参加することに意味があるのはオリンピックで、ザッパは参政に意味があると常々言っていた。
それはまず投票しろということだ。1972年発売の、ニューヨークのフィルモア・イーストでジョン・レノンとヨーコ・オノの参加を得たコンサートのライヴ・アルバムのジャケット裏側の下でもそれを呼びかけていた。もっとも、アメリカではまず投票の前に登録する必要があり、ザッパはそれをしろと最晩年まで訴え続けた。その意志を汲んで、没後に発売されるアルバムでも同様の文句が印刷されている。この『CARNEGIE HALL』もそうだ。だが、その思想を、新たに1970年に参加したふたりの元タートルズのメンバーのフロ・アンド・エディがどこまで同調していたのかはわからない。筆者はこのふたりが歌っているザッパのアルバムは最初に聴いたこともあって愛着がある。それが今回は4枚のディスクに収録されたから、嬉しくないはずがないが、1970年頃からすでにこのふたりを向かえたザッパの演奏を収録する海賊盤が出回り、それを買っていたので、レパートリーは全部知っているも同然で、耳馴染んだ曲がわずかにどう違うかを確認することが楽しみという、楽しみの度合いが最初から限定的であるのは否めない。また、レパートリーは組曲的に編まれたりして、ある曲の次にはどの曲が来るということまであらかたわかっているが、先のフィルモア・イーストでのライヴ盤は、B面がA面に比べてややまとまりが悪く、実際はどのような演奏曲からカットして1枚のLPに収めたかがわからず、それが一種の不満めいた謎として今もなお思いの中でくすぶり続けている。そのB面の最後2曲は、今回のディスク2の最初の2曲であるため、まるでフィルモア・イーストのライヴ盤の続きを聴くようなところがある。つまり、くすぶり続けていた思いがかなり払拭された。ステージではB面の最後2曲の次に何の曲が演奏されていたかは、今回の新譜を待たずとも海賊盤などで以前から知っていたことだが、正式発売はオーラがまるで違う。また、フィルモア・イーストでの演奏から4か月後にまたニューヨークで演奏したことになり、同じ曲とはいえ、ホールの音響の差もあって、そっくりそのままフィルモア・イーストでのライヴの続きという感じにはならないが、それでも同アルバムの最後、つまり「TEARS BEGAN TO FALL」がフェイド・アウトで終わって行くさみしさを味わわなくて済むのはいい。
そう思う一方で、当時のザッパの頭の中を想像すると、たくさんのレパートリーをいくつかの組曲に分けて構成し、しかも時にはその中の曲を別のものと入れ換えることをよくやったので、その作品への思い入れの熱度に感心する一方で、取り止めのなさを感じてしんどいこともある。その取り止めのなさは捉えどころのなさと言い換えてよい。フロ・アンド・エディが参加したアルバムは昨日書いた『JUST ANOTEHER BAND FROM L.A.』の前に先のフィルモア・イーストでのライヴ、そして『CHUNGA‘S REVENGE』『200 MOTELS』、それに『PLAYGROUND PSYCHOTICS』、そして本作となるが、これらのアルバムでは曲のだぶりもあり、またそれぞれ構成が違うので、どの曲もどれかとつながるような気がする。これが捉えどころがないということだ。そのため、ザッパの音楽をこれから聴くという人に、フロ・アンド・エディが参加したアルバムを薦めるにしても、どれがいいかわからない。そして、自分が取り止めもないと思っているのであるから、薦めようとは思わなくなる。これは聴いてもつまらないからやめておけという意味ではない。聴き始めてもおそらく中途半端に終わって楽しめないと思うからだ。短編小説を片っ端から読んで暇を潰すというのとは違って、ザッパの世界は長大な、そして複雑きわまる小説の世界にたとえてよく、その中でたいていは道に迷ってしまう。それがザッパの頭の中と先は言いたかったのだが、その頭の中をより多く理解するには、レコードの構成とは別に、今回の新譜のようにステージの構成も知る必要がある。その意味では今回のアルバムは、フロ・アンド・エディ在籍時としては初めてステージ丸ごとの収録で、価値は大きい。取り止めのなさを感じていたことが、かなりすっきりするのもその理由だ。だが、1日に2回のステージをこなし、それが曲のだぶりがないというのであるから、やはり頭の中の世界と、そしてその挑戦的態度を思うと、仕事に対するプロ意識がひしひしと伝わり、それがザッパの格好よさであったことを改めて思う。練習に練習を重ね、仕事に仕事を継いで行く。それがザッパの人生で、そういう人物の音楽を気楽に楽しむという気持ちはそれはそれでいいが、一旦その内部の深みを想像すると、さて自分はどこまでザッパを理解しているのかとたちまち心もとがなくなる。
今日は朝からリピートでディスク2を10回は聴いた。今は深夜になって音を絞っているが、昨夜大西さんのメールによると、ディスク2と3を愛聴しているとのことで、それはよくわかる。確かにディスク1と違ってザッパの演奏だけが1時間弱続き、演奏しているメンバーもちょうど熱くなって来た頃で、手馴れたところを聴かせる。フロ・アンド・エディは楽器も奏でるが、ヴォーカル専門で雇われたも同然で、このふたりの歌がやはり最も目立つ。ではギターの腕前を披露したいザッパの出番はどうなるという問題があるが、それはちゃんと用意している。フィルモア・イーストのライヴでもそうしたギター・ソロ曲は含まれた。このディスク2では、6曲ある4曲目がそれで、「KING KONG」を30分も演奏する。これは全編ザッパのギター・ソロではなく、メンバーの即興演奏を順に聴かせる。また、同曲のテーマをフロ・アンド・エディが歌うのは今回初めての収録で、どんな曲でもなるべく全員の出番を設けようというザッパの思いが伝わる。ただし、この30分の曲は、フロ・アンド・エディがステージでどうしていたのかと思わせるほどに出番が少なく、こうしたリード・ヴォーカルリストをふたり迎えても、器楽曲を演奏したかったザッパの思いが見える。もともとザッパはそうした器楽曲を専門に演奏したかったと見てよいが、それではザッパ以前のジャズのように食いはぐれるという現実を目の当たりにし、それでビートルズ風にヴォーカル曲を前面に押し出す必要を思った。とはいえ、フロ・アンド・エディ時代の音はどれも同じ色合いをしていて、71年12月に演奏会場が火事を起して楽器が燃えてしまったことが原因でフロ・アンド・エディとは縁が切れ、ふたたび器楽曲専門の形で再出発したのは、ザッパにとってはある意味では計画の範囲内のことであったろう。その新たな出発をするのに必要な予行演習がいわば「KING KONG」というジャズ曲で、フロ・アンド・エディを前面に出しながら、ザッパはしっかりとその脱退後を考えていたことが、その曲の演奏からわかる。ただし、それは半分はうがち過ぎかもしれない。というのは、2時間近くも歌いっぱなしではふたりの喉は大変で、それを休ませるためにも器楽曲を間に置く必要はあった。この「KING KONG」はフロ・アンド・エディが加入する以前の旧曲で、ディスク2では長さではメインとなるものの、新鮮味では最も劣る。退屈と言うのではないが、いくつもの演奏が発表されているので、またかという感じがある。これはBGMとして聴いているからで、じっくり耳を済ますとまた違うだろう。たとえばキーボードのソロも面白いが、やはりザッパのギター・ソロが楽しい。ところどころに後年の曲のフレーズの萌芽を聴くことが出来る。こうしたステージでの即興を重ねる中で、少しずつ新曲の形が浮上して来たのであって、そのスリリングな創造の場に立ち会っている気分になれる。それを他のメンバーはどこまで感じていたであろう。恐らく何もわからなかったに違いない。筆者がここで書くのは、この後のザッパが死ぬまでの間にどういう曲を書いて演奏したかをよく知っているからだ。そのため、このアルバムを演奏当時聴いたならば、今と味わいは違ったはずだ。どちらがいいかわからないが、昔の知らない演奏をより分析的に聴いてしまうのは仕方のないことだ。さて、歌好きな人にとっては、長い器楽曲が終わってふたたびフロ・アンド・エディが歌う4,5曲目、すなわち前半のショーの終わりは聴き応えがある。「200 MOTELS FINALE」と「WHO ARE THE BRAIN POLICE?」で、後者は「KING KONG」以上に古い曲だが、ここでは歌詞はそのままで、メロディが全く違うものに変えられていて、ショーの最後を飾るのにふさわしいアップ・テンポを聴かせる。