煉瓦色の外観は、本当の煉瓦を外壁に貼りつけているのだろうか。京都文化博物館は、白の横縞が目立って三条通りを歩くと最も貫禄があって目立つ。
![●『ヤン&エヴァ シュヴァンクマイエル展』_d0053294_2395761.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/24/94/d0053294_2395761.jpg)
旧日本銀行京都支店の建物をそのまま博物館の旧館として使用し、その奥に同じく横縞模様の鉄筋コンクリートのビルを建てて新館としたが、その新館のリニューアルが今年夏に完成したことは以前に書いた。その記念特別企画として開催されたのが『ヤン&エヴァ シュヴァンクマイエル展』で、新館ではなく、旧館が使われた。これは旧館のレトロな印象にまさにぴったりの展示内容であったからであろう。だが、チラシの配布などの宣伝があまり行き届かなかった印象があり、また新館での企画展に慣れていたこともあって、筆者が知ったのは真夏を過ぎてからであった。7月22日から8月14日までを前期として「the work for Japan」が、後期は10月7日から23日まで「映画とその周辺」と題されて開催された。気になりながらも行くことが出来ず、ようやく最終日の日曜日の夕暮れ、家内と三条通りを歩いて別館の前に来た時に思い出し、その足で早速見た。若いカップルでいっぱいで、会期中は人気を集めたのであろう。別館の1階はよく催し物が開催され、今までに何度も入ったことはあるが、今回は展示作品がとても多く、2階も使用された。1階が吹き抜けのホールであるため、2階は回廊の小部屋しかない。そこにヤンの妻エヴァの、主に絵画が並べられた。めったに見られないチェコのシュルレアリストの作品で、ヤンの作品ともどもとても印象深かった。この2階の小部屋は普段立ち入り禁止で、雑然とした古い雰囲気を残し、新館の現代的な空間とは100年ほどの隔たりを感じさせるが、そのことがよけいに作品に似合っていた。ほとんど閉館間際まで見た後、外に出ると、雨がひどく降っていた。それよりも印象深かったのは、暗くなった三条通りが、京都ではなく、ヨーロッパの古い都市であるような錯覚を感じたことだ。遠いところを旅行している気分に浸りながら帰途に着いた。実際に館を出たところがドイツうやイギリスの都市であっても筆者はさほど驚かなかったであろう。夢と現実がそのように何かの拍子に混じって感じられることがよくある。それにしてもリニューアル記念にシュヴァンクマイエルとは、なかなか思い切ったことをする。前期を見ていないので、後期がすっかり展示替えされたのかどうかわからないが、半分以上は重複していたのではないだろうか。2500円の図録は書店でいつでも買えるものであったので、買わずにぱらぱらと見ただけだが、印刷されていたのは後期の展示がほとんどであった。また、「映画とその周辺」と題しているものの、映画の上映はなかった。ひょっとすれば、新館の映像ホールで上映があったかもしれない。あるいは、日本でビデオやDVDの発売権を持っている会社が上映を許可しなかったとも思える。許可するなら、それに見合う費用を文化博物館が支払わねばならないだろう。それは1本500円で見せる映像ホール(リニューアル後は映像シアターと称したか)としては難しいだろう。別館の正面玄関から入って右に進んで見始めたが、2階も全部見て館を出る時は玄関を入って左の方から出た。つまり一周したが、その最後のコーナーに比較的大きな売店が設けられ、シュヴァンクマイエルに関する多くの本やDVDが売られていた。それほどに日本では情報が豊富で、筆者の乏しい知識ではここにわざわざ取り上げる資格がないが、昨日に続いて思いつくまま書いておく。
![●『ヤン&エヴァ シュヴァンクマイエル展』_d0053294_2402614.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/24/94/d0053294_2402614.jpg)
まず、シュルレアリスムは日本で古くから紹介され、もう目新しいものはないと言ってよい。そこに西欧とは違う東欧の、そして今も気を吐くシュヴァンクマイエル夫妻の作品紹介で、これはシュルレアリスムの再発見とチェコのことを知るにはいい機会であった。まず、夫妻のシュルレアリスムは西欧のものとどこがどう違うか。昨夜書いたように、チェコは16世紀のルドルフ2世の時代、アルチンボルドというイタリアの画家が宮廷に招かれ、王の気に入る絵画を描いた。それは王が博物学に関心を抱き、膨大な収集をしていたことが背景に理由としてある。この物を徹底して集める性癖と、それを組み合わせて幻想的な全く別の物を表現するアルチンボルドの油彩画の方法とを、ヤンはそのまま駆使し、絵画や彫刻、アニメとして製作する。その意味で、ヤンの仕事は16世紀の芸術に近い感覚を多く持ち合せているが、昨夜書いたように、そこにヤンが多感な時を過ごした青年時代のチェコの不幸な歴史があって、16世紀的でありながら、現代的、しかも痛烈な風刺を隠喩として持つ。このどちらも日本にはあまり馴染みのないことで、そのため、ヤンの作品は全くの別世界からやって来たものに見える。それは今まで盛んに紹介されたフランスのシュルレアリスムとは違う雰囲気を濃厚に持っているからでもある。つまり、見慣れないことによる新鮮な驚きだ。だが、こう書いてしまえば、いずれヤンの仕事も日本で飽きられて、形だけ模倣した作品が大量に生まれる予想につながる。確かにそういう面はあろうが、模倣では到底汲み尽くせない迷宮めいた味わいがヤンの作品には濃厚で、その違和感と言ってもいい部分によって、いつまでも一定以上の商業化の道具には使われない、つまり消費されないであろう。それは、ひとつには肉や血のイメージが強く、またそれゆえにエロティックだが、これは西欧のシュルレアリスムの作家にはあまりなかったことではないか。だが、強いてヤンの仕事に似たシュルレアリストを挙げると、まずマックス・エルンストが思い浮かぶ。特にそのフロッタージュだ。ヤンは初期にこの技法を盛んに用いた。それはエルンストとは違って、アニメ的でアルチンボルド的で、すでにアニメへの志向が見えている。手元に展覧会のチラシしかないので、それを頼りに書くが、幸いにもこの初期のフロッタージュの図版が小さく載っているので、それを載せよう。人体のような有機的な形を、関節ごとに分解して、「擦り出し」の技法で描きつなぐ。しかもそうして作った有機体を左右に並べて対話しているように配置する。これがひとつの様式となっている。同じような対話は短編アニメでは『FOOD』の第2話の「昼食」に典型的に見られる。そして、昨夜書いた『スターリン主義の死』でも、アルチンボルド風の人物が横顔を見せて左右に登場し、お互い食い合う様子を見せるが、これは『FOOD』の主題にも通じている。
あらゆる物を使いながら、その物で人物を構成するアルチンボルドの考えを、ヤンでは一歩進んでふたりの対話という形にする。これは物に準拠しながら関心は人間にあることを意味する。そういう擬人化は日本ではあまり見られないのではないだろうか。物への執着に徹して、人間への関心を失うのがコレクターの姿で、ヤンはその点、物への関心は強いが、それ以上に人間に興味がある。そのことが肉や血をよく使うことにつながっており、そこが淡白な日本とは決定的に違うことに思える。日本が肉感的なものを嫌うというのではない。だが、ヨーロッパに比べるとやはりそうであろう。生きた豚を鉤で吊るしてナイフで一気に腹を切り裂いて血を流させ、その様子を撮って作品に使うという考えは、日本ではあまり見られない。この本質的な差から、ヤンの作品は日本では理解し切れないとは言わないが、常に異物的な何かを感じ、そのために新鮮であり続けると言いたい。だが、これも肉食があたりまえになった現在の日本ではわからない。何しろ、子どもがナイフを振り回して誰でもいいから切りつけたいという欲望を抱くようになっている。そう言えば、エヴァの絵画には、そういう猟奇的な事件を描いた作品があった。女性ゆえに男性に刺し殺されるという恐怖をいつも抱いていたと読み取ることは出来るが、エロもヴァイオレンスも見つめて人間の深い心理を描きたいと思っていたのであろう。エヴァについては後で書くとして、まずヤンだ。フロッタージュがあれば、コラージュは当然予想出来る。エルンスト風のコラージュもヤンは作っている。その素材はエルンストと同じく博物学の銅版画から切り取ったもので、それを意外な形で組み合わせる。そこには貝や植物などの自然界のものから、機械の部品や人間の生活道具まで含まれるが、1枚の作品として表現するのは、夢に出て来るような機械や、エロティックなことに関係している。こうした平面の仕事を経た後、あるいはほとんど同時進行であろうが、レリーフや彫刻にも手を出す。レリーフは石膏や粘土を使い、鑑賞者が自由に触れていいもの、つまり触覚を目的としたもので、そこにもエロが関係している。彫刻はコラージュをそのまま立体化したものを思えばよい。今回のチラシの表にはそうした作品が大きく取り上げらた。貝や魚、鳥、木の枝などをつなぎ目がわからないように合成し、最初からその形で存在したものであるかのように見せる。この彫刻を見てボッシュの絵を思い出す人は多いだろう。ボッシュもまた20世紀に入ってシュルレアリストが注目したが、アルチンボルド以前に北方にはそのような幻想的絵画を描く才能があった。その北方から東のチェコで、しかも20世紀になってヤンが同じような幻想性を作品に表現するところ、ヨーロッパの一体感と、思いの再生と伝達と思わせる。この奇妙な生き物のように合成された彫刻は10点ほどあったろうか。それだけでもこの展覧会の強烈さが充分に味わえたが、このアルチンボルド的合成手法はアニメにも持ち込まれる。つまり、動かない彫刻として作ったものを、画面の中で動かして見せたいという欲求が高まった。これは夢を作品づくりの大きな源泉と位置づけるヤンの考えからして当然の帰結で、ヤンがアニメ作家と呼ばれるのは、彼の才能が最も開花したものがそれであるからだ。エルンストはそうした映像作品を作らなかった。それは時代のせいでもあるが、ヤンはいわば最後のシュルレアリストとして、アニメを表現媒体として使うことに意味を見出した。
![●『ヤン&エヴァ シュヴァンクマイエル展』_d0053294_2404913.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/24/94/d0053294_2404913.jpg)
今回はそうしたヤンの映像作品に使われた絵画や舞台装置などの大掛かりな作品の展示があった。それは部分を少しずつ動かしてコマ撮り出来るように工夫した人物などを画面に貼りつけてあって、それだけ見ると、動かす絵画と言える。昨夜書かなかったが、ヤンの映像作品はカットがとても多い。また同じカット内の映像でも、フレームを盛んにずらしてコマ撮りしているため、独特のぎくしゃくした手作り感がある。これは一見拙いようでいて、全くその逆に、きわめて凝った画面作りとなっている。そして、その撮り方にヤンの真骨頂があり、他のアニメーターには真似が出来ないだろう。そこがヤンのアニメ作品の技術的に素晴らしいところで、そのことが作品で何を主張したいかという思いと見事に合致している。技術だけなら器用な日本人はすぐに模倣するが、作品に込めた強い政治風刺までは全く無理で、おそらくヤンの技術で別のものを撮ると、とても見られたものではないだろう。昨夜書かなかった『FOOD』という作品の、特に第2部の「昼食」は、この技術的な面から見ても驚くべき作品で、いったいどのようにして撮影したのかと誰しも思う。この作品は見知らぬふたりの男がレストランに入って食事を注文するところから始まる。ウェイターは忙しくて注文を聞きに来てくれない。それでふたりはお互い相手のやることを真似して、皿やテーブル、自分の服など、何でも順に食べて行き、最後は素っ裸になる。そして、最後にひとりはナイフとフォークを食べるが、同じことをしたかに見えたひとりは食べたはずのそれらを口から取り出し、それで相手を襲おうとするところで終わる。途中でふたりの男は無理にテーブルや椅子を食べるので、口が漫画でしかあり得ないように大きく形が変わる。これはその部分を粘土で作り、顔の他の部分と合成したものだ。粘土で俳優の顔そっくりにリアルに造形する才能があって初めて可能なコマで、わずか1,2秒のそうしたカットにどれほど多くの時間を割いているかが想像出来る。また、食事に関するこの作品は、開高健のように、戦後の食料不足の時代を過ごしたことを思わせるが、これはヤンがインタヴューで語っていたように、作家は時代から逃れられない存在であることを端的に示す。この作品を、空腹を抱えることに実感が乏し今の日本の若人は面白がらないだろう。また、なぜふたりの男が最後はお互いを食べ合おうとするのかという意味も見えないのではないか。このふたりの男は、共産主義国の貧しさと相手を裏切る残酷さを持ち合せていることの隠喩であろう。仲よく食事しているように見えて、国内は貧困になる一方であり、そして食べるものがなくなれば相手の国を襲おうとする。人を食べるという、ブラック・ユーモアとしてはあまりに単純で笑えない話は、実際はヤンが40年もの間抑圧を感じていた自国の政治をどうにかして笑い飛ばしたかったことの表われだ。この相手を食べるという図式は、『石のゲーム』の主題にもなっている。この短編はさまざざまな石が登場し、それが人体やアルチンボルドそのままの横顔を構成する。そして左右に対峙したふたりの石の顔は、お互いを食べ合い、石が砂に変化して今度は砂人間になる。音楽とともに詩情漂う作品で、石という無機的な物を扱いながら、やはり人間やその対話を表現せずにいられない思いが見える。それは人間に失望を感じていないからか。人間に興味を失うと、もはや石で人物を表現したいとは思わないのではないか。
切りがないので、ここでエヴァの作品について書く。チラシによると、エヴァはヤンより6歳下で1940年生まれで、2005年に去った。詩人、小説家としても知られる。ヤンの映像作品の美術や衣装も手がけたそうで、エヴァの作品を見る機会は今回が初めてではないだろうか。エヴァの絵画はウィーン幻想派のレームデンを思わせる。今調べるとレームデンの方が一世代上だが、スロヴァキア生まれであるから似ているのもあたりまえかもしれない。だが、レームデンよりも赤や青の原色の使用が目立ち、それが解剖された筋肉を連想させる。また自然を描くというより、ヤンと同様、やはり人物に関心が強い。絵画のほかに陶器による彫刻と呼んでよいものもあった。これは陶製の白い水差しを7,8個輪状に並べた作品で、ある水差しにはペニス状の突起があって、それを一部胴体が割れた別の水差しに突っ込んでいる。確か『サド侯爵に捧ぐ』といったような題名であったが、この輪姦めいた主題はヤンのアニメにもあって、シュルレアリスムのエロの面を表現している。シュルレアリストはフロイトに傾倒したから、夢にエロを読み取るのはごく自然なことで、ヤンの作品にはエロさが欠かせない。そう言えば、映像作品に使用された「自動自慰機」が展示されていた。それはもはやいやらしさを通り越して、人間が必然的に持ち、また囚われ続ける性の欲求の悲しさと滑稽さを示していた。これもまた西欧のシュルレアリストたちにはなかった立場ではないだろうか。エヴァに戻ると、その絵画は具象を基礎とはするが、正確なデッサンに基づいたものではなく、自動筆記の部分が大きいように思えた。ヤンの顔を描いた油彩画もあったが、半分は紙に描いた水彩で、またどの絵にもエヴァらしい色合いとデフォルメ感があった。狭い回廊の部屋でそうした作品を間近に、またたくさん一度に見ると、ヤンのオブジェの集合体の立体作品を見る以上に印象が強く、こうして書きながら、気性の激しさとでもいったものを思う。女性画家のイメージにある優しさはもちろんあるが、それ以上にもっと赤裸々な情念とでもいうようなものがほとばしっていて、やはり遠い東欧を感じる。10月に京都シネマでヤンの『サヴァイヴィング・ライフ』が上映されたようだが、その予告編が2階に上がる階段の下で上映されていた。全部を見ていないが、ヤンは夢と現実がない混ぜになった作品にしたいと語っていた。それは昔からやり続けて来たことだ。改めてどういうことを言いたいのか興味があるが、筆者は見ていない。前に何度か書いたように、夢は現実の一部であり、夢と現実が混ざったという表現は、本当はおかしいと思う。現実は夢の反映であり、夢は現実の反映だ。お互いが食べ合って生きている。それをヤンも知っていて、よく食べ合う両者を対峙させたのではないか。