建築展は珍しい。大阪のレトロな建築と言えばだいたい想像がつくが、実際にどういう建物が取り上げられているのか、それを確認するためにも見に行った。
大阪歴史博物館でこの展覧会を見て数日後、家内が京阪電車の無料情報紙をもらって来た。その中に2ページにわたって「街のアートに触れる秋 京都・大阪 レトロ建築探訪」と題してたくさんの建物の写真が説明つきで特集されている。本展で取り上げられていた建物としては、大阪市中央公会堂、大阪府立中之島図書館、芝川ビル、大阪証券取引所、丸福珈琲店、中之島倶楽部がある。大阪と京都を半々に取り上げ、京都の建物には全部入ったことがあるが、大阪の芝川ビルは外観を見た記憶があるだけで、中には入ったことがない。こうした情報紙に取り上げられるのはみな有名な建物で、そのほかにも同様の古くて見るべき価値のあるものがどれほどあるのかないのか、そういうあたりの紹介がほしい展覧会であったが、それでも代表的なものだけでも知っておくと、街中を歩いた時に、そうした建物の影響を受けた、あるいは同時代らしき建物に目が行く。とはいえ、そういう個人の建物は持ち主が代わって取り壊される場合がほとんどで、街の容貌はよほど残そうという強い意識が市民になければ、すっかり新時代のものに取り代わってしまう。それでいいという考えもあるし、やはり古いものを残しておこうという考えもあって、それもまた時代によって趨勢が逆転したりもする。学生時代に、奈良の法隆寺でさえ、保存する必要があるのかと言った友人がいた。今まで長年残って来たことは、人々に残そうという思いがあったからだ。そこを理解すれば、自分の代は残しておくべきと考えるのではないか。残そうとしても残らないのが普通だ。そう考えると、法隆寺が残っているのは奇蹟だ。それをそのまま放置して荒れるがままでよいという考えは、宝の意味がわからないからだ。国宝よりお金が大事というわけだが、失われた国宝がお金で蘇るか。芝川ビルは、ファサードな内部にマヤ・インカ文明の装飾を施した重厚なビルで、淀屋橋付近にある。持ち主は20年ほど前か、屋上に建て増しし、またファサードに取りつけてあった大きな3つの彫刻も外れたままにしていた。それがなくなったのは、自然に落ちたのか、建て増し時に壊したのか、それはわからないが、ともかく建った当初とは随分異なる建物になっていた。それを持ち主が大阪を代表する建築物ということで目覚めたのか、当初の姿に戻した。先の情報紙によると、建ったのは昭和2年(1927)で、芝川又四郎という人が自家事務所として鉄筋コンクリートに改築したことによる。大正時代は過ぎていたが、大正ロマンの香りのあるデザインで、戦争で破壊されなかった。一時は芝蘭社家政学園という花嫁学校の校舎として使用され、現在は雑貨店や飲食店などが入る雑居ビルとなっている。通りの角にあって、玄関は両方の通りに挟まれた格好だ。似た形の古いビルは大阪市内にほかにもあるが、このビルを模したのかもしれない。また芝川ビルは東京の旧帝国ホテルを設計したフランク・フロイド・ライトの影響があるとされているが、旧帝国ホテルはなくなったのに、このビルが健在であるのは、大阪の中心部を歩く楽しみがあるということになる。
先に挙げた中で次に筆者が入ったことのない大阪のレトロ建築は、大阪北浜の丸福珈琲本店だ。この店は各地にある。本展で取り上げられたのは、芝川ビルから東へ少し行ったところの本店で、大正14年に建った。外観はたくさんの蔦で覆われ、それだけでもレトロ感覚がいっぱいだが、この付近はサラリーマンの勤務地で繁華街ではないので、めったに歩く機会がない。コクがありながらさっぱりしたコーヒーを飲ませるというが、各地に店が多い点は、京都のイノダ・コーヒーを思わせる。先月家内の実家に行った際、家内の兄が最近丸福のコーヒーを飲んだと言っていた。それは高槻店のことで、本店ではない。筆者はこの店のコーヒーを飲んだ記憶がないが、家内に言わせると、昔交際していた時に大阪千日前の店に入ったらしい。家内は筆者としかデートしたことがないので、それは信じられるが、すっかり忘れるほど遠い昔だ。そう言われてみると、入ったかなという思いがするが、その頃は毎日のように違う喫茶店に入っていたので、いちいち覚えていない。本展を見てからは、ぜひその北浜の本店に行かねばと思うが、家内は大阪市内を歩くのをいやがる。北浜から南へ5分ということは、梅田か淀屋橋から歩くしかない。そうなれば、東洋陶磁美術館を見たついでに南下するというコースが理想だ。だが、そうなればついでにもっと歩いて大阪歴史博物館までということになるのは目に見えている。それを家内はいやがる。今までにそのコース何度も歩いたことがあるが、2,3本西の通りを南下したから、丸福珈琲店には気づかなかった。ま、行くことがあれば外観の写真を撮ってこのブログに載せよう。次に、中之島倶楽部は中央公会堂の地下にある。ここには何度か入ってコーヒーを飲んだり食事したことがある。いい雰囲気の室内だ。倶楽部と名のつく建物は、ほかに淀屋橋に大阪倶楽部があって、本展でも紹介されていた。大正3年に建った会員制クラブで、筆者の知り合いの御主人が会員になっており、その関係で中に入ってコーヒーを飲んだことがある。大阪証券取引所は昭和10年の建築で、7年前にファサードや内部の一部を残して建て変えられた。この前はよく通る。証券取引を発祥させた人物の大きな像がファサード正面前に建っている。今は証券取引の中心が東京であるので、ここは文字どおりレトロな存在になった。筆者は証券とか会員制のクラブといったことにはさっぱり関心がないので、そうした古い建物が残っていても、あまり中に入りたいとは思わない。その点、図書館や美術館として使われている場合はいい。中之島図書館には今なお年に数回は行くので、歴史的建築物がまだ現役で活躍していることの実感が味わえる。建物は使ってこそ意味があって、中之島図書館はその最たる好例だ。
その図書館の東隣に建つのが中央公会堂だ。ここには昔70年代にフォークのコンサートを見に行ったことがある。そのほかにはあまり記憶にないが、中を覗いたことは一、二度あった気がする。古いままに長年使用されて来て、ステンドグラスや外観を磨き直して見違えるようになったのは数年前のことだ。その改修期間がかなり長かったように思う。また、改修後は重文指定され、かつての荒れた面影は全くない。本展のチケットやチラシにこの建物のファサードの半円窓が写っていて、この建物が大阪の顔になっていることがわかる。大正時代に「大大阪」と呼ばれて繁栄を誇った街であるだけに、その栄光を背負うこの建物にもっと頑張ってもらおうということだ。現在大阪は水の都を全国的に売りにしているが、そのシンボルは中之島であり、またその川に挟まれた土地で最も目立って君臨するのが、この中央公会堂であるから、外も内も整備して、今後も使用して行こうとするのは正しい。歴史と文化を大切にし、大阪にも観光名所があるということを大いに宣伝すべきだ。本展ではこの公会堂に関するコーナーが一番大きく、他の設計案のパース図面がたくさん展示されていた。全部で10いくつの案で、そうして公募して最高賞に選ばれたのが、現在の建物のデザインだ。他のものもみな興味深かったが、やはり現在のものが最も特徴的で、しかも威圧感が少ないように思えた。それはファサード上部の半円窓のせいだ。他にもこうした大きな曲線を使用した設計案があったが、現在の建物のデザインが最もおおらかで、最高賞に選ばれただけはある。また、この建物は相場で大儲けした大阪市民の岩本栄之助が明治末に100万円を寄附したことによって建ったが、株の暴落により建物の完成を見ずに、40歳ほどで自殺した。会場には岩本の自殺当日に写真館で撮った写真があった。それは笑みを浮かべてとても自殺する直前のものとは思えないが、覚悟を決めていたことを思うと、胸に迫るものがある。岩本は周囲からも真面目で清らかな人物として定評があったらしいが、大阪のためにぽんと100万円を出すところが大阪人の根性を見せつけて頼もしい。大阪人はケチの塊のように思われているが、それは岩本のような人物がいたことを知らないことによる。公会堂正面に建つ東洋陶磁美術館の前に、公会堂を見上げる岩本の銅像が立つ。この展覧会が「民都大阪」とわざわざ名づけるのは、岩本のことを思ってのことでもあるが、そのほかの建物でも、市民がお金を出し合ったものは多い。そうした例として、学校がいくつか挙げられていた。これも中央公会堂の公募案と同様、透視図法による精細な図面が多く、その作画の腕前に惚れ惚れしたが、中でも木造の校舎のすぐ隣に鉄筋コンクリートの校舎を建てる図面は面白かった。そうした新旧の対比は、ごくわずかな期間のみ存在し、すぐに残りの木造も鉄筋コンクリートに変わったはずだが、大阪市内のどこの小学校もよく似ているのは、そうした戦前の模範となる建物があったからだ。こうした校舎は、地元の人々の寄附によって建てられたが、学区が異なると貧富の差が激しく、校舎の質にも差が出たので、大阪市は学区を撤廃しようとした。ところが、その前に金持ちの多い地域では競って寄附して後者を立派な校舎にしたから、かえって金持ちの多い地域とそうでないところとでは差が出たといったことが書かれていた。民の力で建物を建てるのはいいが、自分の地域のを思い過ぎると、他地域との差が拡大して、市の思惑とは反対の結果になった。また、大阪市内の学校は、土地を大きく占めることが難しいので、校舎は運動場を囲う形で、道路の際に建てられたが、これは筆者が通った小中学校でもそうであった。他県でも同じかと思えば、案外そうでもないようで、大阪らしい校舎なのだろう。
こうして書いていて切りがないが、展示の最後あたりのことについて。まず中央公会堂のステンドグラスの修理だ。これは建設当時の約5000ピースだったか、とにかく全部解体したうえで洗浄、そして元どおりに組み立てた。長年の間に割れたものは復元された。その数はわずか1パーセントほどではなかったかと思う。修復された公会堂内部からステンドグラスを透かして外を見た光景の写真が、何年も前の週間誌に出ていた。その明るさと輝きは、長年荒れてくすんでいた頃とは同じものとは思えなかった。その輝きを取り戻した内部にはまだ入っていないが、その機会があるだろうか。また、半円窓の中央頂上は銅葺きのドーム屋根になっていて、そこにはミネルヴァともう1体の銅像が座っている。これは戦時中に金属の供出によってなくなっていたが、ステンドグラスの修理と同じ時期に復元されて据えられた。銅像の図面が残っていなかったのが幸いであった。ステンドグラスの修復を行なった業者の紹介もあった。公会堂を建設した時に請け負ったらしく、現在も営業を続けている。芝川ビルや丸福珈琲店と同じで、そうした会社が健在であるからこそ、公会堂は新しさを取り戻した。だが、解体されてしまう建物も多い。そうした建物にいち早く駆けつけて、廃棄される木材をもらい受け、それでウクレレを作る作家の紹介もあった。この人は有名で、各地で同じ作業をしている。なぜウクレレかとは問わないでおこう。小さなウクレレの形にかつての木材が残るだけでも、後々に思い出すよすがとなる。また廃材をそのまま残すより、小さくまとまって持ち運びや展示にはいい。同じコーナーに、戦後の建築物の紹介があった。その中にフェスティヴァル・ホールが入っていた朝日ビルの出入り口のドア・ノブが展示されていた。それは幅50センチほどの大きな勾玉型をしていて、筆者はそれをよく覚えている。今から25年ほど前か、ある女性とそれを触ったことを思い出す。その後ビルの建て替えが決まり、その特徴あるドアの引き手も全部撤去された。それが保存されていて、今回ガラス・ケースの中に見ることが出来た。ウクレレの形といわずに、なるべくなら形あるままにこうして保存されるべきだが、所有者が変わると、そういうことも無理なのだろう。所有者が変わらない場合は、古いものは保存、そして復元したものを新たに使うことになる。芝川ビルはそのようにしたて、金具などを復元した。有名な心斎橋そごう百貨店では、エレベーターの扉が漆の螺鈿細工であった。これは復元するには高くつくので、新しいデザインのものを作って現在使用中で、建築当初のものは資料として保存し、今回展示された。最後の最後のコーナーでは、大手ゼネコンの紹介があった。土木工学を学んだ筆者にとっては真っ先に知っておくべき事柄のはずだが、今回知ったことが多かった。大手のゼネコンはみな特色を持って経営して来た。棲み分けということだが、それだけではない創立者の理念というものがあった。大阪城や通天閣など、大阪のシンボルとなる建築物も、市民、そして設計者、ゼネコンの三位一体で作り上げられたもので、大阪が民都である意味がよくわかった展覧会であった。「民都大阪見んと大阪けなすな」と、駄洒落を言ってみたくなる。