似たり貝ならぬ、似たり柿という題名にしようかと思ったが、すでに似たり柿には別の意味があることが、今調べてわかった。それで最初に思いついた「変態柿」にしておく。
昨日は大変な雨にもかかわらず、市バスに乗って市内各所を用事で周った。夕方になると雨が上がるかと思っていると、その反対にひどくなった。午後7時半頃に松尾橋のふたつ手前のバス停で降りて、トモイチとムーギョで買い物をすると、傘を持つ手が重かった。というのは、すでに柿を10個ほど買い、また思いデジカメも持っていたからだ。傘を持つ必要がなければ、いつもどおりに両手に思い買い物袋を提げて嵐山の自宅まで歩くのは苦痛ではないが、傘を差すとなると、手が3本必要だ。それを2本で済ますとなると、どうしても無理が出る。そのような重くて不自由な状態で家まで30分も歩くのは大変なので、最終停留所の松尾橋までそのまま乗って、買い物をせずに帰宅すればよかったが、たぶん食材があまりないと思い、スーパーに立ち寄った。それはそうと、松尾橋のバス停は最近東寄りに50メートルほど移動した。マンションが建つので、以前の場所は邪魔と思われたのだろう。東へ少し移動したため、終点まで乗った場合、筆者は自宅に帰るまでその移動分をよけいに歩くことになった。これが何となく損をした気分だ。話を戻して、スーパーに立ち寄る前にすでにふたつの袋を提げていた。ひとつは百貨店の紙袋で、これが買い物を済ました後、松尾橋の手前まで来た時に、雨で濡れて手提げの輪の部分がごっそりとちぎれた。仕方なくその袋を胸の前に左手で支え、右手の肘にもうひとつの袋と傘を持って歩くことにした。阪急の松尾駅から電車で一駅乗れば帰宅はうんと楽だが、電車賃がもったいない。それに電車を待っている間に家に着く。トモイチとムーギョ・モンガで買い物をしたのに、袋の数がふたつのままになったのは、ふたつの袋に買い物を分散して入れたからだ。もちろん重さは買い物をしたために倍になった。その重さの中で一番重かったのは午後3時半に買った柿だ。10個ほど入っているものを二袋買い、ひとつは手土産にした。柿の手土産とは冴えないが、雨のため、あまりあちこち周る気になれず、また時間もなかった。その柿を買ったのは、府立大学前のバス停前にある果物や野菜を売っている店で、ここでは年に何回か買う。バス停前で便利なことと、安いからだが、もちろんわざわざ行くのではなく、ついでだ。北大路通りの府立大学前でバスを降りて北に歩くと、1キロほど先にコンサート・ホール、その北隣に府立総合資料館がある。そこによく調べものをしに行く。そして、その帰りに府立大学前のバス停前の野菜果物屋に立ち寄って買う。季節のものをいつも並べていて、昨日は果物はいちじくと柿しかなかった。イチジクはバスを乗り降りしている間にきっと形が崩れる。それで硬い柿にした。だが、柿は今はスーパーでかなり安く売っているので、手土産にしても喜ばれないだろう。それを知りながらも、何も持って行かないのは気が引ける。また、筆者は柿が好きで、自分用にも同じものを一袋買った。この二袋がかなり重かった。
店にはいつもと違って、50代半ばの婦人が店番をしていた。柿はたくさん種類がある。どれがおいしいのかわからない。たぶん値段の上下が味の上下だろう。どれも似た価格だったので、店先に最も多く積まれているものを買った。奥に入ると、熟し過ぎてほとんど崩れた大きな柿を6個パックにしたものを売っていた。そういう柔らかいものも好きだが、それを買うと、イチジク以上に崩れて袋の中がどろどろになってしまう。支払いをしようとして、ふと目の前の棚を見ると、表面に黒のマジックで数字やらを書いた小さな柿が数個放置されていた。規格外で、商品にならないのだ。それでメモ代わりに使っているらしい。柿の表面にいくつも文字を乱雑に書き込んでいる状態はかなり奇妙だ。それよりもっと奇妙であったのは、その隣に並んでいたふたつの柿だ。サイズは売られているものと同じだが、ひとつはペニスのような突起がある。もうひとつは女性の尻のように幅がやたら広く、全体がふたつに割れている。これも商品にならない。あまりに面白い形なので、ふたつ並べて写真を撮らせてもらった。店主の婦人は笑いながら、「もっと面白い形のものがあったんだけど、どこへやったかな……」と言いながら探してくれたが、見つからない。ともかく買った二袋を手にし、おつりをもらった時、「どっちかひとつ持って行っていいよ」と言われた。さて、どっちがいいかと迷うと、「二個とも持って行っていいよ」と言われた。言葉に甘えてその2個を柿の入った袋に放り込んだ。それから次の目的地にバスで向かった。東大路通りは雨でも秋の行楽シーズンに入っていて、大渋滞だ。これは毎年のことで、しかも毎年筆者はその大渋滞のバスに乗ってしまう。これに当たると、知恩院前から五条坂までの3キロほどが、1時間ほどかかる場合がある。約束の時間に1時間も遅れて着いたが、留守のようだ。出かけないと言われていたが、1時間も遅れると、買い物に出かけたかもしれない。それで重い柿の二袋を持ち、傘を差してまた雨の中を帰らねばならないのかとがっくりした。念のため、近所の娘さん宅に立ち寄った。そして、そこから電話で確認してもらったところ、留守ではなく、ドア・フォンがたまに鳴らないことがあって、気づかなかったことがわかった。また戻って、家に上げてもらい、そこで1時間ほど話をした。またバスに乗り、西院で乗り換えて松尾橋に向かった。その後のことは先に書いた。さて、昨日はカメラを持って出た割りに、写すべき何かにあまり出会えなかった。こう書きながら、実は撮りためた写真があって、それをいつどういう形でこのブログに載せようかと思っていることを思い出している。今日はそういう写真を少し消化するのにいい機会と思いながら、結局昨日撮った写真を載せるのであるから、在庫処分にはならない。それはさておき、昨日は総合資料館に向かいながら、歩道上にえらく鮮やかな紐状のものを見た。しゃがんで近くで見ると、青虫だ。何の蝶か蛾かは知らない。調べればわかるが、面倒なのでこのまま書く。歩道の幅の中央にいて、そのままではきっと通行人に踏まれる。それで指でつまんで横手の茂みに置いてやったが、つまんだ拍子に盛んくねくねした。その感触が実に生々しく、ふと女性の裸体を思った。人間は芋虫とさほど変わらない。
青虫の写真を撮り、資料館で調べものをさっさと済ませ、同じ道をバス停まで戻った。途中で青虫を移動させた場所を探しながら、それがどこかわからない。一直線に長く延びるその歩道は、かなりの部分がみな同じ茂みが続く。青虫が羽化してくれればいいなと思いながら、買い物を決めていた野菜果物屋の前に来た。そして、そこからは先に書いたとおりだ。柿が手土産にはふさわしくないというのは、安物であるからだ。今年癌で亡くなった筆者の従妹の主人は福知山の出身で、少年時代はずっとおやつと言えば柿で、大人になってからは二度と口にしたくないと思い、実際そうして来たと言っていた。田舎を知らない筆者にはそういう思いがわからない。柿はけっこうおいしいと思うからだ。だが、嵐山のわが家の付近でも、どの旧家にも柿の木があり、毎年数百個の実をつける。大きな木であれば1000は軽く越えるはずだ。それを全部自宅で食べるのであれば、食べ尽くすことは不可能で、嫌いになるのは無理もない。昨日筆者が柿を持参した人の生まれは城崎で、おそらく柿はうんざりするものであるだろう。昨日はそのことを訊かずに1時間ほど話したが、柿の手土産は迷惑であったかもしれない。その柿をさきほどひとつ食べた。家内は味があまりないと言うが、筆者はおいしい。これは、つまり家内以上に柿が好きであるからだろう。また、干し柿も好物で、これからまたたくさん食べられると思うと何だか楽しい。昨日もらった雄と雌の柿を取り出してまた撮影した。店の中とは違って、二個を交尾させてみた。全く似たり貝ならぬ、似たり柿で、どの柿もこのように奇形であれば面白い。「あ、この変態柿は雄だけど、ちんちんがでかいぞ」「あら大変、この雌の柿はえらく穴が大きく開いているよ」「どれどれ、それではふたつをはめっこしてみよう」などと、面白く遊ぶことも出来るし、子どもには性教育にももって来いではないか。こんなことを想像するのは、変態か。それにしても、店の婦人が言っていた、もっと面白い形の柿とはどういうものか。筆者が想像するに、きっと両性具有で、片方に大きな突起があり、もう片方には大きな穴が開いているのではないか。柿に雌雄の形が現われるとは、なかなか想像を超えた出来事だ。自然の想像力は人間をはるかに超越している。