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●『岡本太郎 地底の太陽展』その1
覧会と聞けば大阪万博を大阪人は思い出すが、関東ではどうなのだろう。東京オリンピックの開催が1964年で、それからわずか6年後に、大阪の吹田の山を切り拓いてよくもまああのような大規模な万国博覧会が開催されたことだ。



●『岡本太郎 地底の太陽展』その1_d0053294_23243314.jpgそれに、東京でなかったのがよかった。東京が何でも一番であるから、本当は東京で開催したかったのかもしれないが、適当な場所がなかったのであろう。八王子なら可能であったが、そこまでのアクセスが問題になったと思える。吹田なら梅田にはさほど時間がかからず、会場地となる山は土地の価格がまだまだ安かったに違いない。これは余談だが、日本は戦後2年の1947年に民間貿易を再開してその記念切手を発売し、その2年後に日本貿易博覧会を開催しているから、博覧会好きは昔から変わりがなかった。その空前の規模であったのが日本万国博覧会で、これを凌駕する規模のものが今後日本で開催されるであろうか。あるとしても数十年先か。東京ではまたオリンピックを招致しようとしているが、それが実現すれば、また次に万博という考えが出るだろう。そして、それがまた大阪になるかもしれない。何でも東京でというより、大阪でも国家規模の祭りをやるのが、東西の均衡を保ってよい。それに東京は福島原発の放射能が検出され、外国人にとってはマイナスのイメージが持たれやすいのではないか。それはさておき、大阪での万博が何を残したかとなれば、ほとんど何も残さなかったと否定的に見る人が関東には多いかもしれない。だが、筆者は年に最低でも2,3回はこの跡地の万博公園を訪れて展覧会を見るし、日曜日には大勢の家族連れがやって来てくつろぐ場所になっている。その最大の呼び物であったエキスポランドは、不幸な人身事故のために閉鎖となり、今後の身の振り方を決めようという状態にあるが、いずれまた人が大勢集まる施設が出来るであろう。先頃は、国が今まで管理して来た万博公園を大阪府に譲るので、固定資産税を肩代わりさせようという意見が出て、橋下知事はそれに反対していた。国もよほどお金に困っているようで、この調子では万博公園にある「みんぱく」こと民族学博物館も大阪府に払い下げになるかもしれない。そうなれば充分な研究が出来ず、施設は閉鎖になるか、数分の1に縮小されるだろう。児童文学館は結局建物はそのままに、中の本は大阪荒本の府立図書館に移されたが、大阪府は広いので、万博公園の中ならばどうにか行く気になっても、荒本となればもうその気がないという人は多いだろう。だが、それを言えば荒本付近の人も同じで、今で遠い吹田にあった貴重な児童の書籍が荒本に一挙にやって来たのであるから大歓迎だ。せっかく万博公園の中に立派な建物があったのに、大阪府はその維持管理費の捻出に困って来たわけだ。このように地方自治体は文化に使う経費に乏しいので、なるべく国が面倒を見るべきと思うが、みんぱくはその最たるものだろう。
●『岡本太郎 地底の太陽展』その1_d0053294_23245213.jpg

 それはそうと、そのみんぱくのすぐ近くにある岡本太郎の太陽の塔は、10数年前に白く塗り変えられた。その費用はどこが出したのだろう。それより前、劣化して来たこの塔を取り壊す話が浮上した。確か大阪府民の反対もあって存続が決まり、補修がてら塗り変えが行なわれた。これを永遠に保存するには、いっそ重文指定すればよい。そして定期的に国が全面的に費用を負担して塗り変える。その一方で、もっと関東方面に宣伝をして、塔内部を公開すればよい。この塔の外観は万博公園のどこからでもよく見えるが、中に入ることが出来ることを知っている人はさほど多くない。とはいえ、筆者も入ったことはない。数年前、その機会があって、申し込みをした人の中から抽選に当たったわずかな数だけが見学出来た。その申し込みは二度ほどあったと思う。見たいと思いながら、その機会がないままになっている。なぜ常時公開しないのかと言えば、外面は塗り直してどうにか元の姿を取り戻したが、中は雨に濡れないので、とりあえずはそのままにしておこうというのだろう。そして、万博当時のままかと言えば、そうではなく、展示品はかなり撤去されたようだ。それを元どおりにすれば、充分それだけで万博公園を訪れる人は増えるのではないか。万博開催時は中には入ることが出来たが、万博に数回訪れた筆者は見ていない。ほかに見るべきパヴィリオンが乱立していたので、そこまで気づかなかった。実際太陽の塔の内部がどうなっているかを知ったのは20年ほど前と思う。なぜ長らく閉鎖され、また一時的かつ小規模に内部を公開したのかは知らないが、関心が高まると、いずれ公開に踏み切るのではないか。公開するには、まず観客に危険が及ばないようにせねばならず、そのための経費が予想以上にかかるというのが実情に思う。世の中はすべてそうした金勘定で事が運ぶ。経費がかかり過ぎるのであれば、先行投資して、その後大勢の人がやって来ればよく、そのためにもまずは宣伝で、その機会が今日書くこの展覧会の開催ということかもしれない。もっとも、昨日書いたように、今年は岡本太郎生誕100年で、それをささやかながらも記念するためにこの展覧会は開催されたが、もうひとつに思惑は、かつて太陽の塔の内部にあって、その展示の顔とでも言うべき存在であった「地底の太陽」と呼ばれる、太陽のもうひとつの顔の行方の手がかりをつかむことだ。万博終了後、この顔はどこかに払い下げられたが、その行方がわからない。おそまつな話で、お祭り騒ぎが終われば、展示空間と展示物は、原則的にみな取り壊しの対象になった。個人や法人が譲り受けて第2の人生を歩ませることもままあって、それは新聞で当時紹介されたことを覚えている。ところが、全体数から言えばごくわずかで、大半はスクラップになった。地底の太陽は岡本太郎の制作であるから、しかるべき機関が芸術品として保管しておくべきであったのに、人集めのための一時的な展示物で、恒久的なものとはみなされなかった。現在はこれほど情報化時代になったのであるから、誰か、あるいはどこかの機関が保存もしくは、廃棄したのであればその事情を知っているはずだが、それがどうにもわからないというところ、全く謎めいている。
●『岡本太郎 地底の太陽展』その1_d0053294_2325122.jpg

 「地底の太陽」とは、いかにも岡本太郎らしい。地底に太陽などあるはずがないと思ってはならない。生命は地底から湧いて来た。そこには太陽のような何かエネルギーの源がある。その前向きの力を岡本は地底にも見た。太陽の塔は外観のみが有名だが、この塔を設計した時、岡本の頭の中には内部空間をどのように展示で飾るかの思いがあった。それは外観のデザインよりはるかに時間も知恵もアイデアも必要な作業で、それを岡本が多くの人手の助けを借りながらも、アイデアをまとめて目に見える形に作り上げたことは、大変な労働であった。それは簡単に言えば見世物だが、そこには生命の根源の何たるかを見せたいという思いがあって、今はやりの言葉で言えば、グローバルをはるか前に先取りしていた。グローバルどころではなく、ユニヴァーサルだ。岡本は狭い国家意識などに囚われる小物ではなく、全人類、全生物を視野に入れながら作品づくりをした。そうした岡本の最大の彫刻が太陽の塔で、最大のインスタレーションがその内部だ。太陽の塔の外側だけデザインして、内部は知らぬで通すことも出来たろうが、それをやらずに、やるならとことん内も外も自分らしさを追い求め、そして実現した岡本はまさに太陽のようなエネルギーの塊であった。さて、その地底の太陽は、今回は伝わる写真から復元された。そして、それを元に当時の空間が別の建物の内部で再現された。その建物は、万博当時のパヴィリオンとしては唯一保存された鉄鋼館だ。ここには万博後に一度入った記憶があるが、現在はEXPO‘70パビリオンという名前で、当時の万博会場の様子を映像と資料によって見せる施設に変わっている。その1階の一画に入場料を徴って見せる今回の展覧会が開かれた。その写真をたくさん撮って来たので、3,4回に分けて報告する予定でいることは昨夜書いた。今日は「その1」で、会場に入ってすぐのコーナーから4枚の写真を載せる。まず、岡本のアトリエの一部の再現だ。背後にアトリエの写真を貼り、手前には岡本の等身大のマネキンや太陽の塔の正面の顔、そしてイーゼルに載った油彩画2点など。この絵はもちろん複製で、その安っぽさがこの展覧会全体に見られたが、安っぽくはありながら、岡本の思いは伝わる。マネキンは意外に小柄だが、これは正確に身長をなぞっているだろう。表情がかなりグロテスクだが、よくこういう表情をした岡本なので、それを知る者からすれば意外ではない。次のコーナーには万博当時の塔内部の写真がいくつかあった。カラーで残っているので、実際に塔の内部に再現することは可能に思えるが、肝心の地底の太陽が発見されないでは、どうにもならない。今回のように複製で代用することもいいが、せっかく外観が本物であるのに、内部もそれに合わさねば具合が悪い。
●『岡本太郎 地底の太陽展』その1_d0053294_23253075.jpg

 これは昔雑誌で知ったが、太陽の塔の内部には、現在のみんぱくに所蔵されている世界各地の仮面が地底の太陽から放射される形で天井を埋めた。その写真が残っているので、それを復元することは出来るし、今回はそれが試みられた。この仮面は梅棹忠雄らが集めたもので、それを早速岡本は目をつけて、太陽の塔の内部に使った。あるいは話は逆かもしれない。太陽の塔は合計4つの太陽の顔があるが、仮面に魅せられていた岡本は、自分の作った生命の根源的な顔と同時に、世界の民族が作った顔、すなわち仮面を展示することを求めた。それで岡本の依頼を受けて梅棹が集めた。おそらくこれが実情ではないだろうか。そして万博終了後、その仮面は新しく出来たみんぱくの所蔵となり、みんぱくはどんどんコレクションの数を増やし、今は国立の博物館になっている。ということは、太陽の塔がみんぱくのひとつの始まりでもあったかもしれない。それはともかく、地底の太陽が据え置かれる天井に、仮面がたくさん展示される中、岡本は自分が作った仮面もそこに混ぜた。それらは人間の顔と大差ない大きさであるから、保存しやすかったのだろう。ただし、色が剥げたりしていたようで、今回の展示ではそうした箇所は塗り直された。太陽の塔の塗り直しと同じで、他人の手が加わることを岡本は拒否しなかったろう。ただし、展示写真でわかったが、岡本は上半身裸で養女の敏子と一緒に塗装したり、タイルを貼りつけたりなどの作業をし、小さな図面を描いただけで後は他人任せということはしなかったようだ。筆者も仮面は好きで、小学生の図画工作の授業で、粘土で型を作り、その上に新聞紙を何枚も糊で貼り重ねて仮面を形成し、それを剥がして乾燥させた後、絵具を塗ったたことをよく記憶する。よほどその時の経験が楽しかったのか、中学生になっても粘土で仮面を作ったことがある。そして、今ではインドや韓国などのいくつかの仮面をあちこちに飾っているが、岡本が仮面好きであるのは、土着性のエネルギーが仮面に凝縮されていると考えるからであろう。ただし、地底の太陽には韓国の仮面はあっても日本の能の仮面はない。岡本は原色を好んだから、静謐な印象の能の仮面は気に入らなかったのでないか。とはいえ、能もさまざまで、すべてを拒否したのでもないだろう。岡本はつんと澄ました上品な感じのものより、祭りの派手なイメージの色合いを好み、抽象絵画ながら、モノトーンのミニマル的な作品は嫌悪したのではないか。その点はザッパとどこか通じている。
●『岡本太郎 地底の太陽展』その1_d0053294_23254930.jpg

by uuuzen | 2011-10-19 23:27 | ●展覧会SOON評SO ON
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