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●『生誕100年 津高和一 「対話のための展覧会」 架空通信展』
け足で見た展覧会で、30分も館内にいなかった。先月27日に西宮市大谷記念美術館で見た。何がついでかわからないが、その日はひとりで神戸方面に出かけて展覧会をふたつこなし、別の用事も済ました。



●『生誕100年 津高和一 「対話のための展覧会」 架空通信展』_d0053294_23321895.jpg津高和一の名前は昔から知っているが、作品をまとめて見たことがなかった。それでいい機会だと思った。だが、生誕100年記念とはいえ、代表作を網羅したものではなく、晩年のテントを使った架空通信展の出品者の作品を1階に並べ、2階を津高の作品で埋めた構成で、津高の作品だけを深く味わうには物足りなかった。そのため、相変わらず筆者には津高は未知の画家で留まったようなところがある。それでも少しは知ることが出来たので、いい機会であった。もっと大規模な生誕100年展が開催されないものかと思うが、そこが津高の知名度を示しているのかもしれない。だが、知らないのは筆者だけで、熱心なファンは当然いるだろう。津高は明治44年(1911)に大阪に生まれた。ネットでは西宮に生まれたとあるが、今回の展覧会では大阪生まれと書いてあった。それにまず親近感が湧いた。幼少頃に西宮に移住したのだろう、そして10代半ばで詩人を志した。その原稿があったが、なかなか字がうまい。力がこもっている。それだけでも利発で並みの才能の持ち主でないことがわかる。詩を作る一方で絵を学び、やがて画家になるが、そのことは津高の抽象絵画に詩を感じ取らねばならないことを意味している。その詩情は、たとえばアメリカの抽象表現主義の画家とは違って、ほとんど白地に黒が主体で、しかも太い線をわずかに置き、またそうした線がキャンバスに滲んでいたりする。このどこか書を思わせるところは外国では歓迎されたであろう。津高が後に海外の美術展に菅井汲と同様、よく出品するのは、海外で評価が得られることに自信があったからであろう。だが、菅井が後にまるで印刷物のようにくっきりとした形態を描き、筆の跡を見せない方向に進んだのに対し、津高は書のような味わいに固執し続けたと思う。少なくとも今回の展示作からはそう見えた。今調べると、菅井は津高より8歳年下だ。その分、海外に移住して作風を次々に変化させることが出来たようにも思える。それはともかく、津高と菅井が世界に出たのは、神戸という土地柄もあるかもしれない。津高は西宮にずっと住んだが、阪神大震災で自宅が全壊し、夫婦ともども亡くなった。そのニュースは当時知ったが、何しろ作品をあまり知らず、実感はなかった。
 今回は地元西宮市の美術館が開催するもので、それなりに力が入っている。だが、津高の知名度は全国民的と言えるほどでもないだろう。筆者が行った日は20名ほどの入りで、それは予想出来たことだ。面白かったのは、津高は海外に作品を持って行く前に自宅で1日だけの個展を何度か開催し、その時の写真が2階の最後の展示室にたくさん並んだことだ。顔ぶれを見ると、関西の有名芸術家が総出演といったところで、榊莫山の若い頃のスーツ姿もあった。東京からは矢内原伊作が駆けつけるなど、人脈の広さがわかった。これは津高が人を集めるのが好きであったからだろう。それが晩年のテント内で多くの作家の作品を展示する架空通信展につながった。また、写真が展示された部屋の中央には、1日だけの個展を表現する津高の家の模型が展示された。写真とそれを見比べながら、驚いたのは豊かな経済力だ。広い中庭は全面芝生で、それを囲むように日本建築の家屋が建つが、外の通りから見ると、まるで江戸時代の武家屋敷で、西宮のどの辺りか知らないが、土地だけでも数億はするだろう。抽象画家がそのような家に住めることが驚きで、画家は有名になると一気に巨額が転がり込むというのは本当のようだ。1日だけの個展に集まった知人たちには樽詰めの生ビールをジョッキで飲み放題として振舞ったが、そういう社交を自宅の庭で出来る、またする画家は今は珍しいのではないか。筆者もそういうことに憧れるが、広い家と経済力がものを言うので、いかんともし難い。急いで見た展覧会であるので、うろ覚えだが、津高は家庭の複雑な事情を若い頃に抱えていたらしい。それは、経済的に不如意であったように読み取れた。何しろ明治生まれであるから、戦争体験もして、苦労は並みたいていではなかったはずで、そういう経験が根性を育んだのだろう。つまり、有名になり、金も儲け、好きなことをして生きるという目標があったと思う。それに関して、最後の小部屋で津高のインタヴュー映像が流れていた。1分も見ていないが、その間に津高が話したことは、「人間の一生は地球の歴史から見ればほんの一瞬ほどにも価せず、その間に何が出来るかを考えれば、賞をもらうとか、名が上がるとかいったことはどうでもいいことだ」といったものであった。それに似たことはもう何十、何百回も聞いて来たし、また自覚もして来たので、正直なところ、「それで?」という気になった。誰しもそうしたわかり切ったことを胸に抱えながら、日々の生活であれこれ悩み、たとえば賞を狙ったり、名を上げたいとも思う。詩人を目指した津高が、大きな屋敷に住んで制作出来たことは、どこかに本音と建前に使い分けがあったからではないかと、そのわずかなインタヴュー映像を見て思った。そして、その映像を見た後、すぐに館を後にした。
 2階だったか、展示室に津高が雑誌に出した広告が開かれていた。雑誌1ページの半分ほどのサイズで、1953,4年のものだったと思う。筆者が2,3歳の頃だ。その広告は、津高の絵の販売についてで、確か4号、8号、12号、16号の価格が出ていた。それを見て感心したのは、度胸と言うか、作品に堂々と価値をつける勇ましい態度だ。1号に換算すると15万円だったか、これでは津高の普通に描くタブロー1枚が数千万円になる。それが1950年代前半の話だ。当時大学の教授の1か月の給料が10万といったところで、津高が仮に無一文から画家を始めたとしても、大きな屋敷に住むことなどいとも簡単であったであろう。これは筆者の芸術家観があまりに貧困であるのかもしれないが、とにかくその価格の高さに認識を新たにした。それがたとえば若冲の著色画のように、描くのに大変な時間と労力を費やすというものであればわかるが、津高の作品はそれこそ一瞬の勝負といった書道的なもので、抽象画家は売れると大きい。画家になるならば、絶対に抽象で、手間暇のかかる写実は間違ってもしないに限る。とはいえ、絵画には流行があり、津高はちょうど戦後の抽象主義ブームに乗った。こう言えば何だが、津高の作品はどれも時代をよく感じさせ、モダンさゆえの古さを感じる。それは仕方のないことで、そのことが悪いというのではない。確かに時代を刻印していることは、その時代を精いっぱい生きたことであり、それが作品に滲み出ているのであれば、成功と言える。展示数がさほど多くなかったこともあり、時代による画風の変化をつぶさに知るというまでには至らなかった。そのため、最晩年にどういうことを目指し、どういう境地にあったかがわからないが、そう思えば生誕100年展を開催してもらっても、津高の言ったように、人間の一生はほんの一瞬で、その間に何をなすべきかといっても、ほとんど何も残せないことを思う。それに、模型が作られていた自宅が大地震で倒壊したというから、それこそ本当に何も残らない。
 さて、架空通信展とは、1981年から開催が始まり、86年の第4回展で終わった。西宮の川沿いの公園内にテントをたくさん連ね、その内部に作品を展示する催しで、今回は当時出品した画家、ないしは当時の作品を集めて1階に展示した。関西を拠点にする画家や彫刻家が勢揃いで、美術館ではなく、もっと身近な場所で誰もが美術に触れることが出来るようにという思いによったのだろう。関西の芸術を牽引した津高といったところで、津高が担った役割は後進にとってはかなり大きなものであったのかもしれない。個別に個展を通じて存在を知らしめるという方法もいいが、芸術家が束になって、毎年お祭り的な展示をするというのは、話題性の点からは効果的だ。作品を発表してこそ芸術家であって、その場がなくては、人目に触れず、意義は乏しい。また、芸術家自ら展示を積極的に行なわないのであれば、役所の人間が注目して手を貸してくれることはまずない。そういう役所を動かすのもまた芸術家の担当で、結局のところ、何から何まで芸術家自身が行動しなければ、人に知られることにならない。それは時に売名行為や過剰宣伝との謗りを受けかねないが、過剰気味でいい加減で、宣伝を恥と思ってはならない。そう言う筆者はほとんど宣伝をしないので、いったい何する人ぞと周囲から思われている。その意味で、今回の展覧会は、作品の鑑賞以外に、何か教えられたところが大きかったような気がする。だが、どのように生きても、津高が言っていたように、人生は一瞬にも満たず、その津高も世を去っている。そう思うと、こうして書いている筆者もすぐにこの世から消えるということで、こんなことをしている場合かと思わないでもないが、どうジタバタしても時は過ぎるし、何も残らないのであれば、何をしても無駄といった厭世的な気分にもなる。それにしても、津高が自宅で開いた1日だけの個展と同じことをして、有名な芸術家を集めたサロンのようなものを開いている作家が今はいるのだろうか。いないとすれば、それに代わる何があるのだろう。大物がいなくなったのか、あるいは芸術家がたくさん集まって懇親を深めるということ自体が時代遅れなのか。会にでも所属していると、そうした集まりは開きやすいが、筆者はそんな団体を脱退して長いので、同類が多く集まる場に出席することは今後もないだろう。
by uuuzen | 2011-12-08 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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