稜線だけは変わらないかなと思いながら、ムーギョからの帰り、東山を遠くに見つめる。京都が日本のハリウッドと呼ばれた頃、太秦でたくさんの映画が撮られたが、京都盆地でロケした場面は、市内に住む者ならすぐにわかる。

特に山の形でだが、普段周囲の山をよく見ているにもかかわらず、稜線を心の中に深く刻んでいないため、どこあたりから撮影した場面かまではわからない。それが癪で、何とかして稜線の形を記憶しようと思うが、10分も歩けばすっかりそれが変化してしまうので、記憶は容易ではない。むしろ不可能だろう。それほど京都盆地を取り囲む山は近い、すなわち盆地の面積が狭い。また、稜線は確かに遠目には変化しないが、近くで見ると、樹木が枯れたりするので、微妙に変わって行く。こうなれば変化しないものはないことになるが、それはあたりまえだ。ただ遅いか早いかだけだ。その早いのは人間だ。つい最近まで若いと思っていたのに、もう老いぼれ、そして死んでしまう。新しい命が生まれているからそれも当然のことだが、人はなかなかそれを認めようとしない。認めたくないのだ。いつまでも若さと健康があると安心している。だが、人間全体で見るとそれは真実であるから、そう思うのはいくらかは正しい。前に書いたが、人は老いて行くが、それは老いというステージに自分が乗っているゴンドラが移動して行くことであって、自分自身の本質は変わらないのではないか。そのゴンドラは絶対に後戻りしない。そして、いつかはゴンドラは傾いて、その中から放り出される。そう考えると、人生は惨い遊園地のようなものだ。そのため、ゴンドラに乗っている間はせいぜい楽しむべきなのだ。鬱なんかになっている暇はない。さて、今日は大阪で見た展覧会について書く予定が、またいつものように日づけが変わってしまった。明日は早朝に来客があり、また午後からバスに乗って出かけ、用事がいくつかあるので、日づけが変わるまでの間に寝ようと思っていたのに、気づけばいつものごとく夜が更けている。この調子ではまた就寝は3時過ぎだ。この習慣がどうしても治らない。で、今日は予定を変更して、比較的短く済ませられる内容をと考えた。いつ見た展覧会か忘れたが、チラシを見ると11月13日までの開催であったので、それ以前の11月中であることは確かだ。府立総合資料館の展示室で、ここは昔からよく無料の展示会を開催する。筆者がその部屋に最初に入ったのは、京都に出て来て友禅師の弟子になった年のことで、伏見人形の展覧会をしていた。それから何度も足を運んだことがある。かなり老朽が目立つ施設で、先日その資料館の向かい側にある写真館の主から、資料館内部にはこれから建つ新館の模型があることを教えられた。2,3か月に1回は訪れる施設であるのにそれに気づかなかった。どのように建て変わるのか、またどのくらいの期間を工事に費やすのか、筆者はどちらかと言えば、現状のままの方がいい。30年以上も通い慣れた建物で、それなりに味わいがある。恐らく耐震上問題があるのだろうが、建て変えの間に蔵書を調べられないとすれば困る。ま、この点はどうなるのかわからない。府立図書館も新しく生まれ変わったことであり、次は資料館というように以前から決まっていたのだろう。
この資料館の企画展は、調べものに行った際に必ずやっているものではないし、やっていても必ず見るとは限らない。今回は写真展でしかも京都の新旧を対比させて見せるもので、それはこのブログの「駅前の変化」のカテゴリーに通ずることでもあって、調べものの前に見た。その感想をひとことで言えば、面白いのは古い写真で、現在の様子を撮ったカラー写真はどれも印象がうすかった。現在の姿は誰でもよく知っている。全く同じ場所を同じ位置から同じ角度で撮影するならまだしも、多くはそうなっていなかった。古い写真を比較出来るように、本当はそのようにして撮影したいのは山々であろうが、すっかり様子が変わって、古い写真の撮影場所、位置がわからない。それほどに京都は変化が大きい。名所旧跡はどこもたいして変わっていないと思いがちだが、そうではない。樹木の増減があり、また山の稜線も変わり、さらには、寺や橋などの建物も変わっている。道だけは同じと思っていると肩透かしを食らう。道ほど変わるものはない。まず拡幅があり、道の両側の店はすべて建て変わる。そのため、漠然と新京極だなとわかっても、それがどの地点かまではわからない。古い店は商店街の理事長にでも訊ねて、古い資料を調べればわかるだろうが、そこまでして昔と同じ場所に立って写真を撮ることまではしない。今日は会場の入り口にあったポスターの写真を掲げるが、そこに写る白黒写真は昭和初期の新京極とキャプションがある。ところが、目を凝らしてもそれが現在のどのあたりを撮ったものかわからない。この写真の横には現在の新京極のカラー写真が展示してあった。それは四条通りを上がってすぐのところ、すなわちリプトンの前から撮ったもので、どう見ても同じ場所とは思えない。その後も筆者は何か手がかりがないかと考え続けているが、決め手がない。写真には非常に多くの情報があるのに、これは全く不思議なことではないか。歩く人々の服装はこの場合、何の役にも立たないが、「空気銃」「鈴虫香油」「瞼の母」「キネマクラブ」「小澤商会」「福助足袋」「写真」「艶歌 流し」などといった文字、また通りに直角に横切る道が2本見え、手前は錦通りと思うが、となればリプトンの前ではなく、もっと北であるはずだ。あるいは、北を向いて撮ったのではなく、三条に近い場所から南を向いたかもしれない。北向きとすれば、人の影からして朝だが、写真の光はやはりそうだろう。となれば北向きだ。そこで現在のだいたいの場所を思い浮かべて改めてこの写真を見ると、どの店もなくなって、京都らしい老舗と化していないことがわかる。それは人にも言える。この写真に写る人はみな死んだはずだ。後ろ姿で写る人は自分が撮影されたことも知らない。同じように後ろ姿が大きく写るが、先日区役所に行った時にもらって来た『きょうとシティグラフ 京都』の特集として、やはり昔の京都の写真が10枚ほど掲載されていて、そのうち新京極を三条から南に向かって撮った写真があった。それを2番目に載せる。服装からして30年ほど前だろうか。あるいは1970年代か。

先日母のアルバムをまとめて見る機会があった。母も20年や30年は見ていなかったものだ。その頃以降、母は写真をほとんど撮らなくなった。老いた姿をアルバムに残しても仕方がないと言う。筆者もたくさんの自分のアルバムを持っているが、筆者が死んだ後、それは処分に困るものだ。ゴミとなるだけで、またゴミとするにも手間がかかる。それでも人間は写真を撮り、アルバムを大切にする。3月の大震災でも多くの人がアルバムを失い、瓦礫の中からそれを真っ先に見つけた。それはお金では買えない、自分の生きて来た唯一の証しとなるからだ。死ぬまでは誰しもその証しをほしいと思い続ける。自分が死んだ後は、意識がないのであるから、アルバムが全部ゴミに出されても痛くも痒くもない。また、人間全部がアルバムを持ち、いつまでも写真を残したいとなれば、地球はアルバムだらけで生活の空間がなくなる。そのため、せいぜい自分の代限りの命でいいのだ。従姉と先日そんな話をすると、自分の写真は1枚だけ残して子どもに持ってもらい、死んだ後は他は全部燃やしてほしいそうだ。そうでないと、子どももたくさんの写真を持っているから、置き場所に困る。子孫のある場合はそれでいいが、ない場合、写真は本当に残りようがない。有名人以外は、顔や姿が、あるいは考えがどうであったかなど、誰も関心を抱かない。そう割り切って、写真など一切撮らず、また文章を書いたりもしない人は変人に思われるだろうが、案外そういう人の方がまともで、あれこれと残そうとする人の態度は見苦しいとも言える。となれば筆者はその代表で、こういう駄文を深夜にこつこつと書き続けるのは、全く労力の無駄だ。だが、その点は心配していない。筆者が死ねばいつかは自動的にこのブログは消滅する。また、それまでにexciteが倒産するかもしれない。一方では紙とは違って、こうした電子媒体は場所をほとんど必要としないので、半永久的に大量に残すことが出来るという意見があるが、先に書いたように、大半以上がどうでもいい庶民がどうでもいいことを連ねた内容で、後世の人がそんなものに関心を抱くほど、人間の寿命は延びてもいないし、また他人のことに興味のある人が増えてもいない。と、これは今までに何度も書いて来たことで、この展覧会に話を戻すと、京都は日本を代表する観光地であるから、写真が発明されてからたくさん撮影されて来た。それを変貌の激しい昨今、改めて見るというのは、郷愁を誘うに充分で、特に市内に住む人はたいてい興味を抱く。そして、両親やその親が昔撮った写真を引っ張り出し、それを他人にも見せたいと思う。今回展示された古い写真はそのようにして個人から提供されたものだ。大部分はゴミとなったが、ごくわずかにそれを免れたものがあり、それが京都の昔を知る遺産となっている。今でも京都は個人からそうした写真の提供があることを期待しており、ある程度まとまれば、また何かの区切りの年度にもなれば、写真集として出版する。そういう機会は近年あった。また、ネットでも個人的にそういう古い写真を載せている人があり、京都市内の昭和初期の光景を多くの写真で紹介するホームページを以前2,3見つけて「お気に入り」に入れて楽しんだ。そういう写真は、本にするには自宅周辺の事細か過ぎる情報で、それだけにかえって面白い。今即座に筆者が見たそうしたホームページをここで紹介することは出来ないが、筆者が知らなかった昔をはっきりと写真で伝えてくれるので、同じ場所に行った時は、そこを見る目が変わった。
そこでいつも思うのは、江戸時代の様子だ。それは写真とはもっと違っていたはずで、もちろんビルはなく、電線もなく、整然と瓦屋根の家が建ち並ぶ光景を想像してみる。たとえば、北野天満宮だが、その参道はかなり長く、今は両側に店が並んでいるところはみな建物がなかった。現地に行くとそういう状態を思い浮かべることは難しいが、想像してみることは出来る。そして、その想像の中の北野天満宮界隈は、何とも静かで、まるで夢に出て来るような気配だ。今もその界隈は静かで、土地が持つ空気は、家がすっかり建て混んでも変わらないのではないか。さて、展示された写真は市内だけではなく、府下全域で、筆者が行ったことのない場所も多かった。先に書いた母のアルバムを見ると、とにかく日本中よく旅行をし、筆者が行ったのはその4分の1にも及ばないが、面白いのは、高速道路がまだ完備していない頃のそうした観光地の様子だ。今はないホテルが写っていたりするので、どこそこの温泉とわかっても、今そこへ行ってもどこで撮影したかはわからない。それに母もほとんどそうした旅を覚えておらず、母にとっては写真の意味がほとんど失われている。確かに一緒に行った人々を母はよく覚えているが、ある写真を示しながら、母以外は全員亡くなったと言う。そして、いずれそうした写真は、誰も知る者がいなくなり、誰かが見ても何の感動もない。読み取るものがあるとすれば、時代性で、それは服装やヘア・スタイル、あるいは背後に写る建物の様式だ。その意味では、何らかの価値は永遠に持つが、そのようなものは大勢の人が見る映画が記録している。とはいえ、個人は今後も写真を撮り続け、後世の人がひょんなことでその価値を見出して本に載せるだろう。そこから言えることは、好きなことをすればよく、後のことは後の人に任せる思いだ。何事も、残そうとしても残るものではない。残るものは偶然が大きく支配する。また、自分が死後に意外なものが意外な形で人に知られるようになったところで、痛くも痒くもないのであるから、死んだ後のことを考えるならば、家族が困らないように、身辺の物を最小限に留めることだ。こんなことを書きながら、筆者は溢れる物に取り囲まれている。家内は最近よく言う。筆者がぽっくり死ねば、筆者の持ち物をどう整理すればいいかわからないので、今のうちに少しずつ処分してほしいそうだ。ぽっくり死ぬかどうかは誰にもわからない。子ども頃によく耳にしたが、身辺を整理し始めると死が近いそうだ。人は自分の死期を本能でわかるのかもしれない。先に書いたように、写真がまだ比較的珍しかった時代の写真はとても面白いが、デジカメ時代になって、さっぱり写真の価値がなくなったのではないか。その意味で言えば、こうしたブログに載せる写真は、他にも大量に存在し、後世の人は誰も関心を抱かない。したがって、後世のことを考えて残そうとせず、せいぜいこの2,3日だけ、人にちらりと見てもらえれば用が済む。写真も人も軽い軽いものになって行く。であるから、街には毎週新たに店がオープンし、そこを影のように人が通り過ぎて行く。人間を含めて、全存在は移ろう影だ。であるから、思いが最も大切で、その思いがあるから、人は写真を撮り、文を書く。