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●『ピアノの森』
金が何でも値上がりする昨今で、京都国際マンガ・ミュージアムはいつの間には大人500円が800円になっていた。この調子では1000円になるのは時間の問題だ。久しぶりに先月の14日に行って来た。



開館当初、筆者は勝手にこの施設をKYOTO KOKUSAI MANAGA MUSEUMの4つの頭文字を並べて「KKMM」、つまり、「ククムム」と呼んでいたが、14日に行った時、MANAGA MUSEUMの頭文字を取って「MM(エムエム)」と呼ばれていることに気づいた。それはいいとして、ここに訪れたのは、ふたつの目的があった。そのひとつに関して今日は書く。10月のかかり、ザッパの新譜『Feeding The Monkies At Ma Maison』が発売された時、アメリカ在住の大西さんとメールのやり取りをした。その際、大西さんはニューヨークの図書館で借りて読んでいる日本の漫画について少し書いて来た。ザッパの新譜がその漫画を読んでいる時にちょうど似合う雰囲気だと言うのだ。それで気になって、早速読んでみたいと思った。それには漫画を何万冊か置くククムムに行くに限る。ちょうどそこで見たい展覧会をやっていたので、そのついでに読もうと思った。ネットで調べると20巻まで出ているらしいが、完結しておらず、いつまで発刊されるかわからない。全巻を読まないでこのカテゴリーに感想を書くことはいささかはばかられるが、20巻も読めばだいたいこの漫画の価値はわかると考えて差し支えないだろう。それで書くことにしたが、昨日は津愁という架空の場所に松の森があることを書いたので、そのつながりとしてもよい。松の森の夢を見たのは、目覚めている時に意識したためではないが、案外この漫画を読んだためかもしれない。それはさておき、ククムムで展覧会を見た後、すぐに端末装置でこの漫画を調べると、3階のA棚にあることがわかり、エレベーターに乗ってその書架に行った。すぐに見つかったのはいいが、9巻までしかない。その日は6時の閉館までもう2時間半ほどしかなかったので、9巻でちょうどよかった。ともかく、本があった棚のすぐ前のストゥールに座って読み始めた。BGMはピアノ曲だ。クラシックであったが、さて誰の曲だったろう。いろいろかかっていたし、またひとりの音楽家の曲だけではなかった。ともかくその静かな音楽を意識せずに耳に流し込みながら、漫画に没頭することが出来た。外は大雨で、来場者は比較的少なく、全9巻を読んでいる間、筆者の前を通り過ぎたのは、外国の知的そうな女性ふたりと、眼鏡をかけた20代前半のそそっかしいサラリーマンらしき男、それに係員の若い男性といったところで、ほとんど気分を邪魔されずに漫画の世界に浸ることが出来た。読んでいる間、寒さもあってか、鼻をずるずる言わせて何度もかんだ。ティッシュがなくなり、ついにはすぐ左にあったトイレに駆け込み、そこでトイレット・ペーパーをちぎって使用した。正直に言えば、洟汁が出て困ったのは、半分ほどは漫画が感動的であったからだ。9巻を読み終えると、閉館間際の5時45分過ぎになっていた。読み終えると用はない。それですっかり暗くなった夕暮れ、しかも大雨の中を四条烏丸まで歩き、そこから電車に乗って帰った。確か何年か前に開館して初めて行った時も同じような雨であったし、その後も雨に訪れたことがある。
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 さて、9巻まで読むと続きが気になる。どうしたものか。まず先日、自転車のタイヤ修理用品を買いに行った時、すぐ近くの漫画市場という漫画専門店に行った。すると、全巻はそろっておらず、しかも1冊300円ほどと高い。それでネット・オークションで買うしかない。20巻セットをうまく落札出来て、早速残りの11冊を読み終えたが、最初の9巻でこの漫画の本質は全部わかると言ってよい。また、話の展開が早いようで、かなりのろい部分もあり、この調子では100巻でも話を続けることが出来る。ネットで調べると、1998年に連載が始まり、途中数年のブランクを挟みながら、現在も雑誌に不定期で発表されているらしい。一方、漫画が好評で、アニメ映画まで作られたという。大西さんのメールで知るまでこういう漫画があることさえ知らず、筆者の興味がよほど偏っていることがわかるだろう。以前に何度も書いたように、筆者は漫画を中学生になる時に意識して卒業を決め、自分の関心から除外した。そのため、こうして漫画をまとめて読むのは本当に久しぶりだ。結果を言えば、漫画を見直したという気分にはなれなかった。漫画は漫画であり、それ以上のものでは決してない。「ああ面白かった」でおしまいで、さっさと次の関心事に気が移る。それでいいのだ。だが、せっかく大西さんに教えてもらい、また20巻を買ったのであるから、感想を書いておきたい。何から書けばいいか、あれもこれも迷うが、まず作者の一色まことという名前は初めて知る。他の漫画も描いているようだが、描画技術はどうなのだろう。これも以前に書いたが、日本の1960年代以降の漫画は、それまでに有名になった漫画家のどれかのタッチに似るか、それらを混ぜたもの、あるいはヘタウマと呼ばれるタイプのものに分かれ、筆者が斬新と思うものはない。漫画を読まずしてなぜわかるかと言われそうだが、60年代以降の漫画家はそれまでの漫画を模倣して漫画家になった人が中心で、いわばマニエラをまず最初に手中にした。そして、そこから自己独特のものを生み出すというしんどい道を歩まず、過去の巨匠から学んだマニエラをそのまま駆使して、ストーリーに斬新なものを見出そうという道に進んでいると思える。現在の若手の有名どころの漫画の原画を見せる展覧会が、このククムムで以前ああった。正直なところ、がっかりした。確かに細かくていねいに、また色鮮やかに描いてはいるが、独創と呼べる斬新なタイプのものは皆無で、全体に力が感じられなかった。それは当然で、日本の漫画は20世紀後半はすぐにマニエリスムに突入し、それをいまだに脱しておらず、また永遠に脱することは出来ないだろう。それと同じく、この『ピアノの森』という作品も、一言すれば、画風はどこかで見た感じが強く、そこにやや写実的な要素を混ぜたコマが目立つ、あるいは、逆にギャグ漫画の描画技法をも引用するといった、描画的には混合技法と言ってよい。それだけ勉強して現在の漫画の多くのタッチを知っているとは言えるが、そこから突き抜けたところがない。もっと単純に言えば、B級だ。ただし、B級でもピンからキリまであるが、先に書いたように、時々写実的にていねいに描かれたコマがあって、その点は手抜きをせず、作者が作品に強い思いを込めていることがわかる。ただし、悪い意味で日本の漫画家の典型的な、そして悪い意味での第3,4世の作家で、60年代の漫画をよく知る筆者には、かなり物足りない。
 この漫画の斬新なところは、ピアニストという芸術家を主役にしている点だ。韓国ドラマは必ずと言っていいほど、画家や音楽家が登場し、芸術に因む部分が出て来るが、それは日本のTVドラマにはまず望めない部分で、筆者が韓国ドラマをよく見るのは、そういう日韓の差の原因を知りたいからでもある。ところが、この『ピアノの森』は、いきなりクラシック音楽をテーマにした内容として始まり、そこが筆者には驚きであった。漫画を好む人種がクラシック音楽をまともに聴くとはなかなか思えないからだが、それは漫画の「漫」という意味が「クラシック」すなわち「古典」とは正反対の概念であるからだ。「冗漫さ」はありふれているが、そういう世界とは一線を画したところに、古典芸術は存在している。これは今でもそうだ。だが一方で、古典は現在人が充分楽しむことが出来る点において古典であって、誰も楽しめないのであれば、それは無用の物だ。となると、古典も気楽に現在人が理解出来て楽しめるものと思ってかまわないし、むしろそうあるべきだ。ごくごく一部の人だけが古典を楽しむのではないし、古典がそのようにわずかな人にしか理解されないものであれば、古典などなくてもちっとも人類は不便ではない。だが、そうとはいえ、古典を侮るとこれも間違いで、奥はどこまでも深い。そのため、クラシック音楽ファンは、同じ曲を何人、何十人もの演奏家や指揮者のものと聴き比べ、その違いを楽しむ。だが、それをしてもまだ一人前ではなく、本当は自分で演奏するところまで行かねば、古典曲の真髄は理解出来ないだろう。とはいえ、これは極論で、そんな専門家にならずに、ごく気軽にクラシック音楽を聴き、その瞬間だけでもうっとり出来るのであればそれでよいという意見もある。そういう双方の楽しみ方をこの『ピアノの森』は教えているようなところがあるる。巻数が進むにつれて専門的な話の比重が大きくなり、クラシック・ファンは喜ぶかもしれないが、漫画の基調は、簡単に言えば「天才に秀才はかなわない」で、天成の才能賛歌だ。そして、この漫画の面白いところは、天成の才を持つ少年を、10代の少女が産んだ貧しい少年に設定し、しかもその10代の母親は、「森の端」という、ヤクザ者の巣窟のような危ない地域で身を売る女から抜け出ることが出来ない境遇として描き、一方の秀才となる少年を、東京から転校して来た金持ちでしかも父が日本を代表する有名ピアニストの息子としている。天才少年は一ノ瀬海(カイ)で、秀才の方は雨宮修平という名前だが、ふたりは友だちになりながら、修平はカイをずっとライヴァル視し、カイは素直に修平の才能を認めて競争心を一切持たない。この設定が第1巻から現われ、20巻でもなお続く。その意味で第1話から13年にわたって描き続けられているにもかかわらず、作品の基調には変化がない。つまり、核心はぶれていない。また、それだけに退屈なところがある。20巻でなく、10巻でも充分まとめられるのではないか。家内は『北京ヴァイオリン』に似た話のようだと言って、第1巻の途中で放り出してしまったが、『北京ヴァイオリン』の映画はこの漫画が始まって4年後であるから、真似したとすれば中国の方か。ともかく、カイの少年時代からピアニストとして成長し、刺青師の年上女性と結婚の約束を交わす第80話(第10巻に途中)までを第1章としているが、第2章はカイがワルシャワのショパン・コンクールに出演する話が中心になっている。これはかなり話が引き伸ばされて、第何話まで続くやらといった感じで、しかも結婚の約束をした刺青師の女性は東京に残したままでほぼ全く登場しない。第3章があるのかどうか知らないが、ショパン・コンクールで優勝するのかしないのかよりも、ワルシャワから戻ったカイがどういう人生を歩むかだ。そこまで描かれるにはカイが20歳を過ぎる必要があり、またそうなれば漫画の主人公としての役割は色褪せるであろうから、案外すぱっと連載を終えるかもしれない。
 カイと修平を取り巻く人物たちの話がまた面白い。いや、この漫画の面白さはそこに半分以上ある。評論家のぼんくらぶりも風刺気味に描かれるが、そう断罪してしまうと話にふくらみが出ないので、評論家の中にも耳がとてもいいのがいて、カイの演奏を密かに愛し、カイが女装して演奏しているクラブに通ったりする。カイは女性のようなかわいい顔をした青年という設定で、そこは海外では例のない、日本の漫画の大きな特徴だが、女のような美青年というのは実際にはイメージしにくい。話が変わるが、そして、以前にも書いたことがあるが、筆者は20代の頃、数歳下の漫画家志望のある女性から筆者の似顔絵を画用紙いっぱいに大きく描いてもらったことがある。それを見てびっくりしたのは、漫画的なのはいいが、まるでこの『ピアノの森』に出て来るカイを指導する阿字野の若い頃の顔で、簡単に言えば宝塚の男優といった雰囲気で、筆者の顔がそのように女性的なのかと、他人の視線の不可解さを改めて思ったものだ。そういう経験があるので、カイが女と区別がつかない男だとしても、それは漫画での話だと割り切れる。また、先日のネットには、アメリカのアニメ・ファンが日本の漫画たやアニメで不思議に思うもののひとつに、男が筋肉隆々ではなく、女性っぽく描かれていることというのがあった。日本が最先端を行っているのかどうか、女っぽい男というのは今は人気があるのだろうか。筆者の子どもの頃は、それは最も男を蔑む時に使う形容であって、筆者はよくその言葉に泣いた。さて、カイがピアノを弾くようになったのは、森の端のカイの家が森に接して建ち、2階のカイの部屋から下に降りたところが、古い雨ざらしにされたピアノが置いてある場所で、生まれて間もなくカイはそのピアノを弾いてひとりで遊んでいたという設定だ。そのピアノは、かつて将来を嘱望されながらも事故でピアノを演奏出来なくなった有名な若手ピアニスト阿字野壮介のもので、事故後に阿字野は自分のピアノを処分したのだが、まさか森の中に自分のピアノが捨てられたとは思っていなかった。華々しい世界から身を引いた阿字野は、小学校の音楽の先生になっていたが、そこでカイや、転校して来たばかりの雨宮を教える。そして、あまりに耳がカイに驚き、しかも自分が見捨てた鍵盤の重いピアノで子どもの頃から遊んでいたことを知り、本格的にカイを教えようと決心する。最初は反抗的なカイだが、ピアノの腕前の上達を望み、阿字野の言うとおりに訓練に耐え、めきめき腕を上げる。雨宮はそんなカイの演奏が尋常ではなく、自分が真似の出来ないものを持っていることを悟り、東京に戻ってからは、負けん気を出して日本のピアノ・コンクールを総なめにし、その挙句、ショパン・コンクールに参加する。つまり、カイと雨宮は18歳になるまで、顔を合わさないが、雨宮の予想どおり、カイはカイで阿字野の指導によって技術を向上させている。また、阿字野のライヴァルが雨宮の父で、こっちは現役のピアニストとして有名になっているが、阿字野がカイを指導していることに衝撃を受ける。
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 この漫画にはさりげなくだが、随所に含蓄のある話が出て来る。たとえば、雨宮の父が自分がかなわなかった阿字野に対するライヴァル心を、息子にも芽生えさせ、そのあまり息子はそれに打ちひしがれてしまうことだ。そのほかにもいろいろある。たとえば、病気は医者が治すのではなく、自分の意志が治すだ。これは筆者がこのブログで何度も書いていることと同じで、その意味でこの漫画を息子に読ませたいが、クラシック音楽にさっぱり関心がないので、見向きもしないだろう。この漫画における根性物語部分は、文部省推薦にはなるだろうが、何しろカイの母が娼婦であり、しかも今日は何人のしつこい客とやって来たなど、大人向きの赤裸々な話がよく出て来るので、読ませたくない親は多いだろう。その点、アニメ映画ではそういう部分はどうカットしたのかと思う。カイの母がそういう職業であるからか、成長したカイはストリップ劇場の伴奏者としてアルバイトをしながら演奏技術を上達させるという筋立てにもなっているが、世の中で下品と呼ばれる連中でもカイの演奏にうっとりすることを納得させるには、そのような設定が好ましいと作者は判断したのだろう。また、そこには漫画が世間でどう思われているかということに対する作者なりの反骨もあるだろう。世俗的な漫画にきわめて世俗でしかも最下層の人を主役として設定し、その主役が世に稀な芸術的な演奏をするというストーリーは、聖と俗が混ざって神秘的だが、実際に現実は得てしてそのようなもので、きわめて現実的な作品と言える。そのきわめて現実的なところに神秘が宿るのが、世の中の面白さだ。それを漫画で伝えようとしているのは、今までにあまりなかったことではないか。筆者が評価したいのはそこだ。最も蔑まれる職業に携わる者たちが芸術の主役を演じて来たのは日本でも西洋でも同じで、元来芸術は賎民が携わるものだ。それを庇護するのが権力者で、その後になって、その芸術に神々しさを付与するのが資産家だ。その意味で、10代の無学な娼婦から生まれたカイが天才的ピアニストになるのは意外でも何でもなく、むしろそういう育ちであるからこそ、真っ先に天才になれる素質があると見るべきだ。芸術家になるには、幼少時にとてつもない大きな不幸を抱えねばならない。そしてそれを乗り越えて行くところに、真の芸術が生まれるだろう。恵まれ過ぎている状態では、最初は才能は伸びるが、限界がある。世界的に有名な芸術家はみな何らかの不幸を抱え、それを克服して来た。普通の金持ちがいくらお金を子どもに注ぎ込んでも、結局そういう天才には届かない。そして日本はそういう普通の金持ちだらけになったが、そういう連中はごく身近に天才がいても全く気づかず、むしろ蔑み、侮る。だが、この漫画で面白いのは、雨宮少年が最初から唯一カイの才能を見抜くことだ。にもかかわらず、どう努力してもカイにはかなわない。そういうことは実際に多いだろう。中国は大昔からそういうことがわかっていて、神のような才能を超える破格があることを認めていた。筆者がこの漫画で残念なのは、描画技術がその破格に達していないことだ。この漫画を読んでモーツァルトやショパンなどのクラシックのピアノ曲を聴く人がどれだけ増えるだろう。アニメ映画ではアシュケナージの演奏が使われたようだが、筆者がこの漫画を読みながら思い浮かべたのはミケランジェリの演奏で、実際に聴いたのはポリーニのものであった。もちろんアシュケナージのCDも持っているが。
by uuuzen | 2011-11-03 21:43 | ●本当の当たり本
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