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●『アンリ・サラ』
傷しているのか、仕事はないのか、気が触れているのか、などなど、映像を見ながらあれこれ考えさせられ、しかも印象が強烈であった。4日の日曜日に家内と大阪に出て展覧会をふたつ見た。



どちらも鳥博士さんに最近送ってもらった招待券だ。12月は何もなくても忙しいので、行く時間があると思った時にさっさと出かけておいた方がよい。最近は気になりながらも、結局行かずじまいになる展覧会が多い。それはさておき、見た展覧会はかなり溜まっているが、どれから書こうと思いながら、今日はもう深夜12時半を回ったので、簡単に書けるものと思ってこれを取り上げる。大阪の国立国際美術館で見た。地下3階の特別展は別の日に譲り、今夜は地下2階の一部が使われたの『アンリ・サラ』展について書く。よくこのブログに書くが、最近の展覧会は必ずと言ってよいほど、映像を見せるコーナーがある。商業的な映画の時代に代わって、芸術家が映像作品を作って美術館で上映する時代がいつの間にか到来した。デジタルのビデオ・カメラが著しく小型化され、誰でも気軽に作品と呼べるものが作られるようになった。そのいい例がYOUTUBEであることは言うまでもないし、また街角その他、あらゆる場所に監視カメラも設置され、すっかり「動きを見る」という時代になった。映像が特別のものではなくなった時、より衝撃的なものをということになるが、それも一度見ればすぐに飽きるので、衝撃の程度を追い求めても底が知れている。ではどのようにすれば大勢の人々の印象に強く訴える映像作品を作ることが出来るか。ま、そういうことを日夜考えているのが映像作家だ。筆者はそういう思いはないが、自分だけがよく知っている映像はいくつもある。それは夢だ。ここ数日もいくつもそういう夢を見た。それが今までに見たことのないもので、それだけにこうして書きながら思い出して気持ちが悪い。衝撃的な映像の夢ではないが、やけに生々しく、そしていやな感じの夢で、それが目覚めている間に何度も思い起される記憶に変わってしまったところが気味が悪い。その記憶を消そうとしても無理で、夢は現実と同じと思わざるを得ない。夢を現実と違って他愛ないものと笑い飛ばすことは出来るが、その記憶が現実での体験の記憶と同じように頭に刻まれることが、何だか理不尽ではないか。このように書きながら一方で思い出しているのが、アンリ・サラの映像作品だ。それは美術館の中の大きな部屋で壁いっぱいの大画面で見た数分間の二作品で、大勢の人と一緒に見たし、また美術館であるから、いつもの展覧会と同じく、芸術作品を鑑賞しているという建前、つまり何の不安も心配もない状態で楽しみを期待して見た。だが、絵画とは全く違う、それでいて商業映画やドキュメンタリー映像とも違うものを見たという思いを強くする。
 そして、そのあちこちの映像を思い出すが、見る人によって自由に考えてよい作品だけに、意味を探ろうという気持ちは湧かず、暴力的に、あるいは事故のように、映像を強引に見せられたという気がただただする。そして、それが強烈であるのは、大きな音がどちらの作品にも付随していたことによる。いや、こう書けば映像が主体で音はおまけのように思われるが、そうではない。どちらも同じ比重を持っている。また、いわば強引に、否応なしに記憶に擦り込まれる点で、夢にそっくりだ。どちらの作品も、作者の思想があって撮られたものだが、そういうことが何もわからずに見ても、言葉がふさわしくないが、面白い。その面白さは意外であったからだが、その意外性は他に似た作品が思い浮かばない。だが、睡眠中の夢にどこか似ていて、それはどの鑑賞者も感じるのではないだろうか。筆者のすぐ近くで老齢の夫婦が見ていて、区切りまで見終えて退場する際に、「ようわからんなあ」と呟いた。それはおそらく全員の感想だ。だが、わかるわからないではなく、感じるか感じないかだ。理解より先にまず感じることが大事だ。理解すればそれでその対象は古びる。だが、感じたものはなかなか忘れない。そして、人は年々感じることが減り、理解の方に重点を置く。これは大きな間違いで、理解などなくてもいいのだ。理解は芸術にはもっともふさわしくない言葉だ。いや、芸術だけではなく、数学でもそうだろう。何かぴんと感じることがあって、そこから難解な問題を解く糸口が生まれる。だが、「ようわからん」と正直に呟いた人は、それはそれで正しい。「わからん」と感じたのであって、それはまさに夢と同じようなものという意味を言っている。よくわからないことを感じて、そのわからない映像が後で断片的に思い出されるだろうが、そのまま忘れてしまうかもしれないし、それが何かの映像や音と結びついて、また何かを考え始めることになるかもしれない。このように書けば、アンリが苦労して作った映像は、ほとんどの人に何の役にも立たないということになりそうだが、そうとも言えるし、そうでないとも言ってよい。芸術が何かの役に立つと主張する立場もあれば、そうでない立場もある。筆者はとにかくどんな絵画を見るよりも強い印象を受けたから、それだけでもアンリの才能、作品は素晴らしいと思わないわけには行かない。だが、これは映像作品を見慣れていないからかもしれない。今後もっと多くのこうした展覧会用の映像作品を見て行くと、さらに面白いものに出会う可能性はある。それはひとまずどうでもいいが、とにかく今までに見たことのないものを見たという感想だけはまず書いておく。
 さて、長方形の大きな部屋の、長辺の突き当たり両端の壁一面に映像が映写されたが、ふたつの作品はそれぞれ上映の壁を固定して、同時にではなく、ひとつが終われば交代にもうひとつというように、交互に上映された。そのため、部屋の中央で立って見るとよい。画面のすぐ前で見ると、次の作品は背後の壁面ですぐに始まるから、慌てて後ろに向き直り、しかも20メートルや30メートルは歩いてもう一方の画面の前に行かねばならない。この作品の切り替わりは本当にすぐで、別の音楽と巨大な映像が後方で突如始まることに驚く。また、この上映部屋の壁の外側には、4個のスネアドラムと、その上に固定されたスティックが2本並べて置いてある。そのスティックは、映像の音の振動に合わせて動くように設置されていて、誰もいないのに、ドラムはそのスティックの動きでそれぞれ別の音を静かに立てる。つまり、映像の音楽はそれほどに音が大きいのだが、なぜドラムをそのように4個並べてあるかは、映像にもドラムを叩く場面があるからだ。映像だけでもいいところを、アンリはこの美術館にやって来て、インスタレーションのようにドラムを等間隔にそのように設置することに決めたのだろう。もちろん他の美術館でも同じように、この作品に関してはスネアドラムつきの映像という形を取っているに違いないが。壁の外側、すなわち出入り口でこのドラムの無人の動きをしばらく見た後、壁の向こう側の部屋に入って途中から映像を見ることになる。だが、途中でもかまわない。映像は数分で終わるし、次にまた同じところまで見て外に出ればいい。そのように途中から見てもいいような内容をしていて、ストーリーと呼べるものはほとんどない。だが、プロの俳優を使っているのか、表情作りは真に迫ってうまい。ふたつの映像作品は、2008年の「アンサー・ミー」と、2010年の「ザ・クラッシュ」で、前者にドラムが出て来る。その内容を簡単に書くと、若いきれいな女性が「アンサー・ミー」と何度か男に向かって言うが、男は背を向けたままひたすらドラムを叩く。そしてその顔の両眼がクローズアップされるが、血走っているように見える。何かに対して怒っているのだろう。アンリはアルバニアの生まれでベルリンに住んでいるが、社会主義国家の出自から表現していて、政治色や自伝的要素を込めているとのことだ。だが、そんなことを抜きにして見ても、何か強烈な主張が発散していることがただちに伝わる。男が女の問いに答えず、ドラムを叩き続けるという、ただそれだけの映像であるため、意味が宙吊りされたようで、鑑賞者はさまざまに理解しようとするし、またそれが面倒な人は、何かに圧倒された気分で部屋を出る。ただし、出入り口脇に作品の説明が少ししてあって、男と女の態度について作者の意図がもう少し解かれていた。それがチラシに書かれていないので、ここで正しく書くことは出来ないが、図録の作りようのないこうした映像作品は、その場で体験するしか術がなく、その意味で筆者がこうして書いていても無駄骨と言うべきであろう。
 そう思いながらももうひとつの作品について書く。「ザ・クラッシュ」は、イギリスの70年代から80年代にかけて活躍したパンク・バンドの名前で、そのヒット曲が映像と一緒に終始流れる。ただし、クラッシュのオリジナルではなく、手風琴とオルゴールだ。曲は「Should I Stay or Should I Go?」で、筆者はこの原曲を知らないが、手風琴とオルゴールのメロディでも充分に元の曲が思い浮かぶし、ロックらしく単調なメロディの繰り返しだ。この映像作品は確かボルドーで撮られたと思うが、ひとりのコートを着た、そして左手が不自由であるかのような30代とおぼしき男が白い箱に入ったオルゴールを持ちながら、通りを歩いて行く。道路の向こう側には老夫婦が散歩するなど、天気のいい昼下がりのさびれた郊外といった場所だ。その男とは別に、若い男女が乳母車のような台に乗せた手風琴を奏でながら別の場所を歩いている。双方は同じ音楽を別の音色で奏でているが、出会うことはないし、若い男女は高い場所から遠目に撮影され、オルゴールの男とは違って表情は見えない。作品はオルゴールの男が壁面にびっしりとカラフルに落書きされた野外音楽堂のようなところを横切って向こうに消えて行くところで終わる。男はさびしそうな表情で、左手を痛めて失業中といった雰囲気だが、この作品が政治的なことを何か言いたいのだとすれば、ヨーロッパの若者の失業率の高さかと思ってしまう。「Should I Stay or Should I Go?」の歌詞は知らないが、パンク曲を用いているところも、そういうメッセージ性があるはずで、先の「アンサー・ミー」もそうだが、若者の孤独といったものが伝わる。アンリは1974年生まれというから、クラッシュの音楽を子どもの頃によく聴いたのだろう。ドラマと呼べる筋立ては何もないにもかかわらず、いや、そうであるからこそ、両方の作品とも強く訴えるものがある。この2作品だけでは物足りないが、チラシによると、「長年、サウンドと空間の関係性を再構築することに強い興味を持ち続けている」とあって、大画面と大音量が可能な美術館でしか上映は無理で、DVDやパソコンで見ることが出来たとしても、あまり意味はないだろう。そこでまた思うのは、手軽に利用出来るビデオ・カメラがあれば、こういういわば全く衝撃的ではないにもかかわらず、きわめて衝撃的な映像作品が撮影出来ることだ。映像の時代と言われて久しいが、若い世代が確実に「面白い」ものを撮るようになっている。そして、アンリののように、出自がかえって辺境的である方が、意外なものを生みそうだ。アンリのふたつの作品を見ながら、ただ印象深かったではまるで小学生の感想文で、もっとましなことを書かねばならないのに、もう2時過ぎでもあり、ここらで終える。
by uuuzen | 2011-12-09 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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