陶磁が京都の工芸では筆頭格の扱いがされている。その次が染織と言いたいところだが、実際はどうだろう。この展覧会は映画『飢餓海峡』を見るついでに見たが、リニューアルされた京都文化博物館にようやく初めて入った。
玄関ホールまでは以前に少しだけ雰囲気を味わいに行ったが、リニューアルされた部分と、以前のままの部分が見事につながっていて、変な気分になった。旧い部分を見ると以前と同じ気分になれるのに、少し目をそらすとそこには新しい光景が広がっている。それはほとんど夢を見る感覚だ。建物の内部が変わるのであれば全部そうあればいいが、予算のつごうがあったのだろう。2階は京都の歴史文化を紹介する常設展示室で、以前これは京都観光に来た人にはもって来いの展示がなされていたが、今回のリニューアルではかなり思い切った改装がなされ、京都の歴史の長さをこれでもかという規模で見せてもらえる。その最初のコーナーは、大型の画面がずらりと横一列に隙間なしに並べられ、平安から江戸時代まで、絵巻物の細部のクローズアップを用いて、人々の生活を紹介する。近代以降は、写真が登場したので、それを利用した展示となっている。全体的に言えば、映像と実物の双方で京都らしさがわかる仕組みに変わった。ちょうど筆者らが鑑賞している時、50名ほどの30から40代の男性が各自資料を抱えてぞろぞろと入って来た。一見したところ、他県の資料館の学芸員たちで、歴史文化の展示のノウハウを勉強しに訪れているようであった。予想どおり、彼らは普通の人が入ることの出来ない別室に吸い込まれて行った。そこは次回の展示用の部屋で、飾りつけの最中のようであった。足早に見て風のように通り過ぎたところ、おそらく別室で説明がある、あるいはその後の見学であったのだろう。京都は文化の中心としての歴史が長かったので、この文化博物館の常設展は、ほんの触りの触りといった程度で、資料があり過ぎて展示し切れない事情がある。以前の常設では、総合資料館にある伏見人形のミニ展示が定期的に実施されていたのに、リニューアル後はその場所がなくなった。代わりと言っては何だが、やや広い目の一番奥まった部屋に、祇園祭で使用されて来た古い胴掛や前掛が展示されるようになった。この資料は20年ほど前は四条烏丸東北の銀行のビルの一室を借りて展示されていた。いつの間にかそれがなくなり、今回久しぶりに文化博物館に居場所を見つけた格好だ。伏見人形より祇園祭を重視するのは仕方がない。それほどに京都には展示したくても出来ないものが山ほどある。これは他県からやった来る学芸員にとってはうらやましい限りではないだろうか。そういう京都の文化資産として清水焼がある。今回の展覧会は、常設展示のひとつ上の3階で行なわれたので、いわば準常設展ないし準企画展的なところがある。備えつけのパンフレットには、「平成23年度 次代へつなぐ京都の工芸 1」となっていて、これは2,3が続く意味だろう。2に染織と思うが、染色家である筆者には、その作家の人選は予想がつく。その意味からすれば今回の京焼にしても、それに仕事で携わる人には、いろいろと意見があるだろう。簡単に言えば、誰もが納得出来る人選は不可能で、そこには裏があるという見方だ。それはいかにも京都らしいが、それほどに無数に近い工芸家がいて、完全に公平な人選は永遠に出来るはずがない。
だが、他県からやって来る人、あるいは京都にいてもさほど工芸について深く知らない人たちは、こうした展示は、京都の工芸界をまんべんなく照らして、誰が見ても妥当と思える作家の作品を選んでいると思うだろう。大部分はそのとおりだが、何しろ作家たちは活動中で、しかもこうした公の展示は商売に直接間接にかかわることであるだけに、あいつの作品が出ているのになぜ自分のはないのかといった不満を抱く作家は必ずいる。そこで一番いい方法は、物故した作家だけを取り上げることだが、歴史の長さを示すには、古い技術が今に伝わって、大勢の作家が活動していることを紹介せねばならない。京都は観光だけではなく、伝統産業によって財政に寄与してもらう部分が大きいので、それは欠かせない企画だ。そして、京都文化博物館がその役割を担うのは当然であろう。物故作家の作品は国立博物館にもっぱら任せればよいし、先の伏見人形を展示するコーナーが失せたことも、産業的に見ても何らうまみはないと考えれば納得が行く。そして、産業という見方をすると、たとえば清水焼でも西陣織でも、組合というものがあって、そこが窓口になって組合員たちを各方面に紹介するから、こうした企画展ではどうしてもそういう組合、あるいは団体公募展の審査員といった人たちの作品が占め、独立で仕事をしている人にはまず話が持ちかけられない。そのため、そうした人の作品は個展でしか人目に触れず、一般人にはほとんど無名のままとなる。だが、そういう作家の中にも優れた才能はいくらでもあって、それほどに京都の工芸界は裾野が広い。そして、そんなに大勢の作家が京都のどこに住んで製作しているのかと思わせられるが、工芸作家は各ジャンルごとにだいたい同じような地域に集まりがちで、特に土を扱う清水焼はそう言える。ところが、清水界隈は登り窯の煙が迷惑ということで、家が立ち並ぶにしたがって、仕事場の確保が難しくなり、郊外へ移転しなければならなくなった。高度成長期がそれに当たる。今回の展覧会は、そうして出来た清水焼の作家たちが一か所に集まって仕事をする場所である「清水焼団地」が出来て50年を記念してのものだ。名前は清水とついているが、これは五条坂あたりとは関係がない。そこをもっと東に行って、山を越えて山科区に入ったところにある。筆者はこの団地に数回行ったことがある。ある工芸団体にかつて所属していて、作品の搬入場所として、その団地の一室が使用されていたのだ。今もそうだと思う。それは、その団体のいわば筆頭格として陶磁の作家が占めていたことによる。工芸におけるこの一種の暗黙の了解としての階層化は、どれだけ世間に有名になる作家を多く輩出するかにかかっている。そういう人の周囲には弟子が集まるし、そうなればその作品を売る商人が多くなり、組合に大きな貢献をする。そして世間全体も認めることになり、やがては文化勲章か人間国宝という話も出て来る。そして、そういう先生が審査員を務める団体は、その先生が携わる工芸家たちが幅を利かすに至る。そうしたことから、京都の工芸界では陶芸が最も力を持っている。
ところが、細々と自分の作品を作って陶磁専門店に置いてもらっているような陶芸家から耳にしたが、陶芸より染色の方が格が上と言う。まさかと思うが、職人としての賃金面からの話なのかもしれない。どうでもいいような話のついでに書いておくと、筆者が昔所属していた工芸の団体は、金工の大先生が幅を利かしていた。そして、染織を見下げていたらしい。その理由というのが、素材の問題だ。金工は金属なので、作品はほぼ永遠に保つが、染織は繊維という脆い消耗品で、100年程度しか持たないというのが理由であった。その意味からすれば陶磁も永遠に近い。ただし金属とは違って割れる。だが、金属のように腐食はしないから、どちらが格が上かとなると判断が難しい。どっちにしても染織品が脆弱なのははっきりとしているが、そのことで芸術度が劣ると言うのは了見が狭いのではないか。染織も保存がよければ1000年以上持つことは正倉院の宝物を見るとわかる。それほどに染織の歴史も長く、工芸の間で階級らしきものが出来るのはどうかと思う。だが、商品として考えると、染織は今では芸術になりにくいことは、量産品のユニクロやプリントの安物のキモノを見ればわかる。一方、陶磁は、昔ながらに食器や花瓶を作る必要があるし、生活の中にそのまま作家の作品が入り込みやすい。もちろん染織や帯やキモノがそうだが、キモノは今はかなり特殊で、ごく一部の人が愛好するものになっている。また染織の技術によってキモノ以外にいろいろなものを作ることは出来るが、食器や花瓶のような必需の品ではない。また、一昨日書いた『ZIPANGU』展でも、陶磁や漆の作家が現代芸術と呼べるものを出品していたが、染織家はいなかった。それほどに染織は表現として、現代にあまりふさわしくないものになっている。これは、染織は絵を表現するものであるから、日本画や油絵と同じ土壌で勝負せざるを得ず、結局のところ、絵画表現の歴史の浅い染織は日本画や油絵に負けてしまうという見方だ。本当はそうとばかりは言えないのだが、染織についての人々の知識が概して陶芸よりはるかに低く、いくら染織で意欲的で画期的なことをやっても、評価される土壌がない。たとえば、正倉院の染織の宝物と同じ技術で表現し得たとしても、その作品のどこが現代的かと訝られるのが落ちで、染織は労が多い割に報われない。もはや手作りで染織品を生み出す世の中ではなくなったということなのだろう。それは茶碗や花器でもある程度は同じで、一般人は量産ものを使う。湯飲み1個で50万円するものが確かにいいのはわかるが、それを買って日常に使える人はごく稀だ。そういう稀な人を相手に、京都の工芸家は細々と生きている。
さて、清水焼団地と聞いてもほとんどの人はぴんと来ないだろう。どこで焼かれようが、京都であればよく、相変わらず清水焼きというブランドは残って行く。また残して行かねば作家の系譜が途絶えるし、京都の工芸の重要な光も失われる。それは何として食い止めねばらず、また長い歴史を思えば、次代を担う作家は今後も途絶えることがない。今回の展示は、第1章「京焼と清水団地の創成」、第2章「伝統産業の新しいまちづくり」、第3章「伝統と創造への挑戦」で、第1章は博物館に並ぶような19世紀のものが選ばれた。誰しも予想するように、仁清、乾山、道八、木米らで、これは書くまでもないだろう。第2章は、陶土、原料、木箱、卸・販売、碍子、関連業種に分けられ、陶磁の作家だけではなく、その関連業種の紹介があったのは面白かった。碍子も清水焼で作ることは、戦時中に手榴弾を作ったことがあるのでさほど意外ではない。関連業種として、精密部品、注油器とある。たとえば京セラが元はセラミックを扱っていたのであるから、焼き物から精密部品というのは、これも意外ではない。第3章は、華麗な釉薬表現、優美な意匠、用の美の追求、フォルムの探求、茶陶の現在、至芸の美という項目に分けられ、それぞれに物故作家も含む10数名が選ばれ、ひとり1点ずつの展示であった。これが今回の一番の見所だろう。筆者の知らない作家も多くいた。最後の「至芸の美」のカテゴリーでは、御所人形などの人形が含まれていたのが意外であったが、これは人形を陶磁で作っているからだ。だが、全部がそうではなく、染織品を附属として用いているものもあった。この3階も大幅にリニューアルされ、奥に大きな休憩室が出来ていた。そこからガラス越しに庭が見え、そこには織田信長が首を切り落とした石仏がたくさん並べられていた。これは以前は1階の本館庭にあったものだが、そこから移したものか、あるいは並べ切れずに倉庫に保管していたものを置いたのか、次回行った時に1階の庭を確認したい。この休憩室はほとんど誰も入って来ず、ゆったりとしていい。コーヒーでも飲めればもっといいが、それが無理なら展示室に使わないのは少々もったいない。ともかく、リニューアルしただけはあるほどに、内部は立派になっていた。この博物館は当初10年ほどで閉館する予定があったが、予想に多いに反して右肩上がりに来場者が増え続けた。それは寺町から西の三条通りを観光客が歩いて楽しい場所にしたことにもよる。それに岡崎は陸の孤島と化して、若者が行きにくいことによる。若者でない筆者でもあまり行く気になれないほど最近は遠く感ずる。最後に筆者が所蔵する古い清水焼の作品から部分を撮影したものを載せておく。