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●「BLUE POWDER」
男と息子のことを呼んだりしている。アトピーがひどくて皮膚が細かく剥がれ落ち、全身から粉を吹いているからだ。そういう言葉を投げかけはしないが、家内と話す時は冗談交じりに言う。



笑い事ではないが、実際おかしいところがある。昨日電車に乗っていると、向かいの席に50歳ほどの女性がどかどかと入って来て座った。身なりは貧しい。髪もくしゃくしゃだ。この女性は驚くべきことに、筆者が生まれて初めて見る仕草をし続けた。どう表現していいのだろう、目を閉じたまま、のけぞったり、顔をひきつらせたり、とにかくせわしなく動き続ける。隣のいた人や近くに立っていた人は、かわいそうな人といった目つきでちらちら見る。筆者が最初に思ったのは、いったいどういう拷問を男から受けて精神がおかしくなってしまったのかということであった。全くそう見えたからだ。だが、ほんの一瞬だが、女性は全く何事もなかったかのように真顔になって向き直る。そして、また元通りの身悶えを始めるのであったが、それを見た途端、筆者は笑いを思い浮かべた。不謹慎ではあるが、普通の人と違う人を見るのは滑稽だ。たとえば、爆弾で顔の半分を吹き飛ばされた人が街を歩いているとする。それは悲しい姿だが、同時に滑稽でもある。オットー・ディックスはそういうように見て、そうした人々を描いたと思う。滑稽と言われた方はたまったものではないが、滑稽という言葉を持ち出さない限り、話が先へ進まない気がする。それは毒のある態度かもしれない。だが、毒のある状態には毒のある滑稽さで対応せねばならない。「かわいそうに」とか「お気の毒」という言葉は発しやすいし、みなその言葉を使うことで、滑稽さを噛み殺す。この滑稽の反対が格好いいだろうか。筆者の中ではそうなっているが、滑稽と格好いいは紙一重のところもあるので、格好よさを意識し過ぎると、たちまち滑稽に陥りかねない。そこをよく注意してファッションに気をつけること。ところで、最近の筆者は自分で言うのも何だが、神父を思わせるファッションで外出する。『おにおにっ記2』の中で「マニマンのキミドリ社っ記」という10回シリーズを3年前の夏にやった。その第4回を「ミリドキさん」と題している。そこで全身黄色の人物を登場させた。筆者の神父ファッションは帽子、マフラー、ズボンなどまさにそのミリキドさんとそっくりで、違うのは黄色ではなく、黒であることだ。おまけにサングラスまでかけることがあり、道行く人が時々振り返る。それを見るのが面白いというのではないが、自分がしたい格好を3年前にミリキドさんに託していたことを思う。そして、その神父はTWITTERに登場する贋フフランチェスコのちわゆねにつながっている。筆者はどうやら、ブログで生み出すキャラクターをそのまま実生活で体現しているようだ。それは傍から見ればしごく滑稽であろうが、人間はみな本来滑稽なものだ。そう思ってあたりを見直すと、またいつもとは違う勇気が出て来る。何も怯えることはないのだ。
●「BLUE POWDER」_d0053294_144711.jpg

 さて、月末の今日は何か1曲を取り上げる番だ。10日ほど前からこの「BLUE POWDER」に決めていた。新しいCDデッキが届いた日にも大音量でかけた。スティーヴ・ヴァイ(STEVE VAI)の1曲を取り上げるとすればこの曲と、このカテゴリーを始めた当初から決めていた。「青い粉」とはなかなか幻想的な題名でよい。イヴ・クラインを思い出す人もあるかもしれない。もちろんこの青はブルースのことで、ブルース風味がかった曲との意味だ。いや、筆者が勝手にそう思っているだけで、ヴァイがインタヴューでどう答えているのかは知らない。ヴァイのファンはザッパの曲を楽しんで聴くだろうか。どうもそうは思えない。ヴァイはザッパのもとでギターの腕を磨いたし、またザッパのセンスや手法を巧みに応用して来たが、そのギターはザッパのものとはそうとうかけ離れている。では、ヴァイがギターを学んだというジョー・サトリーアニと比べてどうかと言えば、これも個性が全然違う。ヴァイはヴァイなりの味を出して、心酔者は世界中にいる。筆者はヴァイの全アルバムは所有しないが、それでもたいていは持っている。その中でいつも棚に手が延びるのは実質的なデビュー・アルバムとしてよい『PASSION AND WARFARE』だ。ここにはザッパで学んだことが凝縮され、しかもヴァイのいいところがすべて出ている。その後のアルバムは質の高さではこの最初の1枚に及ばない。こう書けばきっと反論があろうが、筆者の考えはそうだ。つまり、それほどにヴァイはそれ以前から脱皮し、すっかり完成した姿をこのアルバムで見せた。このアルバム以前には『FLEXABLE』という題名で2枚LPを出していたが、実験的かつお遊び的な曲が多く、今後も多くのファンはつかめないに違いない。この2枚で吹っ切れたのか、かなりポピュラーな曲を書き、演奏して『PASSION AND WARFARE』をまとめ上げた。発売は1990年で、当時ザッパはまだ生きていて、このアルバムを聴いた。その感想がどこかのインタヴュー雑誌に出たが、芳しいものではなかったと記憶する。あまりに売れることを狙ったようなところが気に入らなかったのかもしれない。だが、ヴァイ側に立てば、それは戦略でもあり、また音楽家として生き残るためには仕方のないことでもあった。『FLEXABLE』のような地味なアルバムは、有名になってからでも作ることが出来る。結婚し、子どもも出来たとなると、父親としてまず稼がねばならない。そのためには、魂を売るというのではなく、みんなに歓迎され、よく売れるアルバムを作らねばならない。それが『PASSION AND WARFARE』であった。確かにこのアルバムは聴きやすく、また全体が組曲のようになって、構成が見事だ。だが、今では筆者は最初から最後まで通して聴くより、「青い粉」のみをリピートで聴く方を選ぶ。また、この曲以外が全部つまらないのではない。いくつか独立して聴いても印象に強いものがある。それらの曲、あるいは「青い粉」も含めて後のアルバムでは手を変え、品を変え、似た感じの曲が繰り返し作られる。それを知ってしまうと、原点であるこのアルバムに結局は戻る。
 こう書いてしまうと、ヴァイの才能が乏しいようだが、実際はそうではない。1曲に投入するエネルギーや工夫は並み外れたもので、完成度が驚くほど高い。その理由から筆者はこの曲を何度も、またこれからも聴く。だが、その完成度の高さは、必然的に即興の部分を狭める。先日YOUTUBEでこの曲のライヴ演奏を見た。7,8年前のものだったと思うが、途中がかなりアレンジされていた。だが、その見世物的な演奏は、今までのヴァイから全部予想出来るもので、感動がなかった。簡単に言えば、派手で客が喜ぶ即興部分もみな予定されたもので、型どおりという印象が否めない。完成度を求める態度がそのようにさせるのだ。それは悪いことではない。プロとすれば当然だろう。お金を払って来ている客に、同じ質の高いものを絶えず提供せねばならない。だが、そこにある意味では落とし穴もある。ヴァイのライヴを見たことがある。あまり感心しなかったことを書くと、ある人から後方で見たからだととんちんかんな意見をもらった。そんな話ではないのだ。ザッパがヴァイの『PASSION AND WARFARE』をあまり言いように言わなかったのは、筆者にはよくわかる気がする。だが、それはそれとして、やはりこのアルバムはヴァイの最高傑作として将来に残って行くし、その価値がある。話をYOUTUBEに戻す。ヴァイの演奏中、ヴァイの前髪が風でずっとなびいて、額を見せ続けていた。これは足元から風を送っての演出だが、格好よさを見せるためにそこまですることが滑稽であった。漫画的あるいは宝塚的で、ヴァイはステージでもファッション以外に、演奏中の見せどころに常に気を配っている。そういう姿を見るたびに思わず笑ってしまう。それは家内も同じで、『よくもまあ、恥ずかしげもなく』といった思いだ。だが、ヴァイのそういう自己陶酔はすっかり型にはまって有名なものになっているので、今では誰もそれを滑稽とは思わないだろう。だが、たまにそういう姿を見ると、やはり滑稽だ。滑稽と格好いいが紙一重になっている。その代表的ギタリストがヴァイだ。いや、そういう姿勢は、たとえばKISSなどのハード・ロック・バンドに源がある。一方では歌舞伎の見栄にも通じている。舞台芸とはみなそういうものだ。その大げさな身振りを観客は楽しむ。これはクラシック音楽の指揮者でも同じことだ。ステージは見世物であり、客を非日常の世界に誘い、満足を与えねばならない。だが、ザッパはそういう姿を冷ややかに見ていたところがある。そのため、知っておどけたりした。ヴァイにもそういう思いがなきにしもあらずだが、それよりも強いのが、やはり自己に惚れるという思いだ。そして、演奏の隅々まで計算し、どういう身振りでどういう音を出すかを完璧に統御している。その綿密で神経が細かく行き届いた芸がヴァイの魅力で、完成度の高さもそこにある。そういう芸を身につけるにはどれだけの練習を重ねたかと思わせられるが、YOUTUBEではヴァイのそうした演奏を、身振りはさておいて、音のみは完全にコピーする者がいる。だが、それはコピーであって、全く創造ではない。そこでまたヴァイの才能の凄さを確認することとなる。
●「BLUE POWDER」_d0053294_15514.jpg ヴァイは歌も歌うが得意ではない。そのため、ヴォーカリストを招いてアルバムを作ることもあるが、それらはみな質はよくない。このことは、自分のギターで可能なことはもう全部やってしまって、次のステップが見出せないことを思わせる。だが、引退は出来ないし、したくもない。それでまたギターを演奏しながら工夫する。そういう連鎖がヴァイの生涯にわたって続くだろうが、以前ジョー・サトリアーニの「ECHO」を取り上げた時に書いたように、年齢を重ねると、技術は衰える代わりに別のものを手にする。昔と同じ曲を演奏しながら、別の味わいを発散する。すでにヴァイはそういう境地に入っているのかもしれない。そういう姿を見るのは正直なとことさびしいが、だが現実でもあって、それはそれでいいではないかとも思える。サトリアーニは若い頃とは違って丸坊主頭で、まるで禁欲的な僧侶のように見えるが、筆者にはそれがとても格好よく映る。その点、長髪を贋の風になびかせる演出をするヴァイは、頭が禿げて来た時にどう脱皮するだろうか。その悲しくも滑稽な姿を見たい。実際、滑稽と格好よいが見事に同居したヴァイのようなギタリストは珍しい。ピエロのように、滑稽さまでもが格好よく、格好よさまでが滑稽だ。それは全人格を音楽に捧げているからで、そういう全身で行動しているヴァイは本当に見上げた人物だ。それに忘れてはならないのは、優しさだろう。ヴァイの曲は激しいリズムのものでも、パンクのように攻撃的というのではない。あくまでも華麗を旨とした、音の肯定性が前面に出たものだ。さて、ブルース調の「青い粉」がヴァイのベストな曲と言えば、それは失礼に当たるかもしれない。だが、ブルースをもとにそれを全くのヴァイ以外にあり得ない曲に仕立て上げる才能はやはり大きく評価されてよい。この曲は4分半ほどの長さがあるが、実に1秒ずつが面白い。ザッパの「ANDY」の一部を引用したような箇所、そしてポール・マッカートニーの最初のソロ・アルバムに収録されていた「月面に最初に立った男」というインストルメンタル曲をどこか思わせる箇所など、学ぶべきものを貪欲に取り込んで、まさに次々に変化する絵巻さながら、単調なブルースの面影はない。粉を少し振りかけただけで、あまりにもブルースから隔たったところに位置しながら、その強さは忘れない。それはヴァイがこの曲でギターに歌わせているからだ。もちろんヴァイのどのギター曲でもそうだが、この曲は特にヴァイがさまざまに歌っている。人間が歌にこめる感情をすべてギターで表現しようという考えで演奏されていて、そのヴァイなりのヴォーカルをよく覚えているために、こういう複雑な曲をライヴで演奏することが可能になっている。ここからは、ヴァイの曲にはヴォーカルは不要ということがわかる。ギターの音色も奏法もヴァイの才能全開で、どこを取っても聞き物であるため、ヴァイのことを1曲で説明するにはこの曲がよい。この曲を50回聴くと、ヴァイのずべてがわかるだろう。起伏があり、また最後の派手な終わり方にもしびれるが、ギターのメロディがゴムのように伸びるイントロが特によい。それは滑稽でして格好よい。ムーギョへの往復の際、最近はこの曲をよく思い出す。歩く速度に馴染み、また寒い夜道にぴったりで、しかも心の中が温かい。最後につけ加えておくと、この曲は可能な限り大音量で聴くに限る。ずしりと重量が響くところがよく、体全体で感じなければならない。最後に、筆者はこのアルバムをCDで聴いているが、LPは韓国で昔、1991年だったかに、買ったものを所有する。韓国でこのアルバムを見つけた時は驚いた。ヴァイはソウルにもツアーをしたことがあったと思うが、ザッパ以上に世界的に有名になった。ファン層は全く違うだろうが。ヴァイにはもっとびっくりするような格好いいアルバムをどんどん作ってほしい。
by uuuzen | 2011-11-30 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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