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●『郷土作家展 赤羽恒男 白髪一雄』
土作家展と銘打ってふたりを取り上げた展覧会が尼崎で開催された。11月27日の日曜日、『津高和一 架空通信展』を見る前に、まず尼崎に出てこの展覧会を見た。



●『郷土作家展 赤羽恒男 白髪一雄』_d0053294_1505369.jpg会場は尼崎市総合文化センターの美術ホールで、いつも3,4階が使われる。このホールに展覧会を最初に見に行ったのは1980年代の最初だ。その頃とほとんど内部は変わっていないが、先日この展覧会にひとりで行った際、1階が模様変えされ、すっきりとしていた。以前は雑然としたレストランであった。あまり儲からなかったのだろうか、それがすっかり撤去され、職員の仕事場になっていた。前回行った時、近くの川にユリカモメが200羽ほどいて、欄干に勢揃いしているところを撮影した。去年の11月か12月だ。その時も白髪一雄展であった。ただし、3,4階とも白髪の作品が並んだ。今回は白髪は3階、赤羽が4階であった。まずエレベーターで4階に上がり、そして階段で下りて3階の展示を見ることになる。去年も白髪の作品が並んだのに今年もということは、それだけ白髪が人気があるからだ。あまりに有名で、尼崎には他の画家がいないかのようだ。そのため、郷土の画家となると、白髪に比肩する才能を見つけるのは難しいだろう。今回は会場の半分を、郷土の画家でも回顧展が開催されたことのない赤羽を取り上げた。チラシでこの作家を初めて知った。郷土の画家とはそういうものだ。白髪も郷土画家だが、全国、いや世界的に有名と言ってもよい。このふたり、ともに1924年生まれで、死んだのは白髪が2年早い2008年だ。ということは、赤羽もそうとう長い間描き続けて来た。神戸市生まれで、戦後大阪市立美術研究所で洋画を学び、二科展に出品した。1959年に特選、66年の42歳で会員に推挙というから、画家としては順調な出世と言うべきだろう。その後受賞を重ね、96年からは理事となって二科会の洋画部門の中心的存在になったというが、筆者は二科などの公募展を全く見ないので、赤羽の作品に出会うことはなかった。会に所属し、毎年出品し、また受賞を重ねると、70代には中心的存在と呼ばれるようになることがわかる。それはマラソンのような持久走で、途中で脱会などしてしまうと、もう回顧展を開催してもらえることにはならない。それほどに会の力は大きい。市役所の職員は絵画のことは何もわからないから、こうした市民の税金を使っての展覧会となると、有名な会の理事クラスの人を選ぶしか術がない。そうしている限り、誰も文句は言わない。在野でいくら有名であっても、そういう画家は金儲けと売名行為がうまいだけで、回顧展を開こうとしようものなら、会に所属する多くの画家から苦情が出る。会が続いて行くためには、必ず理事が必要で、それはある程度年功序列もあって、簡単に言えば赤羽クラスの画家は今後絶えることなく現われる。それはそれでひとつの伝統、財産であるから文句を言う筋合いはないが、毎年有名大卒が必ず何万人と世に送り出されるのと同じく、有名な会の理事をしていた人の作品は、ただそれだけが売りというところを感じないでもない。
 そのように書けば、最初から色眼鏡で赤羽の作品を見ていることになる。そうならないように、まず作品を見ようという思いで出かけた。予想どおり、会場は数人の客だ。また、結論から書けば、白髪の作品の迫力に比べると、赤羽はどこに魅力があるのかわからなかった。ひとつ不思議に思ったのは、白髪のような独特の暗さがないことだ。あまりにあっけらかんとした明るさとでも言う画面で、奥行きがない。それは構図的にも絵の内容としてもだ。それが魅力と言えばそうなのだろう。しかし、白髪と同じ年齢であったのにこの差はなぜかと思う。赤羽の比較的若い頃の写真があった。優しそうな顔で、その雰囲気のままの作品であった。人は名前に影響されるところがあると思うが、赤羽は赤という色にこだわりがあったようで、派手な赤がやけに目についた。それは、空であれば夕焼けの表現かと言えばそうは見えなかった。赤羽は抽象画家としてスタートし、後年は写実を取り入れたが、どれも展覧会用の作品のせいか、100、200号級ばかりで、その分迫力はあっても、白髪と同じように、まずははがき大程度の鉛筆描きの小下絵で充分構図を練り、それを拡大しているようで、全体にかなり大味を感じた。小品に描いて充分なところを、大画面にしているため、虚勢を張ると言えば辛口過ぎるが、作品の前で長らくたたずもうという気がしなかった。また、後年になるほど、これはどの画家でもそうだが、完全に様式が出来上がって、どの絵も同じに見える。つまり、退屈なのだ。これは特に理事になって以降のものがそうだと言ってよい。地位に安定してしまうと冒険する気が起こらない、あるいはもうその気力がないので、完成と言えば聞こえがいいが、硬直化した作品ばかり描くことになる。一方、白髪は今回初期作が中心に選ばれた。それは去年も感じたように、どれもしっかりした写生の仕事で、逞しさを発散している。赤羽にはそういう初期の写生がなく、最初から抽象画家としてスタートしたのかもしれないが、後年になるほど写生を取り込むのはどういう理由からか。その写生的抽象の作品は、現地での写生はそこそこに、撮って来た写真を元にしたように見えた。と言っても、写真のような緻密な写実では全くない。どこか絵はがきを見ているような思いがした。どの風景を描いても同じ味わいで、特定の場所は赤羽には必要なかったのではないか。ヨーロッパではトレドやアテネなどを描いていた。丘が好きなのかもしれない。
●『郷土作家展 赤羽恒男 白髪一雄』_d0053294_1511348.jpg
 赤羽は戦争中パプアニューギニアに従軍した。その時の記憶を辿るように、同地へも取材旅行に出かけた。一方では日本の各地も訪れ、たとえば奈良の明日香、鹿児島の桜島といった有名どころを描いている。これも絵はがき的と言ってよい。ただし、パプアニューギニアに取材した作品は、もともと絵はがきにはならないジャングルや湿地帯であるから、かえってそういう何でもないような無名的な場所を描いた作の方が面白い。題名は「ソロモン」だったか、パプアニューギニアに取材した作に、全く同じ構図、同じ配色であるのに、片方は100号、もう片方は200号といった、倍ほども違う2点が隣り合わせに展示されていた。それがとても面白かった。先に書いたように、おそらく厳密に構図と配色を決めた小下絵があり、それを元に最初に小さい方を描き、評判がよかったか、あるいはもっと大きくした方がイメージどおりというので大きく描き直したのであろう。全く同じと書いたが、ごくわずかに差があって、その差の部分が納得行かなかったので、描き直したのかもしれない。どっちにしろ、赤羽の絵が厳密に計算されていることを示し、あまりにさっさと作品の前を通り過ぎてしまうことは失礼であろう。そのパプアニューギニアに取材した「ソロモン」は、制作は1984年だが、昭和のモダンさを感じさせる色面構成だ。また大きな区画内を1色でべったりと塗らず、筆跡を見せていわば点描を駆使している。それは実作品の前に立つと、わざとらしい手間のかけ方に見えたが、チラシの縦横4センチ程度の小図版では、樹木や草が繁茂する土地といった感じがして必要な処理であったことがわかる。だが、このことは赤羽の作品は縦横4センチで見てよく、200号の大きさは必要ないという意味にもなりかねない。あるいは、赤羽が二科展に大作を出品することに慣れた一方、実生活ではそのような大きな作品を飾る壁面がなかったことに理由がありはしまいか。簡単に言えば、小市民として生活しているのに、会場主義の悪い面に影響され過ぎた。絵画の大きさは、画家にとってはそうでなければならない考えから決まるもののはずだが、100号と200号で同じ絵があるとすれば、どっちが本当に描きたい大きさかと疑問が生ずる。つまり、赤羽にとっては作品の大きさはどうでもよかったものではないか。二科という暗黙の制約に影響され、無理して200号の大画面に描いていたようにも思える。本当はもっと小さな画面に赤羽のよさが出たかもしれない。そういう作品は売り絵として盛んに描いたと想像するが、そうした作もまた200号と全く同構図同色彩であったりするかもしれない。とすれば200号が大味で、虚勢を張って見えても仕方のないところだ。
 回顧展であるので、初期から最晩年まで作品が並んだ。新鮮なのはやはり初期だ。それは白髪も同じで、今回は「具体」に参加する以前の作品に焦点を当てた。初期は写実が多く、そこに独特の暗い抽象画が入り込んで来る。そうなった途端に一気に抽象化が進み、ついには足で描くようになる。その転身は見事で、写実の垢をすっかり吹き飛ばしたような清清しさがある。そういう白髪の、悟りにも似た作画とは違って、赤羽はかなり平凡な歩みに見える。ただし、それが悪いと言うのではない。白髪があまりに過激過ぎて、その前では赤羽は霞むだけで、本当は赤羽のような歩みが画家としてしごくまともと言ってよい。それは先に書いたように、赤羽の顔とよく釣り合っていて、そのエキセントリックではあまりないところが魅力と言えるだろう。それでもあれこれと試していた初期の抽象画はどれもセンスがよく、また軽やかに描いた雰囲気があって白髪とは互角を張り合っている。ただし、先に書いたように赤羽の方が描く楽しみをより知っているかのようで画面は明るい。パプアニューギニアでどのような体験をしたのか知らないが、悲惨であったはずだ。そうであればそれを乗り越えるために描くことが必要であったのではないか。そして、戦争の悲惨さを作品に反映させなかったのは、それは立派な態度に思える。ただし、これは戦争の悲惨を生涯見つめ続けた画家がつまらないと言っているのではない。赤羽の、あまり中身がないような絵はがきじみた後年の作品も、それは平和になった日本をそのまま示していると考えることが出来るし、そういうように描きたいものを描きたいように描いた赤羽は幸福であったろう。よくも悪くも戦後の日本を体現した画家で、またその明るい画面は尼崎という土地柄であったからと思うと親近感が湧く。今回は70点の出品であったが小品を見せてほしい。そういう機会が今後あるかもしれない。あるいは来年は郷土の画家の第2弾として別の人物が取り上げられるか。そう言えば同じ時期、兵庫県立美術館では、尼崎の芸術家の榎忠の作品展をしていたが、数年前に大阪で見てこのブログに感想を書いたこともあったので、つい見そびれた。それはさておき、郷土の画家としてこのように没後に回顧展が開催されるのは本望だろう。大作は主に尼崎市に所蔵され、尼崎市がある限りは顕彰される。尼崎は神戸よりも大阪に近いが、兵庫県であるので大阪都が出来ても市のままだ。
by uuuzen | 2011-12-14 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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