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●『イノセント・ラブ-純潔なあなた』
しみと愛を描く韓国ドラマ、先日、TV大阪で3か月間放送された『イノセント・ラブ-純潔なあなた』が終わった。韓国での視聴率は最高でも20パーセントに届かなかったが、けっこう面白く、最初の回を見逃しただけで、その後は最終回まで欠かさずに見た。



韓国では全119話であったが、TV大阪では朝の9時からおよそ50数分、2話ずつ放送し、半分の全60話に編集された。月曜日から金曜日まで週5回が原則で、こういう長いドラマはそのように連日見るのに限る。それでも3か月は長い。そしてその3か月は先の展開が楽しみで、それなりに毎朝が楽しかった。ドラマの効用はそういうところにある。生活に張りが出るとまでは言わないが、ドラマとわかっていながら、役者の懸命な演技を見ていると、自分も頑張らねばといった気分になる。そう考えると、TVドラマを続けて見る人は、日常生活に疲れていてはまず駄目だ。疲れていれば娯楽を楽しむ心の余裕もなくなる。かといってエネルギッシュに仕事をし、とてもTVを見ている暇はないという人にも向かない。それはともかく、どの韓国ドラマでも俳優は熱演していて、その活力には驚かされる。ドラマが終わった打ち上げパーティでは、俳優たちは役柄を超えて仲よく話し合うはずだし、そういう裏事情の映像もたまにおまけとして放送されることもあるし、DVDのセットを買えば、特典としてそういう場面が収録されている。視聴者はそうした俳優たちのドラマ以外の場所での行動をよく知りながら、一方で俳優が本当にそのドラマの中の実在する人物のように錯覚する。いや、そう言うのは正しくない。視聴者は俳優たちが演技をしていることを実感している。だが、演技のうまさに引き込まれて、それが現実かのように思ってしまう。その錯覚と自覚の双方が交互に、あるいは同時に感じられるところが面白い。これは評論家的な物の見方をしていることであって、どんな作品に接する時も、人はそういう意識をどこかに抱いている。だが、それほどに俳優が役割にのめり込むと、ドラマを撮り終わった後で、現実に戻ることが困難になる場合があるのではと心配もする。実際俳優にはそういうことはままあるようだが、傍から見ればしんどい職業だ。演じながら真剣に役柄に没入せねばならない。でなければ、視聴者はすぐにその俳優を大根だと思ってしまう。さて、このドラマは若い人から中年、老年まで楽しめるように脚本が書かれているが、どちらかと言えば中年用だ。結婚前の若い男女が主人公となっていて、毎回最初に流れる、配役を紹介するコンピュータ・グラフィックスで作った映像でも、そのふたりがまず登場するが、毎回主役級の人物が変わり、この若い男女の出番が全体には少なく、また若い俳優であれば、そこそこ誰が演じてもよかったと思わせる。それとは違って、この男女のそれぞれの両親は、まさに適役で、しかもドラマの核となって、見ごたえのある演技をする。いつも脇役に徹している人ばかりだが、ここではこの両親役の4人がそれぞれ同格の主人公となって、韓国ドラマの脇役級の才能の見事を実感させる。
 若い男女とは、アン・ジェモとイム・イェウォンだ。前者は『王と私』に出ていて、かなりあくが強く、『王と私』のように複雑な悪役を演じることも出来る。甘いマスクではないが、一度見れば忘れられない個性的な顔をしていて、中年になっても重宝されるタイプだ。後者の女優は初めて見た。美人ではないが、韓国ドラマでは見かけない個性的な顔で、今後どういうドラマに出るかで才能が磨かれるか、萎んでしまうかといったところだ。前者はカン・ジファンという小児科医を演じる。後者はソ・ダンビという名前で、ジファンの母の弟が経営する店でヘア・デザイナーとして働いている。この点は『がんばれ! クムスン』を思わせる。実際、それをかなり意識して、クムスンのように、結婚して3日目に夫を失う女性が登場するが、やはりヘア・デザイナーという役柄だ。この女性はイ・サンアという名前で、ソ・ユヒ役を演じる。初めて見たが、筆者好みの顔で、またこのドラマでは全体にシリアスな内容の中、もうひとりのおかまっぽい役柄の男性キム・ソンジュン演じるユン・スンピルと毎回漫才のようなコミカルな演技をする。このふたりの存在は重要で、ドラマの筋をうまく複雑化しながら、ピエロ的存在となって、ドラマの楽しさを倍化させている。こうした笑いの部分は、アメリカ映画ではさんざん使われた手法で、日本もそれをよく学んで映画やドラマを作ったが、その流れは現在の漫画において、格好よく描かれる美男子、美女の主人公が、時々ギャグ漫画さながらに全く違う顔として崩して描かれることに変化した。格好よさは、ずっこけ部分を持つことによって、より現実的になると思われているのだろう。これは、女性の願望なのかもしれない。憧れの格好いい、近寄り難い男性と一旦恋愛関係になると、格好よさとは違う、自分だけに恥ずかしい姿もさらけ出す、つまりずっこけた部分を見せることを望むだろう。韓国ドラマでは、いつもそういう狂言回し的な存在が出るとは限らないが、そういう配役が割り当てられる場合、他のシリアスな演技をする俳優たちは、おおげさでどぎつい行動が設定される。今回のドラマでは、それはたとえば派手に家具をぶち壊すとか、日本のちゃぶ台返しどころではない、大きな食卓の料理めちゃくちゃにしてしまうという場面が何度も出て来るところに現われている。ともかく、このピエロ的なふたりは、ともに30代と思うが、実に達者な演技をする。こういう役柄はドラマを見終わった後ではあまり印象に残らないが、ふたりとも強烈で、ファンになった。
 さて、主人公と言ってよいジファンとダンビのふたりが恋愛から結婚することになる場面からドラマの本番が始まる。あり得ない設定と言えばそれまでだが、ドラマは現実の飛び抜けた部分をたくさん集めたものと思えば、誰でもドラマのごく一部は似た経験をしたことがあるもので、あり得ない設定と思いながらも、ついついそれがあっておかしくないと思ってしまう。そのあり得ない設定とは、ダンビの父親ソ・ユイルはかつてジファンの母親ユン・スンヒと結婚していて、浮気をして別の女キム・ヒスクと暮らしたいと言って妊娠している妻を家から追い出したことだ。その理由はあまり明らかにされないが、浮気な夫ということだ。また、浮気して結婚したヒスクは、大手企業の会長のひとり娘で、そういう金持ちの女という点に目がくらんだのだろう。結婚後は子どもはダンビのみで、しかもヒスクの父親の会社は倒産し、ユイル一家は借家住まいで、しかもユイルは警備員として働いているという設定だ。また、大金持ち育ちのヒスクは働いたことがなく、横恋慕してスンヒから夫を奪ったが、貧しい生活にいつも不満を抱いている。一方、スンヒの新たな夫は会社の社長で、スンヒは何の不自由もなくセレブの奥様として暮らしている。スンヒが夫と出会ったのは、ユイルから家を追い出された時、階段から転がり落ちて流産し、生きる望みをなくしてビルの屋上から飛び降り自殺を図った時、その様子をたまたま見ていたジファンの父カン・ジョンウォンから助けられたことによる。これもあり得ない設定で、しかもそのような自殺を企てる女性の内面の苦しみを聞き出しもせず、また過去を調べることもせずに結婚するのは、いくら一目惚れしたとしても、あまりにおめでたい男で非現実的だ。ただし、このドラマでは、美人のスンヒに比べて、その夫役のジョンウォンは、どう見ても平均かそれ以下の体格と顔なので、どんな事情があろうと、スンヒを助けた勢いで結婚したというのは、納得させられるところもある。その点、スンヒの元夫のユイルは、それなりに女性に持てそうな優しさと貫禄に溢れ、配役はよく考え抜かれている。そう思わせるのは、ドラマの後半になって、このユイルの別の私生活がわかって来るところだ。そこは韓国ドラマ特有の誰も想像出来ない意外性を持ちながら、一方では鑑賞者をより納得させる設定で、このドラマをふくらみの大きなものにしている。このことについては後にまた書く。
 ジョンウォンと再婚したスンヒはジファンとその弟のウンファンを産み、ウンファンはすでに結婚し、子どもはまだもうけておらず、兄のジファンはダンビと結婚するという設定でドラマは始まるが、スンヒは自分が結婚していた過去をジョンウォンに隠したまま30年ほど暮らして来て、そのことが心の片隅に済まないという気持ちとなってなおさら夫に尽くす妻となっている。ところが、その長年の秘密が暴かれることになる。このことがドラマ前半のキー・ポイントとなって、スンヒは窮地に追い込まれる。つまり、過去にユイルに捨てられたのに、またもう一度同じ目に遭うかもしれないという恐怖だ。そのことはひとまず置いて、ジファンとダンビが結婚したいとそれぞれの両親に伝え、両家が顔合わせをする。ユイルとヒスク、そしてスンヒはびっくりし、結婚は許さないとそれぞれ娘と息子に伝えるが、ジョンウォンだけは事情を知らず、またユイルを兄のように思って、結婚を薦め、結局ジファンとダンビは結婚する。このまま両家がさほど交際をしないのであれば何事も起こらないが、それではドラマにならない。はらはらさせるためには、次々と問題を用意せねばならない。そして、韓国ドラマの面白いところは、そういうはらはらさせるところにあって、このドラマはその典型だ。そういうはらはらの場面はほとんど最後まで毎回あるが、さすが最後の2日間は物語のまとめに入って、はらはら度は一気に減少し、あまり見る価値のないものであった。そう考えると、人生の面白さは、さまざまな厄介事に対処している時にあり、何も変化がない日常は生きている意味もないように思える。厄介事に遭遇している間は辛いが、それは過ぎると忘れるし、忘れた頃には別の難儀なことが眼前に迫っている。その連続が人生で、それを楽しいと思う余裕がなけれな人生の荒海をわたって行くことは出来ない。このドラマを見て思ったことは多いが、トラブルに誰もが見舞われながら、結局は仲よくやって行くしかない様子を描いているところが、結語となっている。そこに教訓臭を感じて面白くないという人はあろうが、儒教を持ち出さずとも、こうした電波を使ったドラマが話を丸く収める、あるいは悪はそれなりの報いを受けるという、庶民の期待を裏切ってはならず、その意味では予定調和の結末で、誰しも満足といったところだろう。話があちこちに飛んで、まとまりがつきそうにないが、先に進もう。ジファンとダンビは、ロミオとジュリエット的な設定だが、それと違うのは、ジファンとダンビの結婚を快く思わない女性が登場することだ。それはジファンがダンビと知り合う以前に交際していた孤児院出身の女性イ・ミジンだ。ミジンは何年か前、ジファンのもとから去ったという設定だ。そして戻って来て、ジファンと寄りを戻そうと、何度もジファンに接近する。つまり、ストーカーだ。かつて姿を消したのは、癌を患ったからだが、それが直って舞い戻ると、ジファンが心変わりして結婚までしようとしている。ミジンは当然それに激怒し、仲を割こうとする。ミジンは小説家でそれなりに売れっ子になっているが、かつて会社の社長と不倫し、相手の家庭を壊したことがある。また飲み屋で働いていたこともあって、ジファンの母スンヒは以前ミジンとジファンの交際に強く反対したが、ミジンはスンヒに復讐するため、かつてダンビの父と結婚していた事実をつかんでそれをネタに脅す。ここで思うのは、ほとんどの韓国ドラマにはセレブと、孤児院育ちのような幸福に恵まれない人物が登場することだ。そして、このドラマでは、孤児院育ちのミジンがかなり腹黒い人物として描かれ、現実の孤児院育ちはいい気分がしないだろう。だが、このドラマとは反対に、孤児院育ちが温かい心の持ち主として描かれることもある。
 ここで両家の両親の俳優について少し書いておく。スンヒを演じるイ・フィヒャンで、『美しき日々』と『天国への階段』でいじわるな役柄で強烈な印象を残した。その女優が今回は打って変わって清楚な役を演じ、これがまず驚かされる。また、ヒスクを演じるのはソン・オクスクで、『冬のソナタ』ではチュンサンの母親でピアニストを演じたが、ソン・オクスクより芸達者ではないだろうか。このふたりの女優は、このドラマでは役柄を交換しても、見事に演じたであろう。むしろその方がよかったかもしれない。ドラマの後半はこのふたりの母親の対決という様相を呈する。この女の戦いという設定は、ダンビとミジンの間でも繰り広げられる。ドラマが元来女が楽しむものということに立てば、こういう設定は理解出来る。さて、そうなれば両家の父親は影がうすいかということになるが、これがどちらも好演で、ダンビの父親役は筆者は初めて見たが、実にうまい。またジファンの父親役カン・ナムギルは『宮』に出たことからわかるように、どちらかと言えばコメディ向きで、その人のよさそうな雰囲気によって、スンヒを疑わない純真な人物として描かれる。だが、そういう優しい夫が、一旦妻の過去を知った時にどうなるかというのが、このドラマの大きな見所で、ドラマの後半ではかなり出番が多くなる。ドラマの題名はあまりよくなく、誰のことを指しているのかわからないが、どの韓国ドラマとも同じく、ここにはいくつもの愛の形が登場する。たとえば、ダンビの父のユイルだ。この人物はかつては妻を階段から蹴落とすというとんでもない悪い奴だが、それもあって今はしがない警備員となっている。その設定もまた、職業差別が韓国には根強いことを思わせる。ユイルの妹がヘア・デザイナーのソ・ユヒで、小さな娘がひとりいて、ユイル一家と同居しているが、このユヒがユイルに対して愚痴を言う場面が最初の方にある。それは、自分が大学に進めなかったのは、兄のユイルの学費を捻出するためで、自分は家の犠牲になって、ヘア・デザイナーにしかなれなかったということだ。ここにも、大学を出ない人間はヘア・デザイナー程度しかなれないという現実を見せている。日本もそういうところはあるが、韓国はもっと職業差別が大きいのではないか。それは儒教の悪い面と言ってよい。頭のいい人間は体を使わず、手を汚さずに悠悠と生活出来るという理想が根強い。文人趣味が日本以上にあり、働くということをどこか見下げているように思える。ただし、それは自覚していて、それもあって、ユヒはユイルの妻ヒスクに対して、働く場所はいくらでもあるから家にのうのうとおらずに働きに出よと大喧嘩する場面がある。いくら財閥のかつての娘であっても、現実を見れば夫は警備員であり、その夫を助けなくてどうするという考えだ。ここにはユヒの兄に対する愛情もある。
 このドラマで一番の悪役はダンビの母のそのヒスクだろう。回を重ねるごとにその呆れるほどの厚顔ぶりが描かれる。こういう役を演じると、後々俳優としてのイメージが悪くなって困ると思うが、徹底して醜い表情を作り、またかつては金持ちであった雰囲気を見せるなど、演技とは思えない迫力がある。ユイルはそんな妻との結婚生活によくぞ耐えているなと思わせられるが、そういう視聴者の不思議を払拭する展開が後半の後半部に用意されている。これもまた、現実によくありそうなことで、大人であれば誰しも納得出来るだろう。それは、10年もの間、ユイルがヒスクに隠れて若い女性と浮気をしていたことだ。これはユイルが交通事故で死んでからわかる。保険に入っていたのだが、その受け取り人がヒスクではなかったのだ。つまり、ユイルはヒスクと再婚したものの、あまりのわがまま振りに呆れ果て、また浮気していたという設定だ。もちろんユイルは悪いが、それ以上に悪いのがヒスクだという考えだ。だが、この点はドラマを見る人によって考えは違う。ユイルが若くてきれいな女性と10年も隠れてつき合ったということは非現実的と思う人が多いかもしれないが、20歳ほども年上の、しかもお金もないような男性に惚れる女性が全く存在しないとは言えないだろう。いろいろと事情があるのが男女で、そこは年齢の差は関係がない。だが、ユイルが浮気していた相手の若い女性をこのドラマは何度か登場させながら、視聴者がそういう不倫をする若い女をどう思うかということに対して、脚本家ははっきりとした答えを用意している。それもまた儒教、あるいはキリスト教の倫理感にしたがったもので、決してその若い女性を賛美はせず、ダンビやジファンが徹底して罵声を浴びせる。そう思えば、やはりこのドラマの主人公はジファンとダンビで、ふたりはお互いの両親が激しい喧嘩を繰り広げながらも、お互い信じて疑わず、どういう困難があっても離れない。このことがドラマの題名になっているのだろう。経済的な差や育ちの差があっても、それを乗り越えて結ばれる若い男女の愛の尊さを描きたかったということだ。不倫は絶対に許さず、それをしたものは、日陰者として生きるか、いい死に方はしないということを見せつけているところがある。韓国ドラマの平均的な部分をしっかりと押さえた作品で、見始めるとはまってしまうだろう。大方の筋立ては書いたが、書いていないことも多く、見て損はない。これはあたりまえかもしれないが、登場人物の誰ひとりとして無駄ではないところがいい。
by uuuzen | 2011-12-07 23:59 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
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