護煕の煕という漢字を出すのに苦労する。いつも「パク・チョンヒ」という韓国のかつての大統領名をGOOGLEで検索し、それで朴正煕の煕をコピー・アンド・ペイストする。今回もそうした。
この文字は日本ではめったに使わない。「護煕」と書いてどう読むのかも、今日取り上げる展覧会の会場に行くまで知らなかった。これは「もりひろ」と読む。今、京都国立博物館で『細川家の至宝展』が開催中で、筆者はまだ見ていないが、それに合わせて今日取り上げる展覧会が開催されたのだろう。また、東京では同じ細川護煕の山水画展が開催中で、これらはみな2,3年前から計画されていたのだろう。細川一挙売り出しといった感じだ。『細川家の至宝展』を見に行っていないのは、昔同じ博物館で開催されたのを見たからだ。図録を引っ張り出すと、昭和56年(1981)で、『細川家コレクション 東洋美術』となっている。ということは西洋美術もそこそこコレクションしているのだろうか。だが、それは聞かない。『細川家の至宝展』をあまり見たくないと思ったのは、近年の特徴だが、チラシやポスターのデザインがふざけ過ぎで、しかもかなり才能のないデザイナーが手がけたと思えるからだ。パソコン時代になって、作品の図版をやたらあちこち貼りつけるチラシとポスターのデザインが増えた。それらがみな時代に遅れに見える。もうそろそろ昔のように、きちんとした文字だけで見せる方向に戻るべきだろう。パソコンで出来るからといえ、あまりにも安易にいくつもの図版をべたべたと意味もなく貼りつけては、全体のイメージが下品になる。それはさておいて、細川護煕が総理大臣を辞めた後、陶芸などに勤しんでいることを雑誌で読んだのはいつだろう。その雑誌が何であったかも思い出せないが、辻村史朗という奈良在住の陶芸家の指導を受けていることをその雑誌で知った。その記事では辻村氏をかなり持ち上げていたが、筆者はこの陶芸家についての知識がない。先ほど初めてネットで少し調べると、最初は洋画家を目指し、陶芸に転じて師に就かずに活動して来たらしい。そして、海外でも大きな人気を得ているとあった。知らないのは筆者だけか。その後、細川護煕について触れることがあった。去年2月下旬、地元の松尾の山を歩いた際、苔寺の裏手に下りた。その足で地蔵院に行った。そこは細川家に因む寺で、足利義満を補佐して管領家を開いた細川頼之の墓がある。それを詣でるために細川護煕は京都に来た時は必ず地蔵院を訪れているそうで、そうしたことを記した雑誌記事のコピーが本堂の隅に貼られていた。地蔵院はわが家からは徒歩の距離にあるが、山手でもあって、めったにその付近は歩かない。観光客の方がよく知っているかもしれない。ともかく、細川護煕が地蔵院をよく訪れることを知り、親しみのようなものが湧いた。その作陶と書などの展覧会が神戸の香雪美術館で開催されると知り、これは見ておこうと思った。細川がどういう作品を作るのかという関心以外に、この美術館をまだ見たことがなかったのでちょうどいい機会と思った。そう言えば神戸や芦屋にはたくさんの美術館があるが、半分も行っていないと思う。山手をバスに乗って20分ほどと聞くと、もう出かける気になれないからだ。よほど興味をそそる展覧会があれば別だが。
香雪美術館の名前は昔から知っていたが、筆者にとって興味深い特別展が開催されたことはなかった。阪急の御影駅で降りて東へすぐで、御影駅にはここ数年の間に一度降りたことがある。駅前にケルンという名前の洋菓子屋があることをはっきりと記憶する。なぜ降りたのか思い出せないが、駅前を歩いたことは確かだ。本展を見るために先月30日の日曜日、地元の自治連合会の合同防災訓練が終わった後、家内と出かけ、駅前を降りた途端に辺りに見覚えがあることを思い出した。話が先走るが、本展を見た後、別の展覧会を見るために阪神電車に乗ろうと考え、雨の中を南に歩いた。御影で知っているのはどうやら駅前付近のみで、香雪美術館の付近や、またそこから阪神電車の最寄りの駅までの道は初めてであった。どう歩いていいかわからず、向こうからやって来た40歳ほどの知的な雰囲気の男性に道を訊いた。すると、大きなビルを示され、それを目当てに歩けばいいと教えられた。そのビルは見覚えがある。阪神御影駅前のビルだ。その付近ではそのビルだけ以上に背が高く突出しているため、迷子になる可能性はゼロだ。これもどうでもいいついでに書いておくと、香雪美術館に行った後に見るつもりであった展覧会は、電車に乗っている間に、駅から走っても閉館まで20分しかない時間になった。それで断念した。そのため、近日中にまた神戸方面に出る必要がある。一方で滋賀にも1日かけて行く予定があり、展覧会の感想ネタはたまる一方だ。それもあって、今日は本展について書いておこうと考えた。さて、細川護煕の陶芸と書だ。なかなか器用な人で予想とは違ったが、当たっていた部分も多い。ひとことでどう言えばいいか。会場で思ったことは、まず「幸福な人」だ。そういう人の作品を見るのは気分がいい。芸術は人を気分よくすることが大きな目的で、そういう芸術は気分がいい人が作る。そのため、芸術家はいつも気分よく過ごすことを心がけねばならない。総理大臣を早々と辞めて自分の好きな道に勤しむのはなかなか勇気がある。それは無責任と言われるかもしれないが、今回会場にたくさんの文章があって、それによると熊本の知事時代から政治の世界を引退した後は陶芸をやることに決めていたとあった。だが、周囲から持ち上げられ、総理を務めることになった。派閥のある世界で、いやでもそういう役割を引き受けねばならないこともあるだろう。管総理が辞めた後、また四国の巡礼を始めた。それを筆者は好ましい姿と思う。総理とはいえ、人間であり、権力の座にしがみ続けるばかりが幸福とは限らない。もちろんそういう政治家もあるが、誰が総理になってもかまわないようになっている今の日本では、細川護煕のようなタイプがかえってまともで、人間らしい。
ところが総理であった人物が作陶をすると、どうしてもそのことがついて回る。それがいいように作用する場合と、その反対の場合がある。それは人さまざまであるからで、総理の経験者であるから常人にはない器の大きさを感じると言う人と、総理の看板は作家としての箔づけに利用しているだけで、総理をしたような人物が本物の芸術家になれるはずがないという見方だ。そこに師に就かずに陶芸家として名を成している辻村史朗を対比させてもいい。だが、筆者はふたりは別の個性で、どちらの芸術が上とか下というものではないと考える。辻村氏にしても、その無頼のイメージが売りになっていて、作品を売って名を出そうとする限りにおいて、どっちが純粋でどっちの芸術が大きいということは問えない。また、両人を認める人と、両人とも認めない人があるはずで、こうしたことは歴史の審判に委ねるしかない。このふたりの話になったのでもう少し書く。会場の随所にあった細川の言葉の中に、一種辻村批判とも思えるものがあった。細川は辻村に学びはしたが、ほかの陶芸家にも学んでいて、自分が必要とするものはどんどん他人から教わるという姿勢だ。これは作品づくりを始めたのが遅いこともあって合理的な考えだ。辻村氏のように独学で陶芸をやるとなると、60歳を越えて始めれば、いつになればひとまず満足の行く作品が出来るかわからない。辻村氏は最初はなかなか細川を評価しなかったようだが、食い下がる様子を見てそのしつこさは認めた。一方、細川は辻村をどう思ったかだが、辻村が轆轤を少しでも速く回転させ、1日に1000個もの茶碗を作ることに対し、細川は1000個も作ってどうするのかと疑問に思い、自分は出来るだけ遅く回転させ、そして嫌味が出ない程度に最後に少し器に歪みをつけると書いていた。これは辻村氏がまず完璧な職人的な技を身につけ、その果てに誰も真似の出来ない境地の作品が生まれ得ると考えることに対し、細川は轆轤による陶芸一本をやり続けたいのではなく、ひとつづつを丁寧に作る考えを持っていることを示すだろう。これはどちらの姿も正しく、朝鮮の無名の貧しい陶工がひたすら轆轤を回して茶碗を作った姿を想う辻村と、そうした下手の茶碗を名器と称えて評価した光悦に近づきたいと考える細川と考えればよい。だが辛口の意見を言えば、井戸茶碗の名器も光悦に匹敵する名器も、果たして現在作り得るだろうか。筆者はかなり否定的だ。辻村が1日に1000個の茶碗を轆轤を回して作り、その数が朝鮮の無名の陶工以上の量を超えても、その作が井戸茶碗の名器を越える保証はどこにもない。名品は技術だけではないのだ。いくら技術が上達しても時代を超えることは出来ない。井戸茶碗を生んだ時代と今は違う。とくに日本ではそうと思える。だが、ここにも反論はあろう。200年や300年、そして日本と朝鮮では何も大して変化がないと思う人があるとして、その考えも全く滑稽とは言えない。では、井戸茶碗が無名の陶工の、全く名器など作ろうとは思いもよらなかった人物の手になる作品であるのに対して、個展を各地で開催し、名を挙げてそれなりに高価で作品を販売する辻村の場合、その作品に井戸茶碗の名器に匹敵する宇宙が現われ得るか。これも時代を経てみないことには何とも言えないが、井戸茶碗の名器に匹敵するようなものを作ってやろうという考えに筆者は興味がない。それはどこまで行っても模倣に終わるだろう。その模倣の中にそれなりの豪放さは表現され得るが、それだけのことで、井戸茶碗を超えることは不可能だ。似てはいるが別のものしか生まれない。そして、それを積極的に評価するしかない。
おそらく細川はそのように最初から思い、手すさびと言えば語弊があるが、光悦のように、美しい工芸の世界に自分を浸しておきたいと願っているのだろう。それは、無数に作れば自ずとそこに神がかりな何かが宿り得るということを否定しているのではないが、自分はそうする時間も、またひとつのことにかかわり合っている暇はないという思いがあって、陶芸を深めるのはほかの美への追及と、そして生活を清潔なものに保つならば自然と作品にそれが宿るという思いがあるのではないか。筆者は辻村氏のようにとにかく誰も及ばないような仕事量を誇ることは好きで、どちらかと言えば自分もそういうタイプだと思っている。だが、細川と同様、あるひとつのことだけを追求することに耐えられず、自然と興味が湧いたものには手を染めたい思いがある。つまり、筆者は辻村と細川のちょうど間のタイプだ。それが器用貧乏という言葉で代表されることをよく自覚するが、もう今さらどうしようもない。さて、会場では当然辻村氏の作品は皆無で、その写真すらなかった。また、作品を全部見た後でわかったが、細川の作品やグッズは、株式会社組織で販売されている。そこは辻村氏もそうだが、金儲けに関してはどちらもしたたかなところがある。こればかりは筆者には皆無で、そのためこの年齢まで無名どころか、作品は売れる見込みがさっぱりない。有名になるには、どう売るかという、巧みな販売手法がなくてはならない。作品がいくらよくても売る姿勢が人に伝わらねば名が知られることはない。逆に言えば、大したことのない作品でも、巧みな宣伝によって、世の中に大勢いるぼんくらが札束を切る。それはいいとして、作家が世に出ようとする時、どういう売り文句を作るかが大事で、辻村も細川もその点はなかなか見事だ。当然細川は代々の名家の当主であり、また総理大臣でもあったので、その作品を買う人は、そのことを人に自慢しやすい。作品は所蔵者が他人に対してどういう自慢が出来るかで価値が決まる。それはたいていの場合は作品の価格で、辻村氏の作品が高価であるのは正しい姿勢だ。ただでやると言われると、誰もそれを大切にしない。細川の作品の価格が気になったが、京都の有名な美術骨董商の店で販売会が開催されるとのはがきが会場に置いてあった。そこには素朴な石仏を土で焼いた作品の写真が使用されていたが、なかなか好感の持てるものであった。いやらしさがないと言えばいいが、これは細川の作品全般に言える。品のよさ、あるいは女性的と言い換えてもいい。書も禅僧のような凄みはないが、ちょっと子どもっぽい公家が書いたような気品がある。また、自分で染めた紙を表具に用いたりしていて、それは素朴、あるいは安っぽい味わいがあって、全部手作りしなければ気が済まない細川の性質をよく表わしている。
この何でも手がけてみたい細川の思いは、漆への関心にも出ている。茶碗が欠けた時に漆で補修してもらったところ、驚くほど高かったので、以降自分で漆を持つようになったという。そして、漆に魅せられ、漆で絵を描くようにもなった。そうした作品も2,3点出ていた。水墨画もやるそうで、そうした作品は今回はほとんどなかったが、いずれ関西では展示の機会があるだろう。陶芸は唐津や萩、信楽、楽など、幅が広く、今後もっと広がるかもしれない。このように自分の思うところのものを全部手がけられるのは幸福だ。それは金の力が大きいか。それを見せつけれらたのは、祖母が住んでいた神奈川県の湯河原の別荘を赤瀬川源平らの協力を得て改装し、そこに工房と茶室をかまえたことだ。茶室は樹木上の大きな巣といった格好で、その外観と内部の写真があった。設計者に床暖や照明の注文をつけたそうで、居心地のいい空間になっているようだ。その程度の建物なら現在の日本では定年を迎えたサラリーマンでも充分手に出来るだろうが、金に全く無縁の筆者には想像を絶する贅沢に見える。さて、最後に香雪美術館について。香雪は朝日新聞の創設者村山龍平の号で、村上が収集した古美術を展示するのがこの美術館だ。本展が朝日新聞社と同館の主催になっているのは、その関係と、細川が大学を出た後すぐ、朝日新聞社に入社したことによるだろう。同館の前の道路は隣の弓弦羽(ゆづるは)神社からつながって趣がある。建物の外観は肌色で、鉄筋コンクリートの寺のような雰囲気があり、樹木の多い庭に囲まれているが、上に掲げたパノラマ写真は、玄関から庭を見たところだ。常設展示は別の棟にあるかと想像したが、ほぼ真四角な展示室が1階と2階にひとつずつあるのみで、常設展示は1階の隅に中国の仏像が2体のみであった。雨天にもかかわらず、大勢の人が来ていた。大半は60、70代の婦人で、上品そうな人が多いのは言うまでもないが、何人かの携帯電話が盛んに鳴り、堂々と大声で展示室内で話を続ける姿に閉口した。数人いた若い女性係員がそれを注意しないのはどういうことか。筆者がしてもよかったが、その気が萎えるほどに次々とかかって来てはしゃべるを繰り返した。上品そうなのは外見だけで、中身はさっぱり美術鑑賞には向いていないが、本人たちは教養豊かと信じて疑っていない。そうしたお金持ちの婦人が自慢のために競いで細川の茶器を買うのかもしれない。身分の低い、無名の陶工が名品を作ろうとは考えずに作った膨大な飯茶碗から井戸茶碗の名品が生まれた。その鑑識眼は何とも皮肉に満ちて思える一方、それが全く正しい真実の見方であると納得出来る。柳宗悦はそこに健康な美を見たが、病みに病んでいる現代の日本で健康な美とはいったい何か。それがわかったとして、それを生むことが可能だろうか。克己の努力や家柄による気質といったものと無縁のところで、人知れずにそういう美はあるのかもしれない。