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●鉄鋼館-EXPO‘70パビリオン
化が避けられないのが物だ。そんな物でも風化する。音楽ホールとして恒久的に使われると当初予想されていた万博のパビリオンの鉄鋼館は、万博終了後に例外的に残されたのはいいが、コンサートが開催されたことはないようで、風化するに任された。



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今朝この鉄鋼館について調べると、雨盛りがして、中の円形のコンサート・ホールの壁面にその跡がたくさん出ていることが報告されていた。90年代の記録だ。それからこっち、この建物は多少修復がなされ、「EXPO‘70パビリオン」、つまり万博を紹介する記念館となり、ホールとはやや離れた建物1階のホワイエと呼ばれる場所では、今回『地底の太陽展』が開催された。昨日までの同展の紹介に続いて、今夜はこの建物について書いておく。鉄鋼館が建った当初は、技術の先端のスピーカーなどの音響、録音システムが完備していた。それらはほとんど壊れたり、外されたりして、見る影がない状態のようだ。筆者は万博当時、この建物の中に入った。次々と別のパビリオンを見ようとしたために、ひとつの建物の中には長らく留まらなかったので、さほど記憶にないが、会場全体がスピーカーのようになったその薄暗いホールの中で、青や赤に輝く光と電子音楽が鳴り響いていたことを思い出す。当時はそうした音楽にあまり関心がなかったので、じっくり身を浸して音を楽しむことはしなかった。また、ホールの中は人影がまばらであった。このホールは万博終了後そのまま残して、コンサートに使われる予定であったが、そうならなかったのは、万博美術館(後の国立国際美術館で、それはさらに今は大阪中之島に移転している)の隣にあった「万博ホール」でさえ、ほとんど使用されなかったことからして当然と思える。広々とした芝生に生まれ変わった万博公園の中、ぽつんと孤立しており、そういう場所までわざわざ大阪や京都から音楽好きがコンサートを聴きに行くとは思えない。大阪モノレールはまだなかったし、阪急とバスを乗り継いでしかアクセス方法がなく、そしてバス停の東口からでも大分歩かねばならない。万博当時は大阪地下鉄の御堂筋線から専用の線路をつないで、梅田からでも20数分で行くことが出来たのに、万博終了後はその接続線は早々と撤去されたから、その後の万博公園はアクセスの悪さに悩んだ。自家用車を公園内に一切入れなかったからなおさらだ。そうしたアクセスの致命的な悪さは、鉄鋼館にとっては予想外であったろう。せっかく半永久的に保存され、多くのコンサートが開催されることが期待されていたにもかかわらず、すぐに荒廃が始まった。設計者の前川国男はル・コルビュジエの教えを受けたが、まさか万博終了後に荒廃されるに任されるとは思わなかったはずで、晩年はさびしい思いをしたのではないだろうか。「人類の進歩と調和」が何とあっけないもので、半年間のお祭り騒ぎが終わった後は、誰も見向きもせず、宝がゴミのように扱われた。だが、いかにも高度成長以降の日本らしく、意外ではない。それ以降も日本は地方の隅々までに箱モノを建て、その後は放ったらかしにしているではないか。
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 使わない建物がお化け屋敷になるのはすぐだ。それが強固な鉄筋コンクリートであっても同じで、コンクリートのわずかなひび割れから雨水が浸入し、また地面からは雑草がそうした隙間から生え出る。こまめに手入れを施さなければ寿命は20年とないだろう。そして、鉄鋼館はほとんど使用されなかったから、荒れるがままに放置された。万博終了後、この建物の前に2,3度立ち、また中にも入った記憶もあるが、あれほど賑わいのあった林立したパビリオンの中でこの建物だけが、まだ10年や20年しか経っていないのに孤立していることが、とても不思議な気がした。今月の9日にはほとんど20年ぶりにこの建物の目の前に行き、そして中に入ったが、当日は好天気で多くの人出があり、またこの建物に若者たちがどんどん入って行くことに、また不思議な気がした。ル・コルビュジエの教えの好みであろう、外壁には帯状の緑とオレンジ色のタイルらしきものが嵌められていて、それがどこかモンドリアンを思わせるのは、モダニズムの建築家らしいアイデアだ。先に書いたホームページによると、それは琺瑯らしいが、建物の上部に近い位置のオレンジ色は褪色して白っぽくなっている。それもまた40年の歳月を思わせる。その40年の経過は、建物を巡るとすぐに感じることが出来る。タイル張りの階段はところどころ陥没しかかっており、またデザインはやはり昭和を感じさせる。この建物がEXPO‘70パビリオンになったのは数年前のことだろう。以前はエキスポランドに万博の記念館があった。その前に何度も立ちながら、ついに一度も中に入ることはなかったが、エキスポランドそのものが筆者には関心のない場所であったからでもある。エキスポランドの正面ゲートのすぐ横手に大阪ガスの建物があった。その内部に万博記念館があって、入場無料であったが、万博を体験した者からすれば、その施設を覗く気にはなかなかなれなかった。エキスポランドが不幸な人身事故によって閉園をよぎなくされ、万博記念館も移転を迫られたのであろう。そして、万博公園内で使える場所となると、パビリオンで唯一残されていた鉄鋼館しかない。それで内部のホールは使わずに、それ以外の部分を展示場として使うことに決めたのだろう。いわば仕方なしの形にしろ、この建物にまた大勢の人が入るようになったのはよかった。修復はそれなりに行なわれ、ガラス越しでしかも照明もごくわずかであるが、ホール内部を見ることも出来る。その写真を撮って来たので1枚載せるが、原爆だろうか、爆発のイメージを織った緞帳が下がっている。誰の作か知らないが、これは万博時のものではないはずだ。万博記念館として使うようになった際、新調したのだろう。おそらくその緞帳の背後は雨漏りの水跡があるのではないか。
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 先に紹介した今朝見たホームページによると、太陽の塔の内部の生命進化の樹木に取りつけられていた恐竜やアンモナイトの大型の模型は、このホールの周囲に置かれていたが、それはまだそのままではないだろうか。というのは、ガラス越しに、海の生物の模型がいくつか眼前に見えたからだ。そこにあったものを引っ張り出して、1階のホワイエで今回の『地底の太陽展』で展示したとなると、同展がこの建物の内部で開催された理由もわかる。つまり、作品の移動にはほとんど費用がかからなかった。それにしても、太陽の塔の内部の展示物が、この鉄鋼館に保存されていたのは、ほかに保存すべきパビリオンがなかったからで、それほどに万博の後は、建物が一掃された。もし鉄鋼館も壊されていたならば、『地底の太陽展』の開催もなかった。それにしても惜しいのは、鉄鋼館の音楽ホールだ。音響設備を元どおり、あるいは最先端のものにして、このホールを復活させることは出来ないものか。万博時は武満徹が音楽監督となって、クセナキスの音楽などが演奏されたが、電子音楽はその後も発展を続けており、このホールを使って電子音楽祭を開催すればどうか。日本だけではなく、世界から電子音楽ファンが集まるとなると、それなりに採算はどうにか取れるのではないだろうか。万博機構なるところが、どれほど経済的に余裕があるのかが問題だが、ホールだけ大阪府が借り受ければどうか。大阪は現代美術には力を入れているから、現代音楽にもそうするべきだろう。だが、金のない大阪にはそういう税金の使い方には大きな批判が出るに決まっている。物事は結局誰が金を出すかで決まる。万博公園はアクセスが悪く、それで国立国際美術館も中之島に移転した。だが、モノレールが開通し、公園の中に自家用車の乗り入れも可能となって、昔に比べるとうんと行きやすくなっている。この鉄鋼館がホールとしての機能を回復する機会としては、エキスポランドの跡地をどう使うかにかかっている。以前のように親子連れで楽しめる施設が出来て、また大勢の人が集まるようになれば、鉄鋼館に足を向けやすくなるだろう。嵐のように去った半年間の万博を今は知らない世代が多くなり、万博に対する一種憧れのような気分も芽生えているように思うが、荒れ放題になっていた鉄鋼館が万博当時の姿に限りなく近づくかどうかは、今後の若者にかかっている。先日は『民都大阪の建築力』について書いたが、レトロな建物を積極的に保存し、それを大阪の顔として今後も伝えて行こうという思いが大阪には高まっている。その力をこの鉄鋼館にも適用し、万博時にあった建物としては民芸館とともにほとんど唯一のものとして残して行くべきではないか。
●鉄鋼館-EXPO‘70パビリオン_d0053294_0342619.jpg さて、今日は4枚の写真を載せる。最初はホワイエでの『地底の太陽展』を2階から見たものだ。かなりせせこましい会場で、赤い壁紙が見える。最も手前に、ガチャガチャが2台置かれている。このホワイエは今後もこうした万博関係の展覧会が開催されればと思う。せめてコーヒーでも飲ませる喫茶コーナーがあればいいが、それにふさわしい場所の余裕はある。このホワイエを見た後に階段を上って2階に行くが、円形のホールの周囲が映画館によくあるような通路になっていて、そこが主に大阪万博の資料が展示されている。また映像を見せるコーナーもあり、万博時に園内を走っていたモノレールから会場内を撮影した映像が映し出されていた。それで見ると、みんぱくのすぐ近くの民芸館、日本庭園、薔薇園は全くそのままだ。通路を時計とは反対回りにちょうどぐるりと一周するが、出入り口につながる大きな部屋にも展示がある。太陽の塔周辺の模型の展示や、欧米の万博の歴史がいくつかのモニターで見ることが出来る。また、鉄鋼館に展示されていた大きな鉄製のパイプオルガンに使われるような笛や、エキスポランドに建っていたエキスポ・タワーのごく一部の実物も据えられている。そのほか、文楽の人形や何で使われたのかわからない西洋の等身大の人形などが、ガラス越しに見える倉庫の中に立っている。これはほかに持って行きようがなく、太陽の塔の内部の展示物と同じ扱いで、鉄鋼館が万博後の倉庫として今も使われていることを示す。2枚目の写真は鉄鋼館にかかわった人物たちの、確か6名の顔写真のうち、建物の設計者の前川と、画家の宇佐美英治だ。全員が顔を上に向けている様子を撮影されていて、それが「人類の進歩と調和」を感じさせる。3枚目は万博時のホール内部で、このようにレーザー光線で赤や青に変化した。4枚目は現状のホール内部の壁面だ。中に入らせないのは、暗くて危険でもあり、また何も演奏していないのであれば入る必要はないということか。円形ホールなので、中央部で演奏するとなると、四方から演奏者は見つめられ、それが落ち着かないと言う人もあるだろう。欧米ではそのようなホールはあるし、またビートルズもそんな場所で演奏したことがあるので、これはこれで面白いとは思う。また、テープ音楽や電子音楽を演奏するのであれば、ホールの中央底は無人でいいので、このホールの使い途はある。神戸のジーベック・ホールがない今、この鉄鋼館がその代役を果たせるのではないか。自宅ではなかなか大音量で隅々の音まで聴くことが無理なシュトックハウゼンの音楽をここで上演すれば、それこそ若者がやって来ると思える。そうそう、この建物はフーコーの振り子が万博時には取りつけてあって、それは外観のデザインにも表われている。取りつけたままにしておくのが危険であったのだろう。地球の自転を示すその振り子がない状態では、この建物は時が万博終了後以降止まったままということだ。振り子のあった場所は天井が塞がれるなど、復元にはまた手間がかかるが、これも元どおりにすべきではないか。ともかく、長年放置されて来たこの建物の随所に雑然さが感じられ、それが悲しさを漂わせている。手入れさえすれば元のモダンな輝きを取り戻すはずで、もっと催しを増やし、多くに人に来てもらうよう、宣伝に努めることが望まれる。
●鉄鋼館-EXPO‘70パビリオン_d0053294_0344435.jpg

by uuuzen | 2011-10-23 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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