関西で小林古径展が開催されるのは、筆者の知る限り初めてのことだ。新潟出身で関東で活躍した画家なので、関西ではどうしても紹介がおろそかになるようだ。
それでもずっと展覧会の機会を待っていた。ざっと30年は待った。古径の実物を1、2点観る機会はたまにあったが、ようやく代表作をまとめて観る機会を得た。ただし、お盆までの前期とそれ以降の後期では本画が50点も展示替えされる。機会があれば後期も観たい。古径の代表作は昔から画集によってよく知っていたので、初めて代表作を多く目の当たりにしたにもかかわらず、そのような気があまりせず、むしろ懐かしかった。その古径の画集というのは、筆者のものではない。筆者が京都に出て1年ほどした時、ある染色工房に転職をしたが、その工房を主宰する先生は、今にして思えば京都の江戸期の文人画家に限りない愛着を抱いていて、そうした関係の本や日本画の画集などが工房にはたくさんあった。残念ながらその先生は文人画家からは遠い人物ではあったが、日本の芸術に対する憧れは強く、それなりに筆達者でもあって、芸大生のように写生もこなしていた。その先生の近代日本画家への興味は誰にあったのかと思うと、特定の画家を好むというのではなく、手元に購入した画集から片っ端から影響を受けるといった風で、今日は加山又造と思えば、明日は奥村土牛といったように節操がなかった。そんな中、古径の晩年の赤絵の磁器に花を活けた絵の、その赤絵磁器の模様の描き方が素晴らしいと言ってはそれを模写していたことを記憶する。古径に限らず、近代日本画家はしばしば赤絵の磁器を描いたが、そんな絵ばかりを画集で見ては先生は、陶磁器に絵つけする場合の絵の描き方と日本画の絵とは違うと、あたりまえのことをよく言いもしていたが、筆者はさまざまな大家の画集から模写するよりも、そのまま自然の花を写生した方がはるかに独自のものが出来ると考えていたので、その先生の教えは何ら記憶に残らなかったし、影響を受けたこともないが、工房が次々と購入する美術豪華本だけはそれなりに目を楽しませてもらって勉強になった。
古径の名前はその工房に移るより前に本で知っていたと思うが、それは田中穰の本だったはずだ。内容はもうほとんど忘れたが、古径の年譜を作ろうとすると、若い頃の2、3年間だったろうか、その間にどこで何をしていたかわからない時期があるとその本で読んだ記憶が強くある。それは古径にとってはまだ無名の貧しい時代で、本人も思い出すことがいやで、そのためもあって年譜で内容を詳しく記すことが出来ないとあった。そんなどん底時代を経験をした日本画家はほかにもいるだろうが、それを読んだ時、筆者も道に迷う貧しい20代で若かったから、よけいに身につまされるように感じた。チラシの説明によると、古径は1914年に再興された日本美術院で、安田靫彦、前田青邨とともに三羽烏と称された。安田靫彦も関西ではまだまとまった展覧会が開催されていないが、これまたたまに1、2点を間近に観たり、画集で知る限り、3人の中では筆者は古径が最も好きだ。安田靫彦はちょっと弱々しい感じがあり、前田青邨は素描は非常に達者だとは思うが、人物がどれも顔の表情が似ていて、古径に比べると描き込み過ぎて画面があまり整理されていない気がする。古径の絵は他のふたりより単純だが、はるかに厳しい。だが、厳しい絵は好きだ。厳しいと言えば、菊池契月の絵もそうだが、好きな絵は厳しい絵だけだと本当は言ってもいいほどだ。厳しさは線から滲み出る。1本の、そうでなければならない線を引くということは、画家にとっては命がけだ。そのように命をかけて真剣に引かれた線で構成されている絵が好きだ。それは日本画だけの神髄ではないだろうか。無地の空間を広く取った古径の絵は、その無地空間も澄みわたって濃密な空気が満たされている。そのような厳しい絵を描く日本画家がほかにいるだろうか。何人かいるが、古径の絵には独特の色気も漂っていて、それが恐いほどだ。そのような恐い絵を描く画家をほかに知らない。そんな絵を描く古径がどのような幼少時代と青年時代を過ごしたのか、それを考えると何となく悲しいイメージも浮かんで来る。古径は言葉数が少なく、暗い感じの子どもだったと思うが、それでも芯がしっかりしていて、密かに自信もあったろう。そんな若い時代の古径の顔や眼差しを想像してみる。そしてそんな古径が筆者の目の前にいるならば、筆者はきっと仲のよい友人になったと思う。写真で見ると古径はかなり小柄だ。大阪生まれの、いかにもしっかり者のような顔した美人の奥さんをもらって、ふたりの女の子にも恵まれ、晩年は広くてほとんど何もないほどに整理整頓された画室でゆったりと仕事が出来たことが写真からわかったが、そんな幸福そうな人生を送り、たくさんの絵を残したのは、若い頃の苦労を考えれば本当によかったと思う。
分厚い図録が2300円で売られていたが、買わなかった。古径の画集は持っていないから、資料として買うべきで、以前の筆者なら迷わずに買ったが、今まで30年も待ったついでに、いつかどこの古書市で入手するのもよいと考えた。正直なところ、本があまりに増え、もう置き場所がないのが買わなかった一番の理由だ。それに、会場では充分に絵を鑑賞したし、縮小印刷した図版ではやはり実物にはかなわない。実物の印象を大切にしたいのであれば図録を買わない方がよいと言える。さて、会場に古径の写生に関するなかなかいい言葉があった。それは前述した昔読んだ本にも書いてあったと思う。古径はまず何かを見て、それがこちらに訴えかけて来る感じを充分汲み取った後で写生をするのが大切であって、写生だけ無闇に行なっても、描かれたそれが何も訴えかけて来なければ意味がないとしている。これは重要なことだ。絵とは何か、その本質を語っているからだ。花でも人でも風景でも、何かムードを持っていて、それを見つめる人の心の中に入り込んで来るが、そうした対象との個人的対話の契機を経て、それを絵として画面上に再構成するのが画家の役目だ。当然、その何かのムード、ムードの何かは言葉にはならなかったり、また単純な一言で代表されるようなものでもないはずで、絵もそれにつれて謎めいたものになるだろう。さきほど古径の絵は恐いと書いたが、古径の絵はどちらかと言えば単純明快であるのに、観ていると、それとは反対の複雑な内面が渦巻いているように迫って来る。明確な輪郭線によって迷いなく形が構成されているのに、幻想的な気配を漂わせている。これは村上華岳の絵がぼかしを多用して幻想味をかもし出しているのとは全く違う方法によるもので、華岳の絵が精神的とよく言われるのと比べて、古径は仙人ぶるところがなく、もっと日常の卑近なものに立脚しながら堂々と正面切って勝負していてなお精神性が高くて好きだ。それは何か対象を見つめながら、その対象が内在する本性と言うべきものを感じ取ろうとした古径の眼差しのなせる技だ。
古径の師は梶田半古で、古径の古は師からもらった一字だが、「小林古径」にはKの音が3つあり、またシ(SH)という激しい音もあるため、小林古径という名前はそのままで厳しく固い印象を師以上に与える。それに「古い道」を意味する名前は、古典の勉強を経て、それを自分の技術に活かした古径としては、実に名前が生き方を示してふさわしかったと思える。それはいいとして、梶田半古はなかなかいい師であったようで、歴史画を描く時、鞍や鎧など実物を目の前にして描かせたという。この実物主義は本物に勝るものはないという点で決定的な経験で、晩年の古径が鉢や壺、あるいは唐時代の陶俑などの古美術品を題材に描く時、全部本物を使っていたことは絵からすぐにわかる。また、そうした高価な美術品を手元に置いて愛でることが出来るほどの経済的余裕が晩年の古径にはあったこともわかるが、安定した生活があってこそ安心して絵も描けるから、別に意地悪から言うのではないが、古径の静物画がだんだんと金持ち趣味に接近し、場合によっては大味でわかりやすい絵が量産されたことも伝わった。有名画家といえども売り絵を描く必要があるから、それはいたし方のないことだが、古径自身、「あまり下絵を苦心して描かなくても、たくさん写生をして来たおかげで、今では本絵をすぐに描けるようになった」といったように語っていて、気を抜いて描いたものではなく、それだけ自由自在に描ける境地に至ったと考えるべきなのだろう。だが、何枚もの下絵で充分推敲し、本絵を真剣勝負的に苦心して描く絵にこそ古径の真骨頂がある。代表作はそうした絵の中から数えたい。
晩年の61歳に「馬郎婦」という面白い作品があった。これは唐美人を描いたものだが、髪型や顔の筆致などは陶俑を参考にしており、陶俑を眺めている間にそれを生きているような人物画にすることを思いついたのであろう。唐時代の陶俑は形がさまざまあるが、腰が非常に細くくびれて、ほとんど左右対称に近い形をしているものがある。それは厳しく艶めかしい表情をしており、土人形としては稀に見る卓抜で完成した様式的造形だが、それに目を止めた古径の心を思ってみる。だいたい人形の美がわかるようになるのは中年以降になってからと言ってよいが、古径がそうした古美術に興味を抱くようになったのは必然と思える。古径には子どもを含めて女を描いた作品が多い。そうした女性の顔はみな凛々しくて美人だが、わずかな線描とほんのりとした紅を使用して女性の顔を描く場合、行きつくところは人形の顔ではないだろうか。古径のような影をつけない平面的な表現は、人形の面相を描くこととあまり距離がないからだ。そしてヨーロッパを旅して学ぶ経験も持つほどの古径は、古今を問わず古典絵画をよく学び、理想的な美人顔を追い求めている時に出会ったそのひとつが、正倉院に伝来する唐美人図の屏風における表現であることは充分に考えられるし、そこに至ると、唐の陶俑に関心が向くのはすぐだ。「馬郎婦」は唐の陶俑をじっくり学んだ後に、また現実の女性に関心が戻り、その合成のような形で描かれたものだ。人形の顔をじっくりと見ていると遙かな気にさせられると同時に時には気味悪くもなるが、「馬郎婦」は人形であって人間でもある二重性が宿り、それは新たな幻想表現を得ているとも言える。この傾向はさらに進んで、果物鉢を手にしてもうひとりの婦人に対面する婦人を描く絵では、鉢を持つその婦人の顔がまるで人形のように多くの表情を合わせ持った独特のものとして描かれる。それは美人とかいう月並みな表現を越えて、古径しか描かない、描けないような人形的な顔なのだ。本物をじっくりと見て写生するという師の教えがついに独自の境地に辿り着かせた。
古径の絵の本質は線にあるようなことを書いたが、実は稀なカラリストでもある。これは安田靫彦、前田青邨と比べるとよくわかる。何と言っても古径が最も華麗で、どのような色にも染まる柔軟性がある。切手にもなった有名な「髪」における紺の縦縞模様のキモノや黒髪、ほんのりピンクの肌色のコントラストはもとより、初期の絵でも、中心人物たちの背後にごくわずかに桃色の華曼草が覗いていたりして、画面の隅々まで色の取り合わせの緊張感で満たす描き方は終生変わらなかった。今回の展覧会のポスターやチラシに採り上げられた、絵巻物「竹取物語」の最後当たりの場面である、かぐや姫が20数名の天の使いに伴われて空を飛んでいるところを描いたものは、空中に浮かぶ散華や雲のリズム感と暖色、寒色の絶妙な配色が相まって、古径が生涯に描いた代表作の中でもほとんど頂点のひとつと言ってよい仕上がりになっている。それは一見したところ、よくある童話の挿絵のようだが、陳腐な絵本挿絵には求められない色気と高雅さが横溢する。高さは50センチもないと思うが、あまり大きいとは言えない絵であるのに、まるで壁画に拡大しても充分耐えうる大きさがある。それにこの絵における幻想性はどうだ。天女を描けばだいたい幻想的に見えるのは確かだが、もはやこの世のものとは思えない、天国に壁画があるとすればきっとこういう絵であるに違いないと思わせるものがある。同じように素晴らしいのは道成寺縁起に取材した『清姫』のいくつかのシーンだ。そこには近代日本画が辿り着いた最高の美が表現されていると言っても過言ではない。日本の絵が伝えて来たありとあらゆるものをすべて一手に引き受けて、それを新しい時代の中で見事に再生し得た手腕は、今後数百年は讃えられ続けるに違いない。