藩主の弟が江戸で拓いた粋の極み。チラシに書いてある酒井抱一の画業のことだ。今年は生誕250年で、姫路で大規模な展覧会が開催された。
抱一は姫路藩主の次男として江戸の藩低で生まれ、生涯を同地で過ごしたので、江戸出身の画家という感じがあるが、もともとは姫路の家柄であるので、姫路市の美術館で展覧会が開かれた。8月30日から始まり、今月2日に終了した。会期は全3期に分けられ、筆者が見に行ったのは先月9日、第1期が始まって10日ほど経った頃だ。毎日有料入場者に限り先着150名に、特製「抱一生菓子」をプレゼントとチラシに書いてあった。これがもらえればどうしようと思いながら、昼間の入場ではその数には入らなかった。暑い盛りに生菓子だけもらっても困りものだ。カルピソ(カルピス・ソーダ)の甘い炭酸と生菓子では、口の中がどのようになるかと想像していたが、想像だけに終わってよかった。それにしても毎日150名とは大盤振る舞いだ。姫路市がよほど力を入れていることがわかる。京都でも開催されればいいと思ったが、京都は抱一が私淑した光琳を生んだ土地であり、わざわざ姫路の、しかも江戸で活躍した画家を持ち上げることはないと思ったのではないだろうか。だが、抱一の作品は岡崎の細見美術館に多少あって、京都が無視しているのではない。筆者は昔から抱一にさほど関心はないが、学生時代の恩師が抱一のファンであることをかつて耳にして、それなりに意識はして来ている。筆者が最初に抱一の代表作である「夏秋草図屏風」を知ったのは中学2年生の美術の教科書で、それは今も所持している。この重文指定の作品を改めて認識したのは、1970年の万博だ。その記念に切手が二度発売された。それぞれ3種ずつで、最高額面50円の大型切手の図案が、最初は光琳の「燕子花屏風」で、2回目の発売では抱一の「夏秋草図屏風」のうち、左隻の秋草が選ばれた。つまり、日本は万博の際に、世界に紹介する代表的画家として、琳派の祖とそれを継いだ抱一を取り上げた。光琳の屏風は金地、抱一は銀地で、これは光琳が一等で、抱一が二等といった雰囲気があって、よくぞ抱一が同作を金地に描かなかったものだと思った。それは筆者が10代の頃の思いで、その後40年ほど、全く抱一については考えが変わっていない。それは実作品に多く出会う機会がなかったためだ。それを思うからこそ、今回は思い切って見に行くことにした。図録は求龍堂が製作したハードカヴァーで、2800円だったと思うが、買わなかった。それは筆者の抱一に対する思いを反映している。つまり、思ったほど感心せず、結局のところ、「夏秋草図屏風」を見るだけで充分という気がした。確かにこの作品は頭抜けたところがあって、琳派特有の装飾性をふんだんに持ちながら、外気を感じさせる。それは光琳を生涯慕いながら、さまざまな画風を試して続けて、ようやく独自のものを獲得したという自信に由来するだろう。だが、「夏秋草図屏風」と同じほどの優れた作品を10や20を描いてほしかった。光琳の呪縛に絡め取られ過ぎて、独創的なものを多く作り出せなかったのだろうが、琳派を明治まで伝えた業績は大きい。
久しぶりに訪れた美術館で、館内は記憶にさっぱりなかったが、とても細長い、大きな廊下のような一室全部が充てられ、会場を一周する形で作品が並んだ。かなり人は多く、外国人もちらほらいた。中にはカメラで撮影してはなぜいけないのかと、学芸員に英語で質問している者もいた。著作権がどうのと言って理解を求めていたが、あまりうるさいことを言わずに、撮影させてもいいのではないか。今回は藩主であった兄の忠以(宗雅)の作品や、また抱一以降の江戸琳派の作品もたくさん並んだ。だが、抱一にさほど興味が抱けないのであれば、その周辺の画家に面白味を感じるはずがない。上田秋成は、呉春にたくさんいた弟子をみなけなしたが、それと同じことで、突出した才能だけで充分といったところがあり、筆者は「江戸琳派」という表現も好きではない。だが、抱一以降の琳派の全部が面白くないというのではなく、そこには個々の画家の個性がやはりある。神坂雪佳はその筆頭として近年再評価が著しい。だが、雪佳は京都の画家であったから、やはりこれは筆者の京都贔屓か。さて、抱一は藩主の弟で、経済的には何不自由のない生まれ育ちであったが、何しろ次男であり、また兄に長男が生まれた後、養子に行くこともせず、居場所がなくなった格好になった。また、祖父の代から文芸を重視した家柄で、そうした環境の中、抱一は若い頃から俳諧や書画に関心を抱く。これは柳澤淇園を思わせるところもあるが、より世代が近い殿様画家となれば、増山雪斎がいる。だが、評価は抱一の方がはるかに高いし、また名も知られる。これは雪斎が伊勢という田舎にとどまったことも多少は理由としてあるだろう。抱一は兄を30歳頃に失う。そして、37歳で出家する。これで自由に市中で絵を描くことの出来る身分となった。また、抱一は若い頃から遊里によく遊び、太夫を身請けして妻にしたが、これは呉春も同じで、その画風を考える時にひとつの参考になるかもしれない。絵に色気を重視する立場と言おうか、そのためもあって、最初に書いたように、「粋の極み」に達したということだろう。遊女を妻にする感覚は現代の男にもあるとしても、教養、知識も豊富でしかも多くの男に慣れているとなると、よほど自分に自信のある男でない限り、伴侶にはしないだろう。今回は妻との共作も出ていて、抱一にとっては満ち足りた夫婦生活であったのだろう。展覧会のチケットに印刷された作品は、細見美術館蔵の抱一の肉筆浮世絵の美人画で、20歳頃の作だ。琳派に開眼する以前にこうした絵を描いていたことは、太夫を妻にすることとつながっている気にさせる。江戸に住んだので、浮世絵に関心を抱くのは当然として、出家した頃から、どういう理由かは定かでないが、琳派に関心を抱き始める。その一方で、仏画を描くなど、琳派にこだわらなかったところもあり、とにかく何でも描いてやろうとする意欲は旺盛であったようだ。先立つ絵画を学ぶとは、当時は模写がその方法だ。抱一は宗達の「風神雷神図屏風」を光琳に倣って模写していて、この模写主義が、筆者には抱一の才能を超一級とみなしたくない理由になっている。光琳の「風神雷神図屏風」は宗達のものと比較して、光琳の斜にかまえた思いが表現されていると言われたりして、それはそれで光琳の芸術を知る手立てになって価値があるが、それでも宗達の原本に比肩して国宝に指定されることはない。その意味で、抱一の模写はさらに光琳本より価値が劣り、特筆すべき作品ではない。だが、その模写本によって、自分が現在の光琳に比肩すると思う必要もあり、一方で「夏秋草図屏風」を描いたのであるから、抱一はやはり才能があったと言うべきだ。「夏秋草図屏風」を描かず、「風神雷神図屏風」の模写程度しか残さなかったのであれば、抱一は美術史に名を残さなかった。抱一の弟子の鈴木其一もまた「風神雷神図屏風」を模写しているが、「夏秋草図屏風」に比肩出来る作を描かなかったので、江戸琳派の才能は尻すぼみになって行ったと見るしかない。その尻すぼみの状況が、宗達の「風神雷神図屏風」の模写を続けたことに象徴されている。「風神雷神図」は明治になっても画家が挑戦したくなる画題であり続けたが、筆者は宗達の模写ではない、渓仙の作を好む。偉大な宗達の作を前にして、その模写を続けるということは、もういい加減終焉を迎えてもよかった。
抱一は光琳を顕彰し続け、「光琳百図」という本を出版する。今で言う画集だ。それは後に続編を生み、さらには抱一の没後、琳派画家の落款を網羅するなど、充実が図られる。それは日本を代表する美術が光琳にこそあると思っていたことによるだろうが、その見方は正確であったと言わねばならない。当然ながら、抱一は光琳の弟の乾山にも心酔し、同じように作品集を出しているが、浮世絵から始まった作画が、京都の画家や陶芸家に眼差しを向けたのは、江戸にはないものをそこに見たからかどうか、姫路という土地柄を考えさせもする。これが東北の藩主の出でありながら、琳派に関心を抱いていたならば、もっと面白いことになっていたように思う。それはともかく、抱一は江戸時代後期にあって、ほぼ同じ年齢の谷文晁とともに、画家として双璧をなしているが、江戸後期という、末期的な時代に活躍しただけに、いい意味でも悪い意味でも、その芸術は宗達のような明るさと力強さを持ったものからは遠く、技巧に勝り過ぎ、活力に乏しいものに見える。簡単に言えば、瑣末なことに関心を持ち過ぎということだ。であるからこそ、風に吹き飛ばされそうな秋草や、雨にうなだれる夏の草花を題材にした「夏秋草図屏風」が代表作になったと見ることが出来るし、後継者は琳派の装飾性をマニュアルとして利用し、より描表装を得意とするなど、装飾過多に陥って行った。その意味で、時代をよく体現した画家で、そこが見所であり、また現代的なところと思わねばならない。琳派は、今でもキモノ図案には盛んに使用され、文様の大きな原点になっている。だが、引用をするのであれば光琳の作からであって、江戸琳派に学ぶべきものはないように思う。これは、学ぶのであれば、原本から直接であるのがよいことからは当然で、抱一以下の江戸琳派は、光琳などの偉業を後に伝えたという点で評価され続けると思える。抱一の作品を殿様の趣味が嵩じたものと割り切ってしまうとかわいそうだが、屈折した意識を言えば光琳の方がはるかにそうであろうし、とにかく特筆すべき境遇や生き方のようなものがないところが物足りない。比較的若くして出家したとはいえ、経済的には困窮はなかったであろうし、そのお金持ちの坊ちゃん育ちという雰囲気が、肖像画にも表われていたように思う。だが、それだからこそ作品が上品でよいと言う人もあるし、また江戸の粋さというものを理解しない野暮天と言われるかもしれない。これ以上書くのはやめておいた方がよさそうだ。