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●『ギュスターヴ・モロー展』
「詩と幻想の画家」という副題がつく今回のモロー展、関西ではちょうど10年ぶりの展覧だ。それ以前ではさらに10年前の1985年に三重県立美術館で『モローと象徴主義の画家たち』と題して開催され、友人のMの車に乗って観に行ったことを今もはっきりと思い出す。



●『ギュスターヴ・モロー展』_d0053294_2383881.jpg10年前のモロー展は京都国立近代美術館で開催されたが、図録を購入しなかった。モローはあまり好きではなかったからだ。今もその思いはあまり変わらない。『モローと象徴主義の画家たち』においても、面白いと思ったのはモローよりむしろフェルナン・クノップフが描く女性像などで、モローの絵は細部の仕上げがていねいではなく、むしろかなり雑な描き方で、絵が本当にうまいのかどうか疑問に思えたほどだ。だが、これは今もそう思うが、モローの絵は、その奥から滲み出て来る幻のような味わいこそが命で、それのあるなしで絵の優劣が決まるところがある。そのため、本物そっくりにくっきりと物事に描くことなどはいわばどうでもよいことに属する。ここがわからなければモローは楽しめない。そして、そんなモローがマティスやルオーといった画家の師匠であるという事実を知ると、複雑な気がして来る。個性を重んじる欧米では、弟子が師の作風をまねることは許されず、むしろ全然違った作風を確立することで恩を返すという考えがあたりまえらしい。これは芸術の世界にあっては当然過ぎることのはずだが、日本では残念ながら、まだまだそんな状態には至っておらず、弟子は師の作風を模倣し、そしてそれを喜ぶ師はそんな弟子をどんどんと入選させて派閥を作りたがる。いや、モローの生きたフランスでもそうした事情はある程度同じように存在したであろう。どの国でも人間が変わるはずはないからだ。であるので、モローは違っていたということだ。こうして日本で10年ごとに大規模な展覧会が各地を巡回する事実は、それだけモローの絵画世界に汲んでも汲み切れないものがあるからと考えてよいだろう。『モローと象徴主義の画家たち』という展覧会の次にずばりモローだけの展覧会があって、そしていずれはモローとその弟子たちの作品を並べる展覧会も企画されるだろう。その時にモローが精神的にいかに弟子たちに大きな影響を及ぼしたかがもっとはっきりわかるに違いない。大事なのは作風が続くことではなく、精神性が続くことなのだ。日本ではこれが逆になっている。作風がそのまま模倣され続け、精神は後からついて来ると思われている。ある程度の形を描けるようにならなければ、精神などないという考えだ。これも見方を変えれば正しいが、ある程度の形を描けるようになるその過程の最初にまず師匠の完成した形を擦り込ませるため、後から自分の目で形を見つめることが出来なくなってしまうことを考えないのだ。
 モローの絵があまり好きではないのは、描く絵がすべてと言ってよいほど現実には存在しないギリシア神話の登場人物であったりして、描かれたものを理解するためにはそうした教養を強要されるからでもある。つまり、モローの絵は物語の挿絵と同じように機能しているあまり、肝心の物語に関心がなければ理解したことにならない。だが、これは奇妙な言い逃れともなりかねない。たとえばヨーロッパに多くあるキリスト教絵画をいちいち聖書の該当する部分と照らし合わせて鑑賞する必要があるとは限らない。それから言えば、ギリシア神話をあれこれと深く知らなくても、それなりにモローの絵は楽しめることになる。そして実際筆者はそうしているが、それでもそこに一種の後ろめたさはついて回る。絵画をどのように鑑賞しようが自由で、描かれたモチーフの背景など知る必要がないと言えるのは確かでも、知っておいて損はないことはもっと確かであって、知ればもっと別の見方が開けて、理解がさらに増すこともあるからだ。モローを敬遠しているのは、そういう思いがあるにもかかわらず、こっちにはギリシア神話のさほどの知識もないし、今すぐにそうした本を繙く気にもなれないからだ。そして、20世紀が直前に迫っている1898年に亡くなったモローがなぜギリシア神話や聖書といった世界にこだわったのか、そこがまたよくわからないからでもある。未来を見ずに、モローは回顧を累乗したような昔を夢見て絵に描き続けたところがあり、そのアナクロニズムがどうにも筆者の中では収まりがつかない。日本で言えば本居宣長を連想すると言えばいいだろうか、いや、モローは自国フランスにだけにこだわった国粋主義者ではなく、ギリシア・ラテン、それにイスラムや東方を含めたヨーロッパ的なるもの全般から世界に目が向いていたので、この比較は具合が悪いが、にもかかわらず、自分しか信用しないような頑固さの点で本居宣長を思い浮かべるのも無理がない気がする。だが、自分しか信用しないというのは、画家であるためには必須条件だ。自己の信ずるところにのみ突き進んでも画家の一生は短いものだ。モローのように無数とも言える作品を残した画家でも、生涯にこれだと言い切れる自信作は数点あったかどうかだろう。それでもまだ画家としては幸福であって、たった数点の代表作と呼べる作品もないままに歴史に埋没する画家は無数にある。
 モローは若い頃、イタリアに2年ほど滞在して絵を学び、今回の展覧会ではフィレンツェの風景の素描が1点出ていた。イタリア絵画を勉強した成果がどこに表われているかと思って作品を眺めて行くと、確かに「オイディプスとスフィンクス」におけるスフィンクスの横顔の素描のひとつがいかにもジォットの描く人物そっくりで、そのほかにもピエロ・デラ・フランチェスカを思わせる人物もあったりしたが、形態的にはほとんどモロー独自のものになるほどに消化されていて、模倣と呼べる跡は見られない。それよりも筆者がたとえばフィレンツェの影響を思ったのは、モローの水彩画がよく宝石を散りばめたようだと評される点だ。モローの絵はどす黒いとも思えるマゼンタやエメラルド・グリーンが効果的によく使用されている。後者はラピス・ラズリに見えるような場合もあるが、そうした鉱物趣味はフィレンツェを連想させる。それというのも、フィレンツェには色鮮やかな各種の石を使用したモザイク画が昔から盛んで、それらを集めた博物館があるほどだが、そうした貴石画とも呼べるモザイク工芸絵画は、石に内在する自然の模様をそのまま利用することがしばしばで、そこに油彩で絵を少し加えることで、全体として幻想的な絵を生み出そうとしていて、それがほとんど透明感のある石の質感を感じさせるモローの水彩画と同じと言ってよいのだ。フィレンツェに古くからある貴石画をロジェ・カイヨワは好んで紹介しているが、モローがフィレンツェに滞在してこうした作品を見なかったことはまず考えられない。モローの絵が輝く宝石のようだとたとえられるのは、絵の中に宝石をまとった人物がよく登場することからなおさらそう言えるのだが、それを除いても、色の配置や絵全体から立ちのぼる空気の透明感が貴石画の自然石の色の深みを連想させる。神殿や玉座、あるいは奇怪な形をした岩山など、モローの絵には石を連想させるモチーフが必ずと言ってよいほど登場するのも、硬質なものに憧れたモローを示すように思う。モロー自身はどちらかと言えば軟弱な体質、性質であったと思うが、その求めていたものは、ギリシア美術にあるような強固な完璧さであったかもしれない。ところがそれが19世紀のフランスではもはや遠く手の届かないものであることもよく知っており、そのためにひたすら自己の内面に沈潜してひとりで夢想し続け、その毎夜の夢の跡が膨大な素描作品になったように思う。それらのイメージは夢に近いものであるので、当然絵画としては輪郭がぼやけたものにならざるを得ないし、ムードというものを描出出来さえすれば、それで充分と言える。そのためにモローの絵はたとえばアングルの絵のように明確な形を描く方向にはあまり進まず、色彩の妙で無限の夢幻性を表現しようとした。
 つまり、イタリアに学んだ影響は巨匠たちの作風よりもむしろ、絵そのもののマチエールにこそあったのかもしれない。弟子のルオーの絵がステンド・グラスを連想させるのに似て、モローの絵の独特な味わいもやはり工芸的なものに祖があると考えてよいのではないか。その工芸的なものへの関心は、一方で床のタイル模様や織物の連続パターンといった装飾文様への描写によく見られる。モローの小さな水彩画は大抵タッチが荒く、ほとんどなぐり描きに近いようなものがある。まるで細密に描くのが面倒であったのかと思わせるようなそうした絵もそれなりにまた別の面白さがあるが、そんな絵の一部に、図案家がこつこつと長時間を費やして描くような模様を額縁風にびっしりと描き込んだ作品もある。そうした連続模様を実際に描いてみるとわかるが、なかなか骨の折れることで、おそらくモローのような幻想好みの画家にとってはそれは苦痛であったと思うが、それでもそうした模様を描き込む必要がモローにはあった。そしてそんな成果が意外なところで生かされている。それはたとえば踊るサロメを描く時、サロメがまとううす絹の衣装の文様に自由に変形されて登場している。こうした模様をモローは東方のイメージを描く時には全般に使用していると言ってよいが、イスラムやあるいはインドのミニアチュール絵画などを見て、そうしたイメージを自分なりに変容させて描く時に文様の技術の必要性を感じたのであろう。だが、古代ローマでもそれなりに似た文様は当然のごとくあったから、東方のイメージ描写の場合にのみ細かい模様を埋め尽くすように描くこともなかったと思うが、当時のオリエンタリズムの固定観念にある程度はモローは染まっていたようで、モローの場合、連続模様は東方イメージに直結している。ただし、アトリエにこもり切って外国に旅することをしなかったので、東方のイメージも頭の中で独自に想像されたものとなり、模様も自在に工夫したものであって、それ風に見えれば事足りた。この文明における独自の文様の引用ないし改変で連想したのは、エルンスト・フックスの絵画だ。両者は色合いや線の質の差から同じ系譜に属する画家とは一見思えないが、神話的題材への志向からはフックスはモローの直系の子とみなしてよい。それはまた別の話として、歴史絵画では小道具などは事実に基づいて描かれるべきだが、モローの立場はそうではなく、あくまでもそれ風であれば充分というものだ。絵は写真ではないし、現実でもないという考えだ。これは当時のフランスがどんどん合理的に物事を考えて、何でも克明に記録して事実を見えるようにするように関心が動いていたのとは逆行する。モローがアナクロニズムに見えるのは当然のことで、それはあえてそのような世界に耽溺したのだ。
 科学がどれだけ進んでも人間がなぜこのようにして生きて死んで行くかはわからない。フランスがシュルレアリスムが起こったのは反合理主義の行き着いたゆえとも思うが、前述したカイヨワはシュルレアリストでありながら、神話や夢を初め、この世に存在するあらゆるものに興味を抱いて、それらを貫く宇宙の原理のようなものを探ろうとした。そんな中、カイヨワは幻想的な絵画がどのようにして生まれるかの研究もし、従来の幻想絵画と目されている作品に対して批判を加えたが、そんなカイヨワが自国の美術の中でモローの描くサロメを幻想的と評しているのは興味深い。その理由は、サロメには本来ないはずの入れ墨が体中に描かれているためと言うのだが、今回の展覧会にやって来たいくつかのサロメ像にはすべて前述の連続模様の断片が散りばめられていて、それらは筆者には入れ墨には見えず、どうしてもシースルーの衣装に浮かぶ模様に見えたが、カイヨワがモローのサロメを幻想的だと評するのは最大限の賛辞であり、これは一聴に値する。モローがシュルレアリストたちに評価されることになった理由は、カイヨワのこの評価からも充分理解出来る。神話に関心があったモローはその世界を通じて現実にはない美を描くことを追い求め続けたが、現実逃避的に見えるその態度があってこそモローは永遠の眠りの中の夢の世界を永遠に現実の中に見えるようにわれわれに返してくれることが出来た。ある意味でそれはサクリファイス(これもカイヨワは研究対象にしたが)の観念があってこそであり、そのためにモローは20世紀の直前に死んだにもかかわらず、時代からはかなり遊離したような存在感を獲得している。詩や幻想は芸術の最高の要素であるが、それを絵の中に完璧な形で閉じ込めるには、自己をまず広大無限な世界に放ち、かつ閉じ込める必要がある。幸いにもモローにはそれが出来る恵まれた環境が整っていたし、そこに住み続ける資質もあったのだ。
by uuuzen | 2005-08-05 23:09 | ●展覧会SOON評SO ON
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