労働者ものという映画のジャンルが今はあるのかどうか。前回同じ京都文化博物館の映像シアターで見た『飢餓海峡』と、同じ時代を描いたこの映画は、貧困がテーマだ。
しみったれたものより、華やかなものを歓迎する現在は、人気がないと思える。だが、先日のネット・ニュースに出ていたが、戦後最も生活保護受給家庭が多かった時よりも現在の方が上回っているとあった。つまり、この映画で描かれるよりもまだ経済的困窮者は多くなっている。ということは、働いても働いても豊かにならない労働者をテーマにした映画やドラマが今はもっと作られていいと思うが、そうはなっていない。また、この映画には、さりげなく「政府が悪い」というセリフが発せられる。そういう言葉を俳優に言わせる映画やドラマが今あるだろうか。この映画が作られたのは昭和26年(1951)で、筆者が生まれた年だ。当時は左翼思想がまだ活発であったが、今の若者にはそれも消えた。また、貧しい人が最大級に増加しているとはいえ、この映画に描かれるような、国家全体がまだまだドン底であった時代に比べると、衣食住ははるかに満ち足りている。にもかかわらず、自殺者が毎年交通事故死する人より多いのであるから、人は経済的困窮からだけでは死なないと言うべきだ。この映画の主人公は、かつては人を2,3人雇って工場を経営していた毛利という中年男で、内職をしている妻と小学校低学年の男女ふたりの子を抱えて東京の千住で暮らしている。毛利は月給取りになって生活を安定させたいのだが、現実は厳しく、毎日早朝に職安に駆けつけて、日雇い労働の切符を入手する競争の生活に追われている。当時はそうした失業者が男女ともに多く、職安は日当240円を支払って、戦争の傷跡である焼け野原の整理などに住持させていた。これには登録する必要があるが、雇われる人数には限りがあり、早い者勝ちで切符がもらえる。それがもらえない日は、仕事にありつけず、道端に落ちている、あるいはドブ川の底にある屑鉄をかき集めて換金する。日当240円をニコヨンと呼んだが、この映画で繁華な場所が映った時、ある店の看板に、とんかつなど1回の食事が50円と出ていた。240円ではまさに食べておしまいで、家がなければ木賃宿に泊まるしかなかったが、その費用は一晩いくらしたのだろう。ニコヨンの仕事にありつけるのも熾烈な競争であるのに、その競争に勝っても食べるのに精いっぱいの生活であるから、政府が悪いと愚痴りたくなるのは当然だ。そうしたその日暮らしでは、たとえ月給取りの仕事が見つかっても、給料日まで食いつなぐことも出来ない。そのため、せっかく小さな工場に雇われても、ニコヨンに逆戻りしてしまう。これが男ひとりの生活ならばまだしも、育ち盛りの子どもがいると、どういう生活になるかは、現在では想像を絶する。この映画では、毛利が軍事徴用で旋盤を覚えたこともあって、町工場の求人広告を見かけて面接に行き、そして明日から来てほしいと言われる。それなのに、工場主の妻が毛利の乞食同然の身なりを見て断れと主人に迫り、結局翌日やって来た毛利を雇わないと宣告する。毛利は頭に来て、捨てゼリフを残して工場を後にするが、行く当てはない。空腹を抱えながら、川辺で寝転んだり、そして焚き火をしているホームレスに遠慮気味に混じって一夜を明かす。
川辺にホームレスが住みつくのは今でも同じだが、今は豊富な段ボールや、また古着はいくらでも入手出来るであろうから、毛利のような極限状態はほとんど考えられない。戦後数年の頃は、残飯は漁るほどはなく、食べるためのお金がなければ餓死するしかなかった。つまり、飢餓という状態が普通にあった時代だ。それから半世紀ほどで日本は激変したが、どちらが本当の日本かとなると、どっちもそうなのだが、飢餓がなくなったはずの現在に自殺者が多いのはなぜか。この映画でも毛利は万事休すを悟り、親子ともども心中しようと心に決める。それがもう一歩のところで踏みとどまるのだが、それは子どもの存在だ。だが、映画は題名にあるように、しぶとく生きて行くことを観客に勇気づけているのであって、現実は毛利のような人は自殺した例が少なくなかったのではないか。そう描くことで、政府批判を強めることは出来たが、見て後味のいい映画にするためには、またより意味を見出すには、前向きの生き方を描くべきだろう。この映画はドン底にありながらも、諦めずに前向きにとにかく生き続けてみようとする毛利を描くことで、明日への希望の光を観客に思わせる。感心したのは、甘い結末に描いていないことだ。最後で毛利はまたニコヨン生活に戻るが、それで今まで以上の生活が出来る保障はどこにもない。だが、生きている間に世の中が変わるかもしれないし、また同じ境遇の気心の知れた仲間がいて、自分の家族だけが貧しいのではないことを知っている。ここで話の腰を折るが、ストーリーを少し遡って書こう。映画は最初大きな橋が映る。そこから職安に向かって人々がこちらに向かって点々とやって来る。その橋は千住大橋だ。東京にはさっぱり詳しくないが、この付近は東京の東北で、東北地方に近く、下町だ。毛利のバラック小屋のような木造の賃貸の家は、千住のお化け煙突、つまり4本のゴミ焼却場の煙突がすぐ近くに見える野原に建っている。大家は立ち並ぶ家を売り払い、毛利の家ももうすぐ取り壊される。それを知る毛利だが、ニコヨン生活ではどこに行く当てもない。それで業を煮やした妻は家財を背負って全部売り払う。そうして得た金で、妻と子どもは一時的に東北の身内のもとに身を寄せることを計画する。東北の場所は明らかにされないが、上野駅に毛利が家族と一緒に行き、汽車の出発を見送る場面があり、また子どもがどこへ行くのかという質問に、仙台や青森と毛利が答えるところ、青森なのだろう。ひとりになった毛利は早く元の家族一緒の生活に戻れるように働き口を見つけようとするが、その機会は先に書いたように、町工場で旋盤を操ることであった。月給日までの生活費がない毛利は、明日から来てくれと言った主人に、給料の前借りを頼むが、これを聞いていた妻に嫌われる。前借りを断られた毛利は、ニコヨン仲間では親分肌の老婆秋山に話を聞いてもらい、秋山は木造の大きなアパートに住むみんなを集めて、毛利のために借金を募る。給料日払いを約束させた秋山で、その恩に報いるために毛利はしっかりと働くことを決心するが、木賃宿に泊まっている花村という調子のよい、また気安い男に、就職祝いの酒を薦められ、ついそれに手を出して、花村もいやがるほどに深酒をして酔ってしまう。早朝に目覚めた時、懐に入れた500円ほどのお金を盗まれたことに気づくが、金は出て来ない。雑魚寝状態で多くのその日暮らしの男たちが寝る大部屋であるから、誰かが毛利が金を持っていることを見ていたのだ。朝に町工場に行くと就職を断られ、また秋山婆さんのもとに行って事情を話すと、どうせ淫売でも買ったのだろうと激怒され、ついに四面楚歌の状態になる。
さて、ここで俳優の名前を書いておこう。毛利は河原崎長十郎だ。その名前はよく知っているが、こういう演技をするとは知らなかった。妻役は実際の妻のしづ江で、そのためにふたりの演技はなおさらリアルだ。また、この映画は「前進座80周年記念映画祭2」と銘打ったシリーズの1本で、筆者は先日の15日の夕方5時の部を見たが、前日の上映作品よりもこっちの方がいいと思ったからだ。それは、以前からこの京都文化博物館の映像ホールで何度かこの映画が上映されたことを知っており、そのたびに見る機会がなく、今度こそと思ったことによる。前知識なしに、題名だけに惹かれて見たが、ついでに前進座についての知識も出来た。前進座は京都では馴染みがないように思う。南座で公演が毎年あるようだが、元来歌舞伎に関心がない筆者は、それから出て来た前進座にはさらに接近し難いものを感ずる。ところが、意外なことでつながりがあることを知った。もう10年ほど前になるが、家内が、歌舞伎役者の中村梅雀がベーシストで、京都に来るたびに、今はないZAPPAという店に必ず足を運ぶことをTVか何かで知って教えてくれた。梅雀の演技も顔も知らなかった筆者だが、ちょくちょくTVに出るし、一昨年だったか、京都に来た時はZAAPPに立ち寄って飲み食いすると本人が話している姿を画面に見た。また、ぽっちゃりと大柄な奥さんにべた惚れで、奥さん自慢もよくしていたのが印象的で、さらにベース・ギターを何本もコレクションし、それを演奏する姿も映った。ZAPPPAは閉店したので、梅雀は今は京都に来た時にどこで飲んでいるのか知らないが、そう言えば先頃これも閉店したバーのMOTHERSには行ったことがあるのだろうか。それはさておき、この映画で毛利と飲む、そして一緒に他人の家の敷地に入って、勝手に金目のものを掘る花村という男は、全く調子のいい遊び人だが、これを演じているのが中村翫右衛門で、毛利を演ずる河原崎長十郎と一緒に前進座を作った歌舞伎俳優だ。ふたりは歌舞伎の旧弊を嫌って、吉祥寺に座をかまえ、座員は給料制で生活の面倒を見るという方針を貫いているらしい。そのことがこの映画を作ったことにも出ているが、この映画は前進座が日本各地で公演した時に1株50円の寄附を募り、そうして得た500万円で撮った初めての現代ものらしい。こうした方針は共産主義の思想に馴染むもので、実際長十郎と翫右衛門はそれに接近して中国で公演するなど、意気盛んなところを見せた。そういうことを知らずにこの映画を見たが、少々太った長十郎はあまり貧しい人には見えず、多少無理があるなと感じたものの、表情の作り方が実にうまく、見ている間に、これは名優だとひしひしと納得されられる。迫真の演技と思わせた部分があった。それは花村と飲んで次第に酔って行くところだ。また、花村もちゃきちゃきの江戸っ子で、これは秋山婆さんを演じた飯田蝶子も同じだが、絶品と呼ぶしかない演技で、花村が翫右衛門という名優であることは全く納得させられる。その翫右衛門の息子が現在の前進座を統率し、その息子が先に書いた梅雀だ。そして、梅雀がザッパの音楽を聴いているのだとすれば、これは面白いではないか。
毛利が給料の前借りを断られて秋山婆さんのところに行く前に、ニコヨン仲間の水野に出会い、その家に行く場面がある。水野を演じるのは木村功で、まだ青年だ。水野の家には、言葉が不自由で、おそらく動くことの出来ない老人の父親や、赤ん坊、小さな子どもふたり、そして大きな娘とチンドン屋で働く美人の奥さんがいるが、生活の場はたった一部屋だ。そういうところに金があるはずがない。それで毛利の心配を聞いた水野は秋山婆さんにそのことを言う。大きな木造アパートは昭和30年代まで大阪にもあった。この映画ではそのアパートの近くでたくさんの子どもが遊んでいる光景が背景として見えた。それはまさに筆者が数歳頃の日常で、その点も現在とは著しく異なる。つまり、人間関係が濃厚で、貧しい者はそれなりに助け合うことがあった。下町ならではのそういう生活は、高度成長を経てからは急速になくなった。そして、人々は衣食住に昭和20年代のようには困らなくなったが、孤独は増したのであろう。毛利が助けられるのは経済的なことだけではなく、人情によってだ。昭和26年と言わず、30年代半ばでも大阪では、毛利のような生活をしていた人がざらにあった。そして、一方ではもちろん豊かな人はいたから、この映画が公開当時どのような人々に主に歓迎されたかと言えば、映画を見る余裕のある人で、ニコヨンではなかったであろう。比較的豊かな人と毛利の家族が対比されて映る場面が何度かあった。たとえば毛利ひとりが線路沿いを歩く場面がある。すると向こうから温かそうなオーヴァーコートに身を包んだ女性がふたり毛利に向かって歩いて来る。双方はお互いを見ずに擦れ違う。また、毛利は心中を覚悟して、最後に子どもたちを大いに遊ばせるために遊園地に連れて行く。当然そこは経済的にはあまり心配のない人たちが来るところで、毛利一家のつぎはぎした惨めな衣服とは対照的に、洒落た洋服を着た人々が映る。それは現在でも同じだが、毛利一家の身なりは、汚れで臭って来るほどで、なぜそこまで経済的に困るのか、理解に苦しむ人は当時もいたであろう。しっかりと生きていればそんなに身を落とすことはないはずと思う人があるが、人はさまざまな事情で、生活は一変する。ましてや戦争で焼け野原になった東京であり、何もかも失ってゼロからの生活という人はまだまだ昭和20年代半ばにはいた。東京での生活を切り上げて青森に行った毛利の妻子は、一部屋に大勢が住む赤貧状態を見て、きせるをしてまでも東京に帰って来る。当時の田舎はもっと苦しい生活であったという描き方だ。この青森の暮らしは、『飢餓海峡』の杉戸八重の娼婦としての生活を見ればよい。この昭和20年代は戦後の復興期のドン底で、現在の経済成長を遂げた日本とは著しく違いながら、実際は当時の生活を味わった人々がまだまだ健在で、過去と現在を重ねて見つめる視線は忘れないでおく必要はあろう。もちろん当時影も形もなかった人の方が多くなって来ているが、経験しなかったから知らない、関心がないではなく、こうした映画1本によっても、日本がどういう経路をたどって現在の姿になって来たかはわかる。この映画はフィクションではあるが、多くのノン・フィクションの集めて蒸留したノン・フィクションと見る方が正しい。