとすれば、そういう前人未踏のものが出来て当然ではないか。筆者が言いたいのは、北村のそういう姿勢は機械に近いことだ。ひとりでは不可能なことがふたりで出来るのであるから、その発想の先にはもっと多人数を使えばもっと複雑なものが出来るはずであるし、またいっそのこと機械を使うと、人間では織れないものが実現する。その意味で、北村の仕事はきわめてマニエリスティックだ。今までにない複雑な織物を作ることには意味があるが、ほんのわずかずつ織り方が違う無限のヴァリエーションがそこには横たわっている。実際今回はそのような作品がセットとして数十単位で並べられた。1点を取り出して見れば、繊細な羅織りで美しいと感じるが、そのヴァリエーションを次々に見せられるきわめて退屈で、そうした仕事にどこまで意味があるのかと思ってしまう。「こういう変化も出せますよ」といったところで、無理に今までにないものを、だがさして面白くないものを量産する考えが筆者にはわからない。1点で充分ではないか。だが、そういう作品に需要があるのだろう。展覧会と同時期、四条河原町の有名な呉服店では北村の作品店が開催されていた。もちろん販売目的で、どのくらいの価格がついているのか興味があったが、店の2階に上がる勇気はなかった。人間国宝であるから、桁がふたつや3つは違うだろう。北村のような京都の呉服業界とつながった人間国宝は、京都の地場産業の今後の繁栄に大きくつながっているので、いつの時代も欠かすことが出来ない事情がある。京都の看板として必要なのだ。
 この展覧会が開催された京都国立近代美術館は、そういう京都の伝統産業である染織からの要請もあって、定期的に染織に関する企画展を開催する。だが、館を丸ごと使って現役作家の展覧会が開催されたことは今回が初めてのはずだ。これが何を意味するのかわからないが、現在の京都の織物界の看板作家として認められ、後進の鑑になることを期待されてのものであることは言うまでもない。さて、北村の作品は文様的に見るべきものがないのかどうかだが、これは筆者には難しい問題だ。というのは、羅や経錦という技法を最大限に示すためには、ある程度はつごうのいい文様というのがあるのかどうか、そこがまずわからない。たとえば、菱枡を織るとして、その内部の桝目の幅や向きなどが今までにない織り方を規定するのかどうかだ。つまり、ある特定の文様を前人未踏の織り方で織りたいと思っても、文様の形いかんによってはそれが不可能な場合があるかもしれない。そして、文様へのこだわりをなくし、織り方の独創に邁進した結果が、織られている文様であるのかどうかだ。これは結果的には文様と織り方が合致していることと言えるが、そうであるからこそ、何となく退屈感があると先に言いたかった。だが、それがどんな絵でも表現することの出来る友禅染とは違う織物の面白さなのかもしれない。北村は菱形のような単純な模様ばかりではなく、梅や菊の模様を織るなど、それなりに絵に近いものもある。ただし、その植物文様は、友禅の人間国宝であった森口華弘を思わせる。その点、いかにも昭和のモダニズムを感じたが、後でパネルの説明を読むと、北村は森口と一緒に文様研究会のようなものを開いていたというから、森口の模様に似るのは当然だ。だが、森口が逆に北村から影響を受けた部分も大きいように思う。森口の友禅は、江戸時代のような、キモノ全体でひとつの絵という作品を染める一方で、織物の小単位の模様を用い、それを連続させて染める場合も多かった。そこからは森口の息子の幾何抽象模様のキモノまではすぐで、そう思えば北村の友禅に与えた影響は非常に大きいと言わねばならない。だが、筆者はそうした幾何抽象模様の友禅キモノを好まない。織物のようでいて、織物では絶対に表現出来ないことをしていますよといった雰囲気が嫌いで、もっと絵の楽しさをなぜ表現しないのかと思う。それは、友禅作家が画家ではなく、無名の職人で充分と思っているからではない。全くその逆で、画家を超えるとさえ思っている。だが、本当にそれを目指すのであれば、具象の絵で勝負すべきではないか。
by uuuzen | 2011-12-26 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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