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●『パリの恋人』
最初に、おそらくこのドラマに関してネットで誰も書いていないことをひとつ書いておく。第18話だったと思うが、定かではない。



主人公のギジュ社長の姉ギヘ(本当は母)が、自分に思いを長年寄せ続けていたチェ理事と喫茶店かで対面して、涙ながらに会社の乗っ取りを止めるように理事に懇願するシーンがある。そのシーンが始まった途端、背後に静かなギター音楽が流れ始める。それは1分ほどで別の音楽に切り変わるが、この柔らかいギター音楽は場面にしっくり合っていてなかなかよい。エリック・クラプトンの「RIVER OF TEARS」のイントロだ。先日このブログでその曲が入ったアルバムを採り上げたが、その時点ではこの韓国ドラマを観ていなかった。韓国ドラマが欧米のロックをそのまま使用することは珍しくないが、先のシーンでは曲が内容にぴたりと合っていて、より印象深い場面になった。そうしたごくわずかなシーンでも似合う音楽を探し当てて来る音楽担当者はなかなかのもので、当然とはいえ、韓国ドラマは音楽の使い方が大変うまい。チェ理事を演じた俳優は『火の鳥』でも同じような役で登場していて、そこでは悪事を働いた後に行方をくらますとんでもない人物を演じていたが、それとまた同じような役割をするのかと思っていると、これが全然違った。てっきりチェ理事が臨時役員会でギジュ社長の首をすげ替える方に投票するのかと思いきや、予想に反して、つまりギジュの姉への長年の思いを復讐ではなく、むしろ諦念として受入れてギジュに反乱を起こさないように動く。つまり、涙ながらの懇願を受け入れたわけだが、この部分の脚本は韓国ドラマには珍しいかなりの変化球だ。この理事のおかげでギジュは社長を続けることが出来て、しかも2年後に新作の車の発表会にまで漕ぎつけるから、今まで韓国ドラマを見慣れた者からすれば呆気に取られる気がしないでもない展開だ。。チェ理事はあまり出番も多くない役だが、このドラマでは会長より大きな存在であったことになり、そうした影の人物に長年の秘めた恋心があったとする脚本はなかなか洒落ている。実際このドラマは洒落たという言葉で形容するのがふさわしい洗練さがある。
 「パリの恋人」とはオードリー・ヘップバーンの古い映画の題名をそのまま引用しているが、それには理由がある。このドラマの重要なキーは「映画」であり、ヒロインのキム・ジョンウンが演ずるカン・テヨンという陽気な娘は、父親がかつて映画監督で、同居している叔父もまた同じ職業、そしてテヨン自身も映画をパリで勉強していずれ脚本を書くことを夢見ているという設定だ。それに、ドラマの中でテヨンは一時映画館でアルバイトをするが、「映画」をキー・ワードにしているあまり、最終回ではこのドラマ全体がテヨンとよく似た女性が書いた脚本の映像化であって、彼女はソウルで家政婦として働く合間にその脚本を書き上げたことにされている。最終回のこの突飛とも言えるエピソードは、それまでのドラマ全体の感激を削ぐものとして評判がかなり悪く、日本テレビが7000万円で放映権を買って放送した時には、最後の10数分はカットされて、オリジナル版にあったドラマの中のドラマという二重構造性は否定された。その方がドラマをドラマとしてストレートに楽しむにはいいと言えるが、このドラマのタイトルが元々往年の名画の名前を引用することで、映画という「虚構」の世界を重要な要素として使うことを最初から決めていたことを思うと、最終回でそれまでのドラマ全体がある女性の脚本内容であって、その女性がその脚本と全く同じような恋をまた現実に始めるという期待を描いてこのドラマを締めくくるのは、それはそれでなかなか考えられた内容であると思う。と、こう書いていて実は筆者が観たのは日本テレビのBS版で、しかも第8、9話が欠けた録画テープであったために韓国で放送された形を実際には観ておらず、さきほどネットで内容を調べて初めてわかった。韓国では2004年夏、つまりちょうど1年前に放送されたが、日本テレビではオリジナルの最終3話分を4話に引き延ばし、しかも韓国版の最終回の最後10数分は削ったから、オリジナルとは全然違うドラマになっていると言える。これは制作者側の許可を得てやっていることだとは思うが、ドラマの内容がどのようにでも決着がつく韓国ドラマの曖昧さを今さらに思う。これはこのドラマを観ながらも感じたことで、厳格な構成に欠ける気がした。どのように内容が転んで行ってもかまわないような軟弱性と言ってよいが、実はそうしたおとぎ話のような内容であるからこそ、最終回の最後でこのドラマ全体がある女性の手による夢物語という一種の言い訳が設定されたとも思える。あるいは、その取ってつけたような言い訳すらも融通無碍、行き当たりばったりでどうにでも内容が作り変えられる韓国ドラマ本来の特徴をただ示したものに過ぎないとも言える。韓国ドラマの日本での放送時に改変はもはや驚かないが、出来るならばオリジナルを観るに越したことはないし、オリジナルを知らなけば韓国と日本の比較も出来ない。結局はこのドラマは日本人向きに改作されたも同然だが、それはよけいなお世話であって、オリジナルがなぜそうなっているかをよく考えればそれなりの理由がきっとわかるはずだ。
 最終回の改作には賛否あるようだが、前述したように、最終回の最後10数分前になって急に、今までのドラマの内容全部がある女性が勝手に考えたシンデレラ・ストーリーでしたと言われれば、誰しも頭が混乱して、それはないと主張したくなるだろう。だが、第18話だったかそのひとつ前か忘れたが、テヨンはまたフランスに行ってそこで映画を勉強し、脚本を書きたいと言うシーンがあり、その時筆者は結末はひょっとすればこのドラマ全体がこのテヨンの書いた脚本そのものということになるのではないかと予想した。筆者の観たヴァージョンではそうはならず、2年後にテヨンの後を追うようにしてパリに出かけたキジュが結局テヨンに再会してふたりが結ばれることを暗示して終わる。この終わり方は観ていて実につまらなかった。そんなハッピー・エンドは誰しも予想出来るから、わざわざ描くこともない。そういう終わり方は数年前の韓国ドラマがやることだ。2004年と言えばもっと複雑な終わり方をすべきで、それが韓国版では前述のようにドラマの中のドラマという二重性が用意されていたわけだ。韓国ドラマではシンデレラ・ストリーは何度も描かれているので、このドラマを観始めた時も正直かなり食傷気味になった。これは最高視聴率が60パーセント近かった韓国でも同じではなかったろうか。そうなると、どのように最終話に向かってドラマをひねって行くか、そのひねり具合の妙を期待することに関心が向く。恋愛ドラマに会社の運営話を絡めるというのは、『パリでの出来事』や『ラストダンス』などと共通し、これも大体どのように落ち着くかはもう決まっているから、最終話に近づくにつれてどのドラマも予定調和的に物事が進み、大抵は観ていて面白くなくなって来る。筆者が観たヴァージョンのこのドラマの最終回は、まさにその予定したとおりでさっぱり面白くなかったが、今まで観て来た内容が全部テヨンのようにどこにでもいる女性が書いた脚本の映像化であったというからくりを最後に持ち出し、そういう女性が現実に同じようなシンデレラ・ストーリーを経験することもまたいくらでもあり得ると描くことでドラマを終えるオリジナル・ヴァージョンは、かなりルール違反的ではあっても、取りあえずは斬新な手法と言える。このドラマを観ていて、もういい加減同じようなシンデレラ・ストーリーは勘弁してほしいという気持ちになったが、作り手もそれをよく承知していて、それをある意味で言い訳するために、最終回の最後10数分で、今までの内容は作り話でしたと話を持って行ったのだと思う。ドラマという虚構を思い切りわかったうえで楽屋落ち的に話をまとめるほどに、韓国ドラマが完全に洗練の極みに達したことがこの作品で名実ともに示されたと筆者は見たい。
 キム・ジョンウンという女性はさほど美人でもないが、天性の明るさを持っていて、このドラマでは欠かせないキャラクターだ。誰も死なず、また物を頻繁に壊すシーンもなく、終始テヨンの明るい笑顔と仕草が映るのは観ていて気持ちがよかった。ドラマとはこうあるべきという見本のような作品だ。脚本の曖昧な部分がいくつもあって、それらは気にすればきりがないが、そうした欠点を打ち消すほどの圧倒さがテヨンやギジュの演技にあった。これはきっと誰しも思うことに違いないが、観る前に写真で予想していたキム・ジョンウンやパク・シニャンの姿が、思いのほか生き生きとしていて、またたく間に演技に引きずり込まれている自分を発見して心地よかった。ふたりとも個性が強く、このドラマを観た後では他の作品での登場をちょっと思い描けないほどだが、キム・ジョンウンが出演している他のドラマをもうネットで調べては観たいと筆者は思っているのであるから、よほどその存在に魅せられたと言えそうだ。テヨンというひとりの女性をふたりの男性が奪い合いをするという、これまたいつもの韓国ドラマの筋書きで、新鮮さと言えば、叔父と甥の間柄と思っていたのが、実際は父親が違う兄弟であるとわかることだけだが、この出生の秘密が明らかになるというのも韓国ドラマの常套手法で、今さら驚くには当たらない。もう使えるネタはすべて使い切ってしまっている韓国ドラマであって、後はバリやパリなどの外国にロケをする程度しか残っていないと言える。『冬のソナタ』ではユジンがフランスへ留学したという設定で、実際は留学シーンは撮影されなかったが、このドラマでは本当にパリのあちこちで撮影していて、お金のかけ方が違って来ていることを実感させるが、そうした効果がいや味にはならず、むしろ本当に洒落たセンスで撮影もされていることに驚く。全く侮れない韓国ドラマを改めて認識した。
 最後に、誰しも気づいていること書いておく。韓国ドラマでは携帯電話が最も活躍する重要な小道具として必ず登場する。『ラストダンス』を観ている時に気がついたが、登場人物が持つ携帯電話がよく大写しになり、特徴ある同じアニメーションの初期画面が映った。つまり、登場人物全員が同じ携帯を持っているのだ。これはきっとある携帯電話会社が宣伝になると思って提供しているためであろう。『ラストダンス』では動画も撮影出来る最新の携帯が用いられてもいたが、その場面を観る視聴者の反応を明らかに意識していると思わせる作り方であった。『火の鳥』で使用された携帯はまた別の会社のもので、それも何度も大写しになった。韓国では携帯を作っている会社がどの程度あるのか知らないが、おそらく日本以上の激しい競争なのであろう。『パリの恋人』で使われた携帯は海外でもそのまま通じるタイプのもので、しかも特徴あるその形は一目で『ラストダンス』や『火の鳥』で登場したものとは違うことがわかった。ドラマ制作会社が小道具の提供会社を募り、その見返りにドラマの中で大いに登場させて宣伝することが、どうやら韓国ドラマではごく普通に行なわれているのが想像出来る。その意味で、韓国ドラマは時代の最先端を著しく刻印していて、ものの10年を経て観れば、撮影された時代でしかあり得ないファッションというべきものをあらわにしていることを伝えるだろう。ドラマ本来の楽しみとは別に、そうした文化の変遷を色濃く反映する素材として、将来韓国ドラマが大いに役立つ時期が来るのではないかと思う。
by uuuzen | 2005-08-09 23:59 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
●『小林古径展』 >> << ●『アンデルセン生誕200年展』

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