弟のように目立たない存在であったジョージ・ハリスンが亡くなってちょうど10年経つ。それを記念してであろう。ドキュメンタリー映画が作られた。監督は1976年の『タクシー・ドライヴァー』を撮ったマーティン・スコセッシで、ザッパと同じイタリア系だ。
このドキュメンタリー映画を知ったのは、10日ほど前だったか、ネットでこの映画について、宣伝ではないが、おすすめの作品として紹介を読んだことによる。それを心の片隅に留めた。それをどういうわけか2日の金曜日に思い出し、すぐに調べると、その日が最終であった。京都では新京極のMOVIXでのみやっている。しかも12時半と夕方6時半からの2回しか上映しない。その時刻表示の真下に2500円と書いてあって、これは高いなと思いながらも、最終日の最終回をどうにかたくさんの予定をこなせば見ることが出来るとめまぐるしく計画を立てた。それでその日の予定を順にこなしながら、映画館には10分前に着いた。封切りを見るのは何年ぶりだろう。この映画もすぐにDVDが出るが、わが家の14型のアナログTVでは映像が冴えない。それにDVDは2500円では買えないはずだ。1,2年待てばその価格で中古が入手出来るはずだが、待つよりさっさと見た方がいい。それにDVDを持っていても、1,2回しか見ない。館内にはチラシがなかった。作られていないはずはないが、みんなとっくに持ち去られたのだろう。チラシのデザインは、映画『ヘルプ!』の撮影時に撮られた写真のはずだ。『ヘルプ!』ではジョージは「アイ・ニード・ユー」を歌った。その時の服装で水中に首だけ出して浸かっている、不思議な、ちょっと不気味な写真だが、若くて凛々しい。その写真は動画から撮ったものと予想したが、そうではなく、映画では静止画像として、2,3秒使われたのみだ。さて、ネットの紹介文を見て少し驚いた。ビートルズの名前は誰でも知っているが、メンバーとなると、ポール・マッカートニーとジョン・レノンは真っ先に思い出すが、後のふたりはどういう名前であったかわからないと書いてあったからだ。それは無理もない。ビートルズが解散して40年以上経つ。それ以降どれほど多くの音楽が流行したことか。筆者が子どもの頃、40年前の音楽に夢中になったか。それはあり得なかった。そう思えば、今の若者がビートルズを聴くのはかなり奇異なことで、もっと自分たちの世代の音楽を聴けと言いたくなる。このブログに何度か書いたように、筆者は同時代的にビートルズに夢中になって少年時代を送ったが、その後筆者より年下がビートルズの音楽を好む姿をあまりいいとは思わない。そして、そういう人がいても、ビートルズについて積極的に語り合いたくはない。むしろ敬遠する。同時代的に聴いた人とは話をしてもいいが、そうでない人は、何か感覚が違うと感じる。
映画館の客の入りは20名ほどであった。8割が50歳以上で、60代も目立った。20歳そこそこの若者もいたが、新しいビートルズ・ファンが育っていることを実感する。まず映画の全体的な感想を書くと、てっきり2時間ほどと思っていたのに、その時間が過ぎた頃、「第1部終了」の文字が出てびっくりした。2部構成になっていて、ほとんど4時間近い。そのために2500円であり、1日2回の上映であったことを知った。ジョージの誕生から死までのおよそ60年を描くとなると、そのような長さになるのはやむを得ない。4時間でもぎりぎり削ってまとめ上げたのであろう。第2部に描かれるべきトピックスでカットされたものがあったことは、ジョージのことを多少知る人なら誰もが映画を見ている段階で気づいたはずだ。それほどにジョージの活動は一見地味なようでいて、多彩であった。その多彩はさまざまな人と交流したことだ。それはポールやジョンの比ではない。ポールが亡くなった時、このような多数の人にインタヴューしたドキュメンタリーが作られるだろうか。あってもジョージほどに面白くないのではないか。途中10分の休憩を挟みながら4時間ほどの映画を一気に見るのはかなり疲れるが、少しも眠らなかった。次々と面白い証言、プライヴェートな映像などが出て来るからで、初めて見る映像が半分、いや4分の3以上は占めていた。ビートルズの『アンソロジー』で映像は出尽くしたと思っていると、不意打ちを食らう。この映画のDVDは、ぜひとも『アンソロジー』のDVDと一緒に並べて所有すべきで、ジョージから見たビートルズがよくわかる。そして、ビートルズにジョージがいなければ、魅力が半減したことも実感出来る。それほどに後半期のビートルズに多大な存在意義を持った。それは言い代えれば、全世界に影響を与えたことでもあって、そういう観点からこの映画が撮られているとも言える。感想のもうひとつは、筆者はちょうど中央のF8の席で座ったが、ステレオの音が見事であったことだ。今までに聴き馴染んで来た曲がこれほどまでにいい音で鳴り響くものであったかと、改めてCDに詰まっている音の凄さに感嘆した。もちろんそれは音響装置がいいからだが、どの音も際立って、しかも大音量であるのにうるさくなかった。『なるほど、こういういい音を追求してオーディオ・マニアが日夜良質の音を追い求めるのだな』と、そう実感した。そして、その良質で圧倒的な音はDVDを買って家で楽しむ場合には得られないので、映画館で2500円払う価値はあった。また、その音のよさについてつけ加えておくと、第1部の最後に鳴った「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」では目頭が熱くなり、落涙した。その曲を第1部の終わりに持って来たのは、その頃からジョージの本当の才能が開花し始めたことを言いたいためだ。第2部は同じ曲のアコースティック・ヴァージョンから始まるという心憎い演出で、これはジョージのファンが見て納得の行く構成が考え抜かれている。
ビートルズ・ファンでジョージを第1番に好きという人は多くないだろう。筆者もその部類だが、ジョージのアルバムは全部持っている。だが、最高傑作は『オール・シングス・マスト・パス』と思っていて、その後は少しずつあまり面白くないアルバムを作ったというのが、個人的な評価だ。それを多少覆したのが『クラウド・ナイン』であったが、全体的には下降線をたどったと言うか、音楽作りにさほど熱心にならなかったのではないかと思える。今回の映画でも、やはり頂点を『オール・シングス・マスト・パス』に置き、それ以降の音楽には重きを置かなかった。もっとも、生活の描写は多く、『オール・シングス…』以降、どういう日常を過ごしたかがよくわかった。それはだいたい予想どおりではあったが、ジョージが信心深く、また毎日を規則正しく生活していたことを初めて知った。それは禅僧のようであった。夜明けとともに起きて庭先で瞑想したというから、毎晩深夜3時過ぎに寝る筆者にはとうてい真似が出来ない。この映画の題名は、1973年発売の『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド(LIVING IN THE MATERIAL WORLD)』から取られたが、同アルバムはジョージ個人名義としては『オール・シングス…』の次に出た。それなりに仕上がりはいいが、全体に悲しい印象が漂い、当時筆者は滅入ったことをよく記憶する。73年は、ザッパはその滅入りとは正反対の『オーヴァー・ナイト・センセイション』を発売し、すでにザッパ・ファンであった筆者はジョージのアルバムを熱心に聴くことはなくなって行った。だが、その物質世界を否定し精神世界を重視する立場には同感を抱き、その思いはその後も変わっていない。それどころか、年々それは増しているかもしれない。そこが、マーティン・スコセッシ監督が重視し、焦点を合わせた部分でもあるだろう。つまり、単なるポップ・グループとしてのビートルズが、愛と平和のメッセージ性を強くし、精神世界にまで影響を及ぼす存在となったその大きな理由を、ジョージの存在に置く。多くの人と交友した心優しいジョージであったから、この映画にはたくさんの人が登場し、ジョージについて語る。中にはお世辞も混じるだろうが、たとえばポール・マッカートニーが発言したように、普通の男が好きなものはすべて好きであったということ、そして二番目の妻となったメキシコ系アメリカ人のオリヴィアも映画の最後あたりで語っていたように、ジョージは誰に対しても優しく、その行為がよく女性から誤解され、オリヴィアとはそれなりの派手な喧嘩をしたそうだが、つまりは女性問題も人並みにあったということは、とても面白いエピソードであった。ひたすら神格化するのではなく、ありのままのジョージを伝えて好感が持てる。禅僧らしくはあっても、実際はそうではないのであるから、それくらいの煩悩はあったろう。またジョージの信仰はインドのヒンズー教であるから、愛に関しては肉を伴なったものを否定はしなかったはずだ。もうひとつ、興味深かったのは、ジョージがインドの宗教にのめり込むことになった理由だ。それは60年代半ば、ある人物からコーヒーに黙ってLSDの粉末を混ぜられ、それを飲んだことによる開放感であった。バッド・トリップには至らず、とても気分がよかったらしい。それを契機に一時期はLSDにのめり込み、そして他の薬物も盛んに試したようだ。その薬物の中にはコカインも含まれるが、それをいつまで常用していたかは明らかではない。ただし、一方で薬によって高揚感を得ると、それが醒めた時の失望感は大きい。そこでジョージは薬なしで高揚感を常に得るにはどうすればいいかを考え、求めた。それがインド哲学、ヒンズー教といったことになった。求めるととことん追求するのがジョージの性質で、とにかく凝り性なのだ。
また、インドに接近する際にラヴィ・シャンカールに出会えたのは生涯の財産になった。ラヴィの音楽に影響を受けなかった60年代のアメリカの音楽家を探すのは難しいだろう。日本でもよく知られたラヴィだが、アメリカではヒッピー文化盛んな頃から、あるいはそれ以前にラヴィはもてはやされた。一方、イギリスはインドとは歴史的に深い関係を持っていて、ジョージが精神的なものを求めた際、中国や日本の禅ではなく、インドに目を向けたのは当然過ぎることだ。今回の映画ではラヴィが登場する場面が目立った。そのどれもがラヴィは清廉な印象が漂っていた。ラヴィは演奏の最初と最後を記憶するだけで、途中の演奏は覚えていないというが、そういう音楽に没入する姿をジョージはうらやましく思ったに違いない。そしてラヴィに就いてシタールを熱心に学ぶが、インドに200人ほどもいる天才にはどうしても近づけない。それでラヴィから言われた言葉は、『自分の原点を見つめなさい』であった。ジョージはそれがエルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」であったことを思い出す。そして、吹っ切れたようにまたロック曲を書くことになった。ラヴィは、世の中をよくすることは多くの政治家や思想家が試しているにもかかわらず、それが実現しないところ、その行為はきわめて困難であることがわかるが、音楽はひょっとすれば世の中を明るくするかもしれないと、言葉を選びながら、ジョージが向けるカメラに対して答える。そういう思想がジョージにはいい形で影響を与えた。これもとても印象深い言葉であったが、ジョージが一番の目的、夢としていたことは、いい曲を書くことであった。この意志はジョージ自身の言葉で語られたのではなく、オリヴィアが発したが、その言葉は筆者には一番響いた。作曲家、芸術家としてごくあたりまえのことだが、その「いい曲を書きたい」という望みは、全く生きていることの最大の意味だ。そして、そのジョージの思いはかなえられた。ジョージは名曲をたくさん書いた。エリック・クラプトンが何度も登場し、特にジョージの妻であったパティ・ボイドに横恋慕し、ついにはジョージから譲ってもらう形で結婚に漕ぎつける話も赤裸々に語られたが、そのエリックとは比較にならないほどジョージは才能に溢れた人物であった。ジョージの書いた名曲はジョンとポールの曲とは違って、地味だが滋味がある。『オール・シングス・マスト・パス』をプロデュースしたフィル・スペクターが派手な老人となってインタヴューに答えていたが、そのフィルにとってもジョージの才能は途轍もないものに映ったと見え、その絶賛の様子は非常に興味深かった。実際フィルの最後の大きな仕事は『オール・シングス…』を世に送ったことだろう。その後ジョンのロックンロールのアルバムもプロデュースし、それはそれで筆者の大いなる愛聴盤だが、『オール・シングス…』の広大な世界の前では霞む。
『オール・シングス…』の翌年に同じくLP3枚組みでジョージは『バングラデシュの救済コンサート』を発売した。当時筆者は封切りでその映画を見た。その時の印象が今回蘇った。ごくわずかな映像しか引用されなかったが、ステージに立つ白いスーツのジョージはいかにも眩しく、神がかって見えた。そしてまたもや涙が頬を伝った。多くの演奏家に取り囲まれたジョージは幸福者に見えた。人を惹きつける魅力がジョージにはあった。妻を譲ったエリックとは生涯交友を保ち、ジョージ亡き後、エリックはジョージの追悼コンサートを実行した。そういう男の友情にも恵まれた。億単位の映画の資金をぽんと出しながら恩に着せず、また友人が落ち込んでいる時はそっと無言で寄り添って慰め、誰からも愛された。先日このブログで、ビートルズのハンブルク時代と元メンバーのスチュアート・サトクリフについての漫画『ベイビーズ・イン・ブラック』を取り上げたが、その漫画に最初に登場するクラウス・フォアマンも今回の映画では重要な証言をしていた。またクラウスの元恋人で、サトクリフと結婚の約束をした写真家のアストリッド・キルヒャーもたどたどしい英語で何度か話す場面があって、17歳かそこらのジョージがいかに優しく、またジョンのポールの間にあって緩衝的役割を担っていたかを語っていた。ああ、こうして書いていると切りがないので、この段落で終わりにしよう。第2部のほとんど終わりで、リンゴ・スターが感動秘話と表現しながら、半ば泣き、半ば笑いながら語ったことを紹介する。癌に冒されたジョージは最晩年にスイスで入院していた。亡くなる2週間前にポールとリンゴは見舞いに行った。だが、リンゴは娘がアメリカのボストンで脳腫瘍で入院しているため、すぐにその場を去らねばならない。それを知ったジョージはリンゴに、「一緒に行ってやろうか」と言った。そういうジョークが好きな、またどこまでも優しいジョージであった。最後の場面は妻オリヴィアの語りだ。ジョージが亡くなった瞬間、体から光が発散したらしい。魂が抜け出たのだ。それを信じない人はそれでいい。だが、愛する人が亡くなる瞬間、最も身近な人にはその光が見えて不思議ではない。その明かりはあまりにもかすかで、通常は太陽の光で見えない。真っ暗な場所、そして見る者の心の準備が出来て、心がくもっていなければ、確かに見えるのではないか。ロイ・オービソンの死の報せを受けたジョージが、トム・ペティに電話し、『死が自分のことでなかったのでほっとしたろう』といつものジョークを言いながら、『けれどロイは死んではおらず、今も君のそばにいる』と続けたそうだ。死を少しも恐れず、それへの準備をしながらジョージは死んだ。ジョージが書いた名曲『オール・シングス・マスト・パス』のように、すべては過ぎ去る。だが、その歌詞は物事の永遠の輪廻を言い、タイトルの「あらゆるものが過ぎ去る運命にある」としながらも、その次のヴァースとして、「この憂鬱な灰色の気持ちもずっとあるものではない」と続ける。「癒し」を60年代末期に先取りしていたジョージの思想がここにはある。筆者はLP3枚組のこのアルバムを発売当時に買った。4000円はかなりの大金で、母からは半ば反対された。買いに向かったレコード店までの道のりは正確に鮮明に思い出すことが出来る。そして、買っただけの価値はあった。今も愛聴盤となっているし、ジョージのことは忘れていない。