迫力は画面の大きさに比例するか。あるいは絵を描く人の年齢に比例するか。また、迫力だけが美術作品の魅力かなど、あれこれを考えさせられる展覧会であった。まだ暑い9月の4日に大阪難波の高島屋で見た。

今は京都の高島屋で開催しているから、わざわざ大阪にまで行く必要はなかったが、その日は神戸で見るべき展覧会に入れなかったこともあって、予定を変えて大阪に出た。1200円の阪急阪神一日乗車券を改めて見ると、阪神の尼崎から難波まで出られることに最近気づき、それでその日はそのルーとで難波に出てみたかった。全く新たな難波の駅があるのかと思っていたが、近鉄の難波駅に到着して拍子抜けした。阪神は近鉄と相互乗り入れしたのだ。ともかく、難波から神戸に出るのに、梅田に行って乗り変える必要がなくなり、便利になった。奈良から神戸に行くにも、途中で一切雨に濡れずに難波経由で可能となって、人の流れが線路のわずかな区間の結合で変化したであろう。さて、この展覧会については、書くべきことがあるのかどうか、1か月以上もそのままにしていたので、どちらかと言えば無視してもいいと思っている。だが、今年は特にそうか、見るべき展覧会の開催が少なく、こうした海のものとも山のものともわからない若い作家を集めた展覧会に期待し、そして見に行った。前にも書いたように、筆者のように40年以上も美術展をあれこれと見て来た者からすれば、たいていのものは見知っているから、全く新鮮な作品は限られる。だが、10年で新たな世代が出現して来るから、そういう若い人のために、半ば古典と化した作品を見せる必要があるし、古い世代にも足を運んでもらうために、10年前とは違って新たな視点を用意し、集める作品も多少は変える。そのようにして、美術ファンは生涯に最低10回のゴッホ展やピカソ展を見る。これが筆者には少々退屈で、今までに見たことのないものが見たい。それは新人か、あるいは過去の忘れられた作家、あまり光の当たらないジャンルということになるが、美術展に行くのが若い人が多いということからすれば、新人の作品を見せる方が入場者数を獲得するにはいい。過去の忘れられた作家となれば、よほどの前宣伝がない限り、人を集められない。それはいいとして、筆者が自分の子ども世代の作家の作品を見ても、世代差による考えの違いから、正確に味わいが把握出来るかどうかは疑問だが、最初に書いた迫力とでもいったものは感得出来ると思う。またそういうものを求めるからこそ、相変わらず展覧会に行く。だが、いつの時代もこの世代間の無理解がつきまとう一方、時代の流れに変化があって、常に豊かな才能による名作が生まれ続けているとは限らないかもしれない。「しれない」とあやふやなことを書くのは、誰にも断定は出来ないからだ。この件で思い出すのは、昨夜アメリカの大西さんからのメールの締めくくりにあった「コマーシャルな音楽の世界は、貧困化していくばかりで、大きな流れというのは波があるのでしょうか」という言葉だ。ミケランジェロが出た後、イタリアの若い画家たちはもうやる仕事がなくなったように感じつつ、ミケランジェロを手本に、それとは違うマニエリスムの絵画を生む。それを思えば、20世紀後半の50年にあった音楽の焼き直しを際限なく再現している昨今の音楽は、200年ほど経った頃には、全く斬新なひとつの大きな潮流であったとみなされているかもしれない。それは誰にも予測出来ないが、そういう可能性を秘めているのは確かだ。ただし、可能性がほとんどゼロか、もう少しあるかはわからない。言いたいことは、昨今の音楽を50年前の焼き直しに過ぎないと無視しても、後々それが大きく評価されているかもしれないことで、そうなった時、無視した者には眼力がなかったとみなされるが、世代差による意志の隔絶からすれば、それは仕方のないことでもある。また、眼力があろうがなかろうが、当人が面白くないものだと無視したのであれば、それはそれでその人の自由であって、謗られることでもない。結局好きなものに思い入れをすればよく、200年後の評価など誰も知ったことではない。
そう言いながら、200年前に評価が高かったものが、今でも若い世代にそうみなされることが多いから、普遍的な価値というものはある。その普遍的なものを筆者は数十年かけて見て来たつもりだが、そういう筆者の基準に照らして、若い人の作品を見るしかない。そして、その思いからすれば、なかなか普遍的と思える作品には出会えない。となれば、同じ見る、あるいは作品の中で遊ぶとなると、自然と過去の作家のものがいいとなる。これは筆者が老化して来たからとも言えるが、案外そうでもなく、昨日書いたように、10代からジョットの絵画に憧れていたから、もともと古いものの方に親しみを感じるのだろう。それは通常は骨董趣味となって、古ければ何でもよいということになりかねないが、古いことに憧れるのではなく、古さに中にある普遍性に魅せられる。この普遍性は、作家がそうでありたいと思ってもそうなるとは限らない。天に任せる運があって、自分もまた自分を知る友人知人も全部この世からいなくなった頃にようやくその判断が下される。誰もそんな長い年月を待っていられないし、とにかく作家は表現する意欲にかき立てられて、作品を世に問う。そこには、若さゆえの迫力だけで勝負という作家も多いが、案外その正直さ、率直さによって、作品が純粋さを保つ場合がある。今回の展覧会の副題は、「アートの黄金郷」「31人の気鋭作家が切り拓く、現代日本のアートシーン」で、昔から続く団体公募展から出て来た作家はひとりもいないのではないだろうか。チラシには、「…いま日本は新鮮な発見と驚きをもって世界に迎えられています。人々の視線の先にあるのは、産業技術や食文化だけではなく、独自の美的世界から表現された日本の現代アート。…」といった文句があって、世界に打って出ようとする作家、あるいはすでに認められている作家ということなのかどうか、なかなか逞しい表現だ。これは、中国が伝統とは決別したような、全く新しい美術作家の登場を盛んに見て、作品が売れていることを意識しての売り出しにも思えるが、日本の場合は、特にアニメによって世界から人気を得ていて、アニメに接近した作品が人気を得る近道であることは、村上隆の例からもわかるが、今回は村上の作品は含まれない。チラシと同時にもらえた出品作品リストと作家略歴を見ると、31人は大半が1970年生まれで、60年代は6人、50年代はひとり、80年代は7人となっている。大半は知らない作家だが、このブログのカテゴリーで以前に取り上げた山本太郎や束芋が含まれる。ということは、31人はみな個人として、大きな会場で展覧会を開いてもらえるだけの実力の持ち主ということだろう。山本太郎と束芋の作品は、今回大勢の作家の中に混じって、あまり目立たなかった。迫力に欠けると言おうか。それはもっと巨大な面積の作品があったからで、こうして書いていて思い出すのは、そうした作品だが、思い出しながら、いいものを見て来たという印象がさっぱりない。たとえばチラシの表に印刷された石原七海の「海人 Lucky Dragon No.5」は縦190センチ、横4メートル近い作品だが、間近で見ると粗さが目について仕方がなかった。若冲など、引用に満ちた、そしてマンガ世代特有の構成と表現で、迫力は申し分ない。だが、何を表現したいのか、それが伝わって来ない。何でも並べて派手に描けばいいというものではない。絵ははるかにそれ以上のものだ。
今回の展覧会は、巨大地震で疲弊した日本を元気づけようという考えに立ったものであることが会場の説明パネルにあった。そのため、どちらかと言えば、暗い雰囲気の作品より、若いエネルギーいっぱいのものが求められたのではないだろうか。それは大画面の迫力と言い換えていいが、健康的であっけらかんとした作品ばかりとはとうてい言えず、暗い内容のものが多かった。たとえば、作家の名は忘れたが、4枚か6枚の襖に墨一色で描いた作品があった。伝統的な水墨画とは全く違って、精密なマンガと呼ぶべきもので、襖の把手付近、つまり画面中央に巨大な頭蓋骨を真正面から描いていた。今は女性や子どものファッションでもドクロが人気で、さまざまな持ち物に見られるから、襖絵にそれを描いても、ぎょっとさせられる若者は少なく、「あ、かわいい!」と思ったりするのだろう。今は悪趣味を歓迎する時代であるから、作家は髑髏に深い意味を込めず、直感で取り上げたのかもしれない。襖絵であるからこれがいけない、あれも駄目といった制約を一切取り払っているところに、現代日本の文化の特質があると言えばあるのだろう。それはまた、ただのベニヤ板に同じように描いても誰も感心せず、襖であるから意外と思われるという思惑もあるのではないか。アートは意外性がなくてはならないと考えられており、人を驚かせるものであれば何でもありだ。だが、それが黄金郷と言えるか。人の感情は複雑多岐で、あっと驚かせることのほかに、しみじみもあれば、ぱーっと心が晴れやかになるものもある。だが、そういうものは最初の激しい一撃の前にあっては霞んでしまう。忙しい現代は、誰も10秒以上作品を鑑賞しない。ぱっと見てすぐに反応し、次に移る。そのため、脅しのような迫力をまず見せようと作家は考えがちだ。会場で最も大きな作品は、三瀬夏之介の「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」で、縦270センチほど、横は15メートル近い。和紙に墨と胡粉、アクリル絵具にインクジェットプリントのコラージュという技法で、こうした混合技法は若い作家の大きな特徴になっている。技法が混合であるだけに、作品もかなりごちゃごちゃとして、全体の迫力を感じ取ればいいというものだ。地震の被災地か、爆撃を受けた場所を描いたように見えるが、オットー・ディックスの戦場を描いた作品ほどには凄みはない。立体の作家で面白かったのは上田順平だ。陶磁器で人形を作る作家で、工芸家として身につけた伝統的な技法を、アニメ世代が喜ぶようなマンガ的な新たなキャラクターの表現に用いている。チラシには「キンタウロス」と題する作品が写っている。これは金太郎とケンタウルスを合成した形で、その表面に色絵や金襴手で独自のマンガ的文様を施している。20年ほど前に、ロッテのチョコ菓子に、ビックリマン・チョコがはやった。その中に1枚封入されていたシールは、まさにこのキンタウルスそのもので、あらゆる物をほとんど無作為に合成して、新たな呼び名をつけたうえでマンガ的に描いていた。つまり、キンタウルスと同じアイデアは、もっと大規模に昔の子どもたちに歓迎されていた。上田は1978年生まれであるから、そのシールをよく知っていた世代だ。こういう傾向の作品は今後増えるだろう。茶碗や花器ばかり焼いていたのでは食いはぐれる恐れがあるし、また何か現代的なものを表現している気分になれないのだろう。それは筆者にもよくわかる。
最も実力があって、面白いと思ったのは、去年だったか、大山崎山荘で展覧会が開かれた山口晃だ。この作家もマンがを思わせる表現だが、技術はそうとうなもので、製図のような細密さで人物を大勢並べ描くことに関心が強いようだ。ただし、文字はうまくはない。絵も字も上手という才能はなかなかない。他の作家同様、やはり遊び心が旺盛で、真面目である一方、ずっこけの要素を忘れない。また、1枚の作品を描くのに、多くの資料を駆使していることは明白で、間近で鑑賞しないことには味わいがわからないほどの、他の作家に比べるとかなり作品が小さいことも手伝って、作品の密度はきわめて高い。今回は3点出ていて、どれも面白かった。だが、キャンバスに油彩という技法もあってか、日本ならではの風俗を絵巻物風に横長に描くには、少々違和感がある。これが和紙に顔料で描けば、もっと面白いのではないだろうか。だが、その洋画材を使って日本の新旧混在の風俗を描くところに、現代性があると見るべきか。「千躰佛造立乃圖」は、三十三間堂の千体の千手観音像を造る工房の内部の様子を再現的に描いたものだが、絵巻風の横長画面に各工程が、木材の面取りから、小さな千手の製作まで、右から左へと順を追って描かれ、しかもそれが現代の家内工業の仕事場に置き換えられている。また、画面の隅には休憩所も描かれて、その内部の職人たちのくつろぎが面白い。見て知識が増えることのほかに、マンガ的面白さもあるという点で、山本太郎に似て、アニメで世界的に有名な現在の日本にふさわしい作家ということになるが、海外で人気を得るより、日本の知識人に理解されると思える。とはいえ、山口のそうした新旧日本が混ざった様子を絵によって再確認させられるのは、あまり心地よいことではない。それはTVなどでは盛んに実感出来ることであり、せめてもっと香りが高くあってほしい美術においては、古くて懐かしいままの日本を見たいというのが人情だ。それはすでに物故して久しい画家の作品に求めるしかなく、骨董趣味にはまりかねないことになる。人間は確かに現在に生きているが、一方では過去にも思いを馳せている。この紛れない事実がある限り、新しいもの見ながら、そこに過去の影を嗅ぎ取ろうとするし、それがあまりに少ない場合、落ち着かなくなるか、否定したくなる。そのことによって、時代遅れの人間と烙印を押されようとも、個人が楽しければそれでよく、何を好きになろうが勝手と思うだろう。それに、最新とされる作家の作品が面白くないのであれば、自分で表現する道もある。若い作家だけが現在を体現しているのではないし、また、若い作家の作品が老人にそう思わせるのであれば、それはそれでけっこうなことだ。その意味において、若さのエネルギーは役に立っている。これを書くすぐ背後に、今日は朝から掛軸を一幅吊るした。その部分図の写真を最後に載せておく。この絵は現在のアニメ文化とは無関係のところで描かれたが、今の若者ならば、マンガに似ると思うかもしれない。確かにその部分はあるが、マンガの言葉を越えて、一種異様とも言える迫力がある。大画面でなくても、またことさら現代的な奇をてらったような画題でなくても、絵はそれを持ち得る。