猫と犬の大雨で、傘は持って出かけたものの、3つ折りの小さなものであったので、ほとんど役目を果たさず、ずぶ濡れになった。今朝は珍しく早く家を出た。

とはいえ、朝の8時半頃なので、一般人からすれば普通だ。松尾橋のバス停まで歩き、市バスの1日乗車券を買って、あちこち3か所を回った。もう1か所行く予定が、3か所でつい長引いてしまって、もうその時間がなかった。帰りは大雨になった。ムーギョやトモイチで買い物をし、それから猫と犬を喧嘩させたような土砂降りの雨の中を徒歩徒歩と歩いて帰った。土日は雨が降らねばよいと先日書いたのに、見事にその思いが外れた。明日は今日こなせなかった4か所目に行く予定だが、まだ雨は降るのだろうか。ベランダの庇の下にはメセンなどの多肉植物がそこそこあって、週1回の水やりをまた忘れ、今日は夜にやろうと思っていたが、このような大雨ではしぶきが鉢に入ってその必要もないか。そう思うだけで、実際は植物に訊いてみないことにはわからない。今年の夏の猛暑のせいか、また2鉢ほどが枯れてしまった。多肉植物は手間がかからないというが、水の与え方が難しい。たいていは多くやり過ぎて根を腐らす。筆者の場合は、ベランダの直射日光と、ベランダのコンクリートが50度以上になり、その上に直接小さな鉢を並べているのがいけないはずだ。台を作ってその上に並べ、また寒冷紗を被せて半日陰にするなど、それなりの手間をかけねばならないのに、ついみんなまとめて同じ場所に置き、同じように水をやる。多肉植物もさまざまで、品種ごとに水やりの頻度が違う。それを正しく調べるのが面倒で、いつもざーっと全部に注ぐ。そのように雑な水のやり方でもコノフィツムだけはどんどん増えて元気がいい。あまり手間のかかるものはいやで、猫や犬などのペットを飼いたいとは思わない。そうそう、昨夜は夢の話を少し書いたが、最近見た夢に、獅子がわが子を崖から突き落として、這い上がって来た者だけをその後育てるという話が出て来た。どういう文脈でそれが出て来て、その話が何につながったのかはすっかり忘れたが、その有名な話を夢に見たことだけは思い出す。さて、この話を筆者が最初に知ったのは小学生の高学年だ。母から教えてもらった。その時それがとても印象的であった。ライオンが本当にそのように子を選別するとは信じらず、教訓に違いないと即座に思ったが、一方で、百獣の王と言われるだけあって、強い子孫を残すためにそのような手荒いことをしてもおかしくないとも考えた。つまり、本当にライオンはそのように子育てをするのではないかとの思いだ。そして、その気持ちが半世紀経った今でも変わらずにあり、それが夢に出て来たのだろう。今こうして書いていてぼんやり思い出して来たが、どうやら筆者の息子に関係した夢であったようだ。

筆者が夢にうなされて手足をばたばたさせたり、鮮明な寝言を言うのは、家内に言わせると息子への説教が多いらしい。筆者は子どもは息子ひとりしかもうけなかった。これはライオンがたくさんの子を一度に崖から落として、その中から這い上がる者を育てることとは条件が違う。にもかかわらず、筆者は息子を崖から突き落とすような育て方をした。ところが、筆者の周囲の他人は、筆者がいつも息子にかまい過ぎるというのであった。だが、そう見えるだけで、本当は息子に独立心を植えつけるために、たとえば塾には一切通わせず、自力で勉強することを強いた。わからないことは自分で調べるような性格にしたかったのに、わからないことが何かもわからず、またわからないことを決してわかろうとはしない性格になって行った。世間では要領よく塾でテストのテクニックを身につけ、いい大学に入らせるというのが親の務めとされているが、本当に根性があれば、塾は不要であるし、また根性がなければ塾に行っても無駄というのが筆者の信念であったし、それは今も変わらない。だが、結果を言えば、息子は筆者と違って根性がなかった。その根性を2,3歳の頃から懸命に教え続けたはずだが、皆目それが育たなかった。おそらく息子は塾に通って平凡に成人になり、平凡なサラリーマンになる程度の器であった。それが、高校では朝寝坊して平気で遅刻を重ねる始末で、それを恥とも思わなくなった。勉強の嫌いな者はそれなりの生き方があるが、息子にはそのように腹をくくることも知らない。子どもをひとりだけ生むなら生むなと周りから言われたが、それは子どもがかわいそうであり、また兄弟がいないと競争に耐え抜く根性が身につかないというのが理由であった。子どもがかわいそうかどうかは、もともとひとりで育つのであるから、子どもには実感が伴なわない。また競争力だが、多くの兄弟がいても全員ぼんくらという場合は少なくない。高校から先の進路にしてもすべて本人の自由にさせ、息子は筆者の反対を押し切って自分で決めはしたが、すごすごとそれから撤退するというあり様であった。獅子がわが子を崖から突き落とす話にたとえると、息子は真っ先に崖の下で即死している。そんな不甲斐ない息子であるのはよくわかっているが、ともかく誰かに迷惑さえかけなければよいと思うし、本人も社会の片隅で影のように生きて行くのが自分に似合っていると思っているようだ。頑張りとか努力という言葉は、今はすっかり死語になっているのだろうか。自信を得るには、学ぼうとする気持ちがなければならない。その気持ちは突き落とされた崖から這い上がる行為だ。だが、崖の下でもそれなりに最低限の生活が保証されていることを知ってしまうと、獅子の子は崖を上ろうとはしない。そして、獅子になっても、死ぬまで努力し続けるのであれば、そんな生活はまっぴらというのだ。だが、そういう思いも正しい。誰もが獅子になれるわけではない。猫や犬、虫やばい菌など、生き物は多様だ。ただし、筆者が息子に言いたいのは、またいつも言っていることは、ホームレスになっても競争があるという事実だ。虫やばい菌でもそれは絶えず行なっている。

昨夜家内が以前に見たTV番組のことを話題にした。それがどういう話の流れでそうなったのかはあまりここでは詳しく書くことは出来ないが、夫婦というのはわからないというのが結論であった。そのTV番組は、70歳ほどの男性へのインタヴューで、その男性は一流企業に勤め、それこそ戦士のように懸命に働いて来たらしい。ところが、奥さんはそのことがずっと不満で、定年になった途端に退職金の半分をもらってさっさと離婚した。こういう話はよくあるのだろうが、筆者が思っていたのは、旦那の稼ぎが悪いために、奥さんが愛想をつかすという状態であった。もちろんそれがいつの時代でも離婚の大きな原因になっているだろうが、一流企業に勤務し、きちんと生活費を妻にわたしていても、妻はそれに不満であるとすれば、夫はどうすればいいのだろう。奥さんにすれば自分のことを少しもかまってくれなかったということなのだろうが、そうしたことは夫婦によって程度の差があり、他人にはうかがい知れない部分が大きい。筆者は、全く好き勝手に行動し、また収入もなく、家内をたいして大事にもしないので、いつ離婚を言いわたされてもおかしくないはずだが、今のところは双方にその気がない。これははたから見ればセックスの相性がいいのだろうと想像するのだろう。だが、全くそうではなく、むしろセックスも含めて相性は悪く、家内は手が触れることすらいやがる。そのため、この10年ほどは筆者は家内の体に触れたことがない。全く変な夫婦としか言いようがないが、毎晩話はよくする。家内は筆者がすぐに女性と仲よくなることを警戒しているようだが、そんなことはこっちはかまっておらず、また平気で誰それがいいなどと言う。また、先の一流企業の戦士に戻ると、その男性は奥さんと冗談を言い合ったりして、家の中でくつろぐことがあったのだろうか。筆者は家内に言わせると、とにかく元気で、またいつもよく冗談を言って笑っているらしいが、それが外に出て働いている家内には安らぎのようなものになっているのかもしれない。また、筆者はほとんど口にはしないが、自信と呼べるものは持っているつもりで、そこがある意味で頼もしいのかもしれない。お金の心配をすれば切りがなく、ともかくこの年齢になるまでに自力で家も買ったし、自分の好きなことだけをやって来たから、それで満足しなければバチが当たる。一流企業の戦士もいいが、定年になればおしまいであるし、せっかくの老後を夫婦で楽しくと思っていたことが、奥さんにさっさと逃げられると、その夢も消える。男がどのようにして生きればいいか。今はこれが大きな問題になっている。ひとつ言えるのは夢を持つことだが、それは長丁場で、一生かけてのことと思うのがよい。だが、サラリーマンではそうした夢は持ちにくい。そういう夢が筆者にあるかと言えば、あるとも言えるし、ないとも思える。だが、いつもやりたり、やっておきたい仕事はたくさんある。そのどれかに重点を絞って、とにかく前向きにやるしかないが、どういうわけかお金も儲けるという考えはすっかり欠落しているので、今後もやることなすこと、みな損ばかりの人生が続くだろう。さて、今日は去年11月30日撮影の4枚の写真を載せるが、昨日と同様、最後の1枚はいつもの駅前シリーズからは少し外れる。紅葉の嵐山を背景にして、わが自治会のある場所を撮った。