びっしりと細かい文字で書き込まれたポスターに何が書かれているのか確かめようと思ってチラシを探すが、出て来ない。今回の企画展に限り、もらって来なかったはずはないが、そういうこともあるかもしれないと思い直して探すのをやめた。

このチケット、美術館の内部に落ちていたものを拾って来た。大阪の国立国際美術館で『アンリ・サラ』展を見た時、その下の地下3階で行なわれていた展覧会で、『アンリ・サラ』よりこちらの方が目的で出かけた。鳥博士さんからもらった招待券で、これは通常のチケットとは違って関係者に配布される用紙だが、半券を拾ったのでその画像を掲げておく。あまりに細かいので、文字が埋まっているかどうかはわからないだろう。それにしても、この細かい文字は何について書かれたものかを知らねば、この展覧会の意図がわからない。それでまたチラシを探すか、虫眼鏡を探してチケットの文字を読もうかと考えるが、ネットで調べた方が早い。それによると、展覧会の英題『WAYS OF WORLDMAKING』は、アメリカの哲学者ネルソン・グッドマンの著書名とある。グッドマンは記号論的方法によって世界の多数性を論じ、「『世界』は制されるもので、それはいくつものバージョンを作ること」と書いたそうだが、そういうことをもっと難しく、長く書いたものが、ポスターやチラシ、チケットの黒地に浮かぶ細かい灰色の文字なのだろう。となればそれは翻訳者の許可を得たのかと、また別の、多少はどうでもいいことを思ったりもするが、「世界が制されるもので、いくつものヴァージョンを作ること」というのは、あたりまえ過ぎて今さらという気がする。人はそれぞれ考えが違い、その違う考えで世界を見ているから、ある芸術作品に感じる思いは違うし、また芸術家も無数に湧き出て来る。そして、そういう自己主張する芸術家がたくさん出て来ることは、世界がそれだけ多様であることを認識させるから、頭の固くなる傾向にある人間は、耐えずそうした新しい時代の新しい作品に接する方がよい。とはいえ、人間は年齢を加えるとともにどうしても頭も体も固くなって、新しいものにさほど関心が持てないようになるのが自然であるし、永遠に世界が制されながら、ヴァージョンが増大するとしても、それに接するのは一部の人であり続ける。この一部の人は現代美術、現代音楽など、現代のつく芸術を好む人だ。そういう人が増えて来ていると実感するが、それは国立国際美術館でこうした展覧会を開催すると、若い人がそれなりに多く訪れるからだ。これは、美術館が出来たためと言ってよい。美術館がなければ芸術家が画廊で作品を問うが、現代美術は画廊ではとても収まらない規模の大きなものになって来ている。となれば、日本が経済的に豊かになり、美術館が各地に出来たことと現代美術家の増加は密接な関係にあるだろう。美術館を作ると、それを運営するために作品を展示しなければならない。そして、美術館はたいていは民家に比べてとてつもなく大きいから、作家はそれに応じてとにかく大きな場所を要する作品を用意する。そうでない、昔ながらの小さなキャンヴァスに描く画家は時代遅れとみなされ、お呼びがかからない。また、若い美術ファンもせっかく大きな美術館に行くのであるから、スケールの大きな、そして印象に残る面白い作品を期待する。前に書いたように、それは縁日のお化け屋敷を楽しむ思いとほとんど変わらない。となれば、現代美術家は、香具師みたいなものだ。実際そのとおりで、人を面白がらせてなんぼの世界で、その度合いが大きい作家ほど美術館には歓迎される。学芸員にしても多くの客が入らないことには、いくら力んで企画してもひとりよがりとされる。

チラシがないので、どういう作家のどういうタイトルの作品が並んでいたのか、それを記すことが出来ない。それで国立国際美術館のホームページを見たが、そこにも詳しい紹介がない。筆者が訪れた日にはすでに作家紹介のパンフレットはなかった。それは用意したものがなくなったからだろう。それほどに多くの人が訪れたはずで、筆者が行った日もとても盛況で、そんなに大勢の入りを見たのは久しぶりであった。それで思ったのは、この美術館が万博公園内にあった頃の閑散とした様子だ。いくら国立とはいえ、それは税金の無駄使いがはなはだしかった。筆者はそれでも辺鄙な万博公園の中のその美術館にわざわざ行くのが好きで、中之島に新しく出来ることには反対であった。だが、こうして新しい建物に、万博公園内にあった時には考えれないほどの多くの客が押し寄せるのを目の当たりにすると、美術ファンが増えたことを証明もし、歓迎すべきことに思う。大阪は文化の程度が低いと思われているが、この中之島の美術館の盛況ぶりを見ると、隣にやがて出来る大阪市立近代美術館も楽しみだ。そう言えば、地下2階の『アンリ・サラ』展の隣りでは、大阪市立近代美術が所蔵する名品と、国立国際美術館が持っている名品とを一堂に見せていた。どちらも何度も見たもので新鮮ではないが、地下1階のエスカレーター横に、前者が所蔵する佐伯祐三の作品2点を拡大し、顔の部分を繰り抜いた撮影用の設えがふたつ並んでたのは珍しい。そういう遊びはこの美術館では初めてのことと思う。早速筆者と家内で写し合いをした。その合成写真を載せておく。筆者はサングラス、家内はマスクで、どちらも素顔がわからない。さて、いずれ美術館がふたつ隣合わせに並ぶのは、大阪の都市計画から生まれた発想だが、都市計画こそが、WAYS OF WORLDMAKINGの中でも最も規模の大きいもので、美術家はその中の建物の一画で一時的に何かを展示するだけの小さな存在だ。となれば、今回の展覧会を可能にしたのは、中之島に国立国際美術館を移転しようと言い始めた人物のおかげということになるし、もっと遡れば中之島を人が多く集まる文化施設が林立する場所にしようと考え出した世代ということにもなる。それはともかく、中之島がそぞろ歩きして楽しい場所になるのは近代美術館が出来て、もっと洒落たカフェなどが軒を連ねてからで、今はまだ美術館以外は全体に殺風景で、WAYS OF WORLDMAKINGの方法を模索中といったところだ。どうでもいいことを書いてしまった。さて、またネット情報に頼ると、6人と3組の日本人作家の作品が展示されたが、この9つを全部鮮明に思い出すことが出来ない。見事に半分ほどは忘れた。やはり何か書いたもの、特にチラシがないことには筆が進まない。それでも記憶に鮮明なものから書く。まず、最初の部屋に入って驚いた。息子が3,4歳の頃に買ってあげたプラレールという商品を床や天井、壁に貼りつくしてある。これは青いプラスティック製の線路で、そこに新幹線のおもちゃなどを電池で走らせる。レールは買い増しが出来るので、大きな部屋があれば子どもは存分にレールを継ぎ足して遊ぶことが出来る。確かそのセットはまだ倉庫にしまってあると思うが、息子はあまりのめり込まなかった。男子は大人になっても鉄道ファンがたくさんいるように、こういうおもちゃの列車遊びは昔から好きで、それがプラスティック時代になってプラレールという商品が爆発的に売れるようになった。現在の商品は新幹線を最新のモデルにするなど、時代に応じて電車の方はデザインが新しくなっているが、レールは昔のままで、直線とカーブの2種、それに交差するポイントのものが2,3種、さらには駅舎などのオプションもいろいろと用意されている。このプラレールという、誰でも一度は見たか遊んだことのあるおもちゃのレールのみを大量に美術館に運び、縦横無尽に連結した作品だ。壁や天井にどのようにして固定しているのか係員に質問したところ、知らないという素っ気ない返事だ。接着剤でくっつけているのだとすれば、後で剥がすのが大変であるし、レールも損傷するから、何か特殊な方法で固定しているのだろう。壁に電車を走らせることは出来ないので、子どもの頃の遊びとは違って、レールを増やすことに意味を見出している。作家はよほど子どもの頃にこのレールにはまったのだろうが、子どもでは考えらない大規模の遊びをすると、こういう美術作品になるということの一例だ。そう考えると現代美術の方法はいとも簡単で、しかもアホらしい。それをアホらしいとどこかで思いながらも、目に見える形に作り上げる態度があるかないかが、作家になれるかどうかの分かれ道だ。これはどこでもらったチラシか忘れたが、このプラレールの作家は東大阪市のどこかの体育館で一般人を応募して一緒にこの縦横無尽のレールつなぎをするようで、それは将来その作家の意志を継ぐ二代目が生まれる契機になるかもしれない。
おもちゃの電車が走らない、いや走れないレールのつなぎ方なので、白い壁面に青い線がでたらめな模様のように這っている様子を見るのが、いわば美しいと感じるインスタレーション作品だが、これと対になるような、係員に小さな灯りで真っ暗な部屋に誘導されて鑑賞する作品が最後の方にあった。それはプラレールではないが、もう少し小さな模型の列車に豆電球を取りつけ、それが部屋いっぱいに敷かれたレールをゆっくりと無音で走りながら、そのレール際のオブジェの影を壁面に照らすというものだ。線路の敷かれた場所はだいたい14畳程度で、そことは区切られた線から手前で鑑賞する。この作品で面白いのは、最初は高さ5センチほどの人間の形に切り取った紙を20や30ほど林立させた場所を通りながら、やがて台所用品など、日用品を並べていることで、それらが壁面の大きな影になると、意外な形に見える。意外に重いながらも、それが洗濯ばさみや笊、何かの容器ということを知っているので、「なるほどこのように見えるのか」と納得する。そして、幻灯を見る楽しみが基本にあるので、幼い日のそうした遊びを思い出して、自分でも同様のものを作ってみたくなる。小さな部屋でも可能で、模型の電車に豆電球をつけさえすればよい。この作品では起点から終点まで走ると、今度は20倍ほどの猛スピードで列車が逆走して起点に戻り、そこからまたスタートするが、その間20分程度だろうか。たいていの人は途中から見るが、最初は何のことやら事情がわからないが、30秒もすればその夢幻的な味わいに納得出来る。この作品もまた子ども頃の遊びが根底にあり、これが現代芸術かと首をかしげる人もあろうが、香具師のように人を楽しませればそれでよく、まず感動が大事なのだ。現代美術が難解一辺倒であっていいことはない。意味は後でついて来るといった程度に考え、何も解説を読まず、まず作品に接して驚きがあるというのが一番よい。さて次に印象に深かったのは、これも台所や日用品を使った作品で、それらを大量に持ちながら、大きな台の上にあちこち積み木のように並べ、積み上げた状態で、真っ白なメリケン粉を真上から雪が積もったように振りかけている。とても小さな、たとえばマッチ棒1本にもしっかりと1センチほどの粉が積もっている。粉が積もらなければ、ただの日用品を遊園地の遊び道具のように配置したように見えるが、全体に白い粉が積もることによって、静謐とした、またどこか清潔な空気が漂う。この作品を見ながら、後始末が大変で、またメリケン粉は再利用するのかと心配したが、この作品も子どもが遊びでやるようなことを大人の無茶を顧みない程度にまで拡大したもので、こういう思い切った態度が現代美術作品には必要なことがわかる。それは言い変えれば、ケチでは駄目で、後先を考えずにとにかく人を驚かせるレベルにまで無茶をせねばならない。また、作家にそうさせるのは、美術館という馬鹿でかい空間が当てがわれるからでもある。そう考えると、美術館はひどいことを強要する。
ほかの作品で記憶にあるのは、まずイスラムのタイルを数十や100枚程度つないで絵に見立てて壁面に飾ってあったものだ。よく見ると、タイルの表面にメリケン粉かでんぷんのようなものを溶いて塗りつけてあり、それが乾燥してあちこち剥がれて来ていて、その小さな破片が壁際に落ちていた。それを拾えば、何かがわかるはずだが、係員の目があるので拾わなかった。また、小学生の日記のような短い文章が部屋のあちこちに貼ってあって、その間に落書き風の紙に描かれた絵を並べている作品もあった。文章は全部読んだが、それぞれが他の文章と関係があるのでもない。だが、短文ながら印象に残る内容もあった。たとえば、ある子どもが母親の内職の手伝いをして、品物を抱えて納めに行くと、そこがえらく金持ちで、どうしてそのような金持ちになれるかをあばあさんに訊くと、箱の中から銀製の何かをたくさん取り出して見せ、こういうものがなければいけないと言う。子どもは家に帰って母親にそのことを言うと、おばあさんは勇気づけるためにそういうことを話してくれたと子どもに言うが、子どもは母親の内職の手伝いが出来るのが嬉しいので、おばあさんが示した金を生むオブジェはほしくないと思う。ま、このような話が紙に書かれてあちこち貼ってある。動画もあったと思うが、こういう作品は絵とは詩とかに分類せず、部屋全体で作家の何かを感じ取ればいい。よくわからなかった作品があった。それは、同じ形のノートパソコンを20台ほど時計のように丸く床に並べ、1台ずつにマウスが2個あってそれを貼り合わしている。パソコンは機能していて、壁にかけたモニターにランダムに何かを表示しているが、これはネット情報を作家のプログラムに通ずることによってある言葉を抽出する仕組みだ。その言葉は「GOD」ではなく「ゴット」だったと思うが、このノートパソコンが置かれた隣の部屋に、古い扉を開けて中に入るようになっている。そこはほとんど真っ暗だが、部屋の突き当たりにライトで照らされた1枚のポスターが貼ってあって、そこにも「ゴットは存在する」といった言葉が書かれていたと思う。無人であるのに、パソコンが勝手に動いて自動的に「ゴット」の文字を拾い出し、それを壁にかけた画面が写し出すもので、未来映画的な気持ち悪さがあった。こうしたパソコンを使った作品は今後はもっと増えるだろう。真っ暗な部屋で思い出した。最後の作品は、それこそ真っ暗な直径5メートルほどの部屋に入らされる。筆者は途中から入ったので、出入り口の黒いカーテンの隙間からわずかに入る光に目が慣れて、壁面がどうやら丸いことを悟るのに1分ほどかかったが、家内は恐がって入らなかった。閉所恐怖症を覚えると言うのだ。確かにそういう恐さがあった。この丸い部屋には、係員が数人ずつ入れるが、最初は薄ぐらいので、中が丸い部屋であることはわかる。したがって、暗転しても安心して中に留まることが出来る。筆者は係員がいない少しの合間を縫って勝手に入ったので、中は真っ暗であった。すぐ1メートルほど先に若い女性2,3人の息を感じた。それ以上動くと彼女たちにぶつかる。そうなれば「痴漢!」と叫ばれる。その恐怖で体が強張った。だが、暗闇に慣れていたはずの彼女たちは筆者のそういう姿をうすうす感じたであろう。そう思うとまた恐い。この作品のどこが芸術なのかと思う人は多いだろう。筆者もその部類だ。似た作品は以前にもあった。こうした暗闇を提供するのは、それこそ縁日の見世物そっくりで、いつもとは違う空間で楽しんでもらおうという考えだ。だが、芸術家をそのような縁日の香具師と同じように言っては心外だと言われる。この暗い部屋の作家は、その部屋を出てすぐのところにテーブルを置き、その上に水をいっぱい張った円柱形のガラスコップをひとつ載せていた。その底を覗くと、青い地球のような文様が見えた。そのすぐ左横1メートルが出口であった。現代美術家はどのようにして収入を得ているのか、それが筆者には一番大きな謎で、国立のこうした美術館はそれなりにギャラを支払っているはずだが、客の入りにそれは関係するのだろうか。それは当然かもしれない。大勢の人がやって来れば、他の美術館からも声がかかる。目立ち、人気を得なければ、美術館も作家も金が回らない。世界を制するのは金しだいということか。アメリカの哲学者ならそう言いそうだ。