境内の大半が山の斜面になっている地元の法輪寺の本堂は、黒谷の金戒光明寺の御影堂に比べると、模型のように小さいので、よく開催される音楽の催しは本堂の内部では無理で、その前の野外ということになる。
それは松尾の方面に向かっているので、風の向きによっては松尾橋の近くでも演奏の音が聞こえる。よほど大きなスピーカーを使っているのかと言えば、さほどでもない。今は嵯峨嵐山では花灯路が開催されていて、法輪寺での演奏会は京福電車の後援であるようで、ポスターも作られている。今日は近くの喫茶らんざんの窓にそれを見つけ、自治会の配りものをするついでに立ち止まってしばし眺めた。昨夜歌っていた若い女性の顔写真と名前も載っていたが、日本にはTVには出ないこうした音楽家がそうそうたくさんいると見える。また、そうした人々をまとめた場合、大きな傾向が見られるのだろうが、筆者にはさっぱりわからない。ただし、TVやラジオで流れる流行歌とは違う曲をやる人が多くなっていることはわかる。だが、そうした人も、もしNHKの紅白から声がかかればそれに応ずるはずで、反流行歌という立場に固執しているのではないだろう。法輪寺で演奏する音楽家は、どういうつてで呼ばれるのか知らないが、観客にとっては無料のコンサートであり、また観客の数はせいぜい数十名、多くて100名といったところで、たまたま嵐山に来て催しを知った人、そして音楽家の知り合いといった人が大半だろう。これは街中の画廊で個展を開く画家と同じと思ってよく、そういう音楽家の数の多さは想像にあまりある。だが、画家とは違って音楽家は華やかだ。喫茶店の窓に貼ってあったポスターでは、どの音楽家もポーズを決めた見栄えのよい写真を使い、自信がみなぎっていた。画家は作品を見せればいいが、音楽家は自分の演奏する姿を見せるので、どうしても見栄えには気を使う。それが画家よりも芸能人に近い雰囲気を保たせる。その華やかさ、堂々とした態度は、音楽の評価がどうのこうのと言われるよりも前に、まず観客に印象づけられるから、個性の演出には日々苦労しているのではないだろうか。それはさておき、ここ数日とても寒いので、法輪寺にその演奏会を見に行く気分には全くなれず、部屋の中で山から届く音を聞くのみだが、寒さの中でも賢明に歌うのは、それが自分の一番の生甲斐の瞬間でもあるからだ。ま、ビートルズも「ゲット・バック」のセッションをビルの屋上で寒い季節に行なったことを思い出せば、勇気も一段と湧くだろう。
さて、一昨日に続いてヴィラ鴨川で開かれた催しの後半についての感想を書こう。さきほど3日に届いたメールを見た。すると、8時からはアンディ・オットーのフェロの演奏で、プラスrimaconaとなっている。そんなことをろくに確認せずに出かけた。rimaconaについては後に述べるとして、まずアンディの演奏だ。彼は細見の長身で、30前半といった年齢、頭の毛がうすくなり始めている。ヴィラ鴨川に住んで3か月、その間に感じたことを元に当夜は楽譜を用意せず、即興で演奏した。フェロというのは、チェロを改造した楽器で、表向きは全くのチェロと変わらない。それをコンピュータの力を借りて、多重演奏を繰り広げる。打楽器音も含めてひとりで数人分を同時に演奏する格好で、演奏する姿を見ていると、普通のチェロとは違ってかなり忙しく、複雑だ。そのため、計算しながら、即興に神経を没入させる必要があって、なかなか大変な作業であろう。だが、ジャズの即興でもそうだが、毎回全く違うというのではなく、いくつかのパターンというべきものがあって、それらが組み合わされ、演奏家の個性がどの即興演奏にも立ち現われるはずだ。「フェロ・セッション1211」と題した意味はわからない。また、録音されたのかどうか。録音されていないとしても、ある程度は似た演奏を以前に録音したか、今後するだろう。こうして書きながら思い出すのは、当夜の演奏が、ジャン・リュック・ポンティが1970年代半ばにツアーした際に、必ず演奏した電気ヴァイオリンのソロに似ていたことだ。メロディや音質がというのではない。ポンティのその即興演奏は宇宙空間を思わせるもので、毎回内容は違ったものの、どれも同じ色合いを帯びて、同じ曲とわかるものであった。それと似ていると言いたい。ポンティは電子の力を借りて複数の音を重ねた。それは専門用語でどう呼ぶのか知らないが、ある短いフレーズを奏で、それが瞬時に装置に記憶されて即座に繰り返し伴奏のように流れる。そうしておいて即興演奏を繰り広げるが、同じことはたとえば歯ハモンド・オルガンにも装置として用意されていた。アンディのフェロの演奏はまさにそれをもっと前面に出したもので、今は1970年代半ばとは違って、もっと簡便に、安価でそういう装置は入手出来るのだろう。通常のパソコンでもおそらく可能なはずで、アンディは傍らにノート・パソコンを置いてキーを操作しながらフェロを奏でていた。また、その自ら演奏した短いフレーズを伴奏としてリピート演奏させることとは別に、右手に持った弓を上下するなどして音に変化を出させる仕組みも用いていた。テルミンに似た発想だが、弓の握り部分に任天堂のWiiを改造した小さな装置を取りつけたそうで、そのアイデアはさすが若い世代を思わせるし、またいかにコンピュータがあらゆるところに入り込んでいるかを実感させる。あるいは、チェロ以上に全身で音楽を演奏しているのであって、運動量はスポーツ選手並みであろう。その意味では電子音楽につきまとう一種の機械的な不健康さとはほど遠い。
「フェロ・セッション1211」は京都の印象をまとめたもので、最初は鴨川の流れを思わせる、どこか日本的なイメージを感じさせた。ところが、本格的に即興に没入すると、そのイメージは吹っ飛び、フェロでどういうことが可能かという、実験あるいは見世物の場と化した。そして、音楽の世界に浸らせると言うよりも、こういう変わった音も出せるという、物珍しさが勝っていた。それは筆者が初めてフェロの音を聴いたからでもあるだろう。これまでどういう曲を演奏して来たか、それをCDで確認せねば、フェロの面白さは本当にはわからないはずだ。だが、チェロをフェロと名づけたことは、まさに「チェロもどき」といったところで、以上の筆者の説明から、音楽に詳しい人はかなりその演奏が想像出来ると思う。アンディとよく似た、あるいはもっと過激な、変わった楽器改造を行なっている音楽家はいるし、そういう例と比較すると、フェロの可能性は結局チェロの音色にほとんど同じところからは大きくはみ出すことはなく、アンディの作曲、そして即興演奏の能力の方に多くを期待するしかないと思える。また、演奏を聴きながら思ったことは、ひとりで演奏したとは思えない豊富に重なった音だが、それはコンピュータの助けを借りて誰でも真似の出来ることであり、またその多重の音というものは、多くの人数を揃えて一斉にやれば済むことを、ひとりで安価で済ますという考えに基づいていて、そこがチープさや滑稽さにつながって、結局チェロの独奏の方が、余分なものを削ぎ落として味わい深いのではないかといった考えが頭をもたげた。これは、アンディの演奏が1970年代のジャン・リュック・ポンティの演奏からさほど大きな進化と呼ぶべきものが見られないからだが、奇妙な音のリピートが混じり、また背後のスクリーンに演奏と同調した映像を流すという、視覚的な試みに工夫が見られる点は、やはりパソコンの進化を感じさせ、初めて見る分には新鮮な驚きがいくつかあった。背景の映像は、大部分は音の強さと音質にシンクロした横縞模様で、時々チャッパ(掌サイズのシンバル)の音が鳴り、その時はそれを鳴らす人の手元の映像が瞬間的に映った。そうした実写映像は当夜はそれのみであったが、ほかにも用意しているのだろう。そういうフェロとは関係のない打楽器音を演奏の合間に挟むことなど、やはりパソコンがあれば簡単だろう。同じことはザッパが1980年代後半のライヴでもよくやっていた。クラシック音楽のチェロ奏者は、バッハなどが名曲を書いているので、そうした曲をまずマスターし、次にはヨーヨー・マのようにポピュラーな曲も手がけて人気者になるという方法がある。だが、アンディのように電子音楽への関心が強い場合、豊富な音色をひとりで操ることに向かう。そして、そういう電子の力を借りた珍しい音の世界を好む人なら、アンディの演奏を大いに好むだろう。筆者はどちらかと言えばそうで、ホールの片隅にはCDが数種置かれていて、それが気になりつつも、演奏が終わった10時にはそそくさと会場を後にしてしまった。調べてはいないが、アマゾンで入手出来るかもしれない。
アンディの演奏は40分ほどであったと思う。休憩を少し挟み、ステージが次の演奏のために整備された。ゲスト・ミュージシャンのrimaconaの番で、アンディと一緒に演奏するのではなく、原摩利彦と柳本奈津子という若いふたりの男女が演奏した。検索すると、「はらまとしひこ」ではなくて「はらまりひこ」という読みだ。1983年生まれとあるから、今28歳だ。女性はもう少し若いだろうか。原が向かって左に陣取って電気ピアノ、柳本は右手に立ってヴォーカルを担当した。原はヴィラ鴨川がオープンし、ドイツの大統領がやって来た時の演奏会でも演奏したというから、館長のお気に入りなのだろう。ソロで活動しながら、いくつかのユニットでも演奏するようで、柳本と組む時はrimaconaと呼ぶようだ。電子音楽を期待したが、そうではなく、電気ピアノ伴奏によるポップスといったところだ。ポップスと言い切ってしまうといかにも軽いが、ジャズ・ヴォーカルでもないし、またクラシックのアリアといった発声でも全くない。こういう傾向の音楽は筆者はさっぱり聴かないので、どう表現していいのかわからないが、そのルーツは70年代半ばほどにあるのではないだろうか。歌声を聴きながら、矢野顕子を思い出した。矢野のように個性的な歌い方ではないが、矢野が開拓した曲の後塵を拝しているのは確実で、若者特有の詩とメロディの合体は私小説的な味わいと言えばいいだろう。筆者の5メートル斜め前に、一昨日書いたニーナ・フィッシャーが座り、盛んに体を揺すりながら聴いていたのが印象的で、rimaconaの演奏は外国人には典型的な日本を感じさせ、そのエキゾティシズムがいいのだろう。そう考えると、日本でたとえばビョークを歓迎するのも同じ理由かもしれない。rimaconaは7、8曲演奏し、最後は東日本大震災後に書いた曲で、被災者や日本に勇気や活力を与えるような歌詞であった。だが、曲は声を大きく張り上げて感動を呼び起すソウル調ではなく、他の曲と同じく、淡々としていた。その大声を張り上げずに、身丈にあった主張をするというのが、今の日本の若者の特徴にも思える。それはアマチュアの精神に近いが、昔に比べて作曲する若者が増え、CDも簡単に制作出来る時代になって、TVやラジオに出ずとも、自分の好きなことを続けるという、いい意味でのアマチュア精神が熟して来たことを示している。いや、こう書けばrimaconaがアマチュアと言っているようになるが、そう意味ではなく、いやな意味でのプロ意識を見せず、好きなことをし続けるという姿勢がいい。演奏を聴きながらもうひとつ思ったのは、彼らが20年、30年経った時に、同じ曲を歌っているかということであった。それは、彼らの曲がいかにも今の若者向きに感じたからだが、年齢を重ねればその時はその時でまた違ったことをやっているのもよしで、先のことを考えて今行動しているのではないだろう。今は各地でライヴをするのに意欲的なようで、そういう活動を続けて行く中で、また先のことが見えても来る。だが、最初に書いたように、画家とは違ってファッショナブルなところが求められる音楽家、特に人前に立つライヴ・ミュージシャンは、毎年若い人が出て来る。そう思うと、はかない存在を連想するが、そういうはかなさも含めてrimaconaの魅力になっているのかもしれない。ともかく、筆者にはほとんど無縁の音楽で、現在の日本の音楽状況の一端を垣間見ることが出来たのはいい経験であった。