推敲すればするほど、いい文章に仕上がるのは、長文でも俳句でも同様だ。ザッパが自作曲を徹底して推敲したのはLP時代からだが、そのあたりまえと思っていた制約が、CD時代になるとやや変わる。
この点をザッパの創作に関連づけて論じる立場を確保しておく必要がまずある。CDは、元来多作でしかも長めの曲を書いたザッパには最適な媒体であったと言えるが、その一方でLP時代の制約に長年慣れていたこともあって、戸惑いのようなものもあったと思える。さらには、最晩年の癌による体力の衰えとそのことによる焦りから、従来の推敲行為が同じように効果を上げたかどうかの疑問がある。こうしたさまざまな条件下に、シンクラヴィア曲が書かれた。今回のCDの解説でトッド・イーヴガは、「refined」と「streamlined」という言葉をあえて使い、本作に収録曲の位置づけを行なっている。このふたつの言葉は、難しいように見えるが、「refined」は「fine」が基本にあって、磨きをかけ直すという意味であり、「streamlined」は「stream」と「line」で、流れるような形、つまり流線型に関係した言葉であることはわかる。このふたつの言葉をどう訳せばいいのか迷うが、前者はひとまず「推敲」にして話を進める。後者は「最新の形」だ。つまり、アルバムに収録するに当たって、ザッパはこのふたつの言葉で表現出来る作業を常に旨としたという見方だ。そしてそこには、昨日書いたように、アルバム収録曲をザッパの楽曲の完成形と見る思いが反映している。推敲を重ねた結果、最新の形と認めてアルバムに収録する。その意味に立ち、一方で今回の新譜は、ザッパが生前LPとしてテープの編集を終えていたものであることを前提にすると、本作は「refined」かつ「streamlined」のヴァージョンということになる。だが、結局はザッパの生きている間には発売されなかったから、ザッパは「refined」で「streamlined」とはみなさなかったと、トッドは考える。そして、第2、3曲目は『文明、第3期』で半分ほどの時間に短縮されて初めて公にされたから、そのヴァージョンを「refined」で「streamlined」と規定するのだが、となれば、本作の第2、3曲目は饒舌な未完成ヴァージョンになる。筆者が異を唱えたいのは、最初に書いたように、さまざまな理由から、必ずしも最初に公式に発表されたヴァージョンのみが、ザッパが思う、「refined」で「streamlined」であったとは断言出来ないということだ。これは筆者の考えだが、推敲を重ねるにつれていいものが仕上がるが、時には行き過ぎて、味わいが乏しくなる場合がある。削り過ぎてしまうよりかは、何でもないようなつなぎの言葉をあちこちに散りばめることで、全体がより読みやすく、内容が他者に伝わりる場合がある。当然ザッパもそういうことをよく知っていたはずだ。ある楽曲をアルバムに収録する場合はなおさら、曲の順序、他の曲との調和などの問題から、完成した楽曲の細部をまたいじる必要が生じたりする。楽曲のつなぎに、ちょっとした音や会話を挟むと行為は、そうした思いによる。つまり、「refined」や「streamlined」は唯一的なものではなく、数種があって、しかも最新のヴァージョンより前のもの方が案外よいという場合もある。最初に発表したヴァージョンをあまり重視すべきでないことは、昨日書いたように、ザッパがLPのCD化の際に追加した音がよくあることからも言える。筆者の結論を言えば、トッドが充分吟味して用いた「refined」と「streamlined」という言葉の扱いに異議があるということだ。

さて、数年前に、今回の新譜のタイトル曲の音源が、カセット・テープ『Resolver+Brutality』の形でファンの手中に収まり、その音は一部のファンに広まった。筆者もファンからCD-Rにコピーして送ってもらったが、ネットでは元のカセットを所有している人の文章が出ている。このカセットは、最初はザッパと数年来の付き合いがあった女性がザッパ本人からもらったものらしい。そういうことをザッパは割合したようで、まだアルバム化していない音源を流出させることに抵抗はさほどなかったようだ。それは、気に入った自作を周囲の親しい者に聴かせたい思いの表われで、反応を知りたいという思惑もあったのではないか。そういう音源が海賊盤業者に広まる恐れはあるが、信頼している人に手わたすのであるから、海賊盤として大量に出回った時、そのテープを与えた最初の所有者を疑えばいい。そういう暗黙の了解を、テープを手わたされた人はザッパから強いられたであろうし、心配するほどには音源が広く出回ることにはならなかったのだろう。ところが、ザッパ没後長い年月が過ぎると、最初の所有者が、もっと熱心な人に譲った方がいいと考えても不思議ではない。おそらくそういう経緯で、第1曲目の音源が、数年前に熱心なファンの知るところになった。ただし、題名は全く違い、また聴き比べると、音も違う。カセットとCDの差といったレベルではなく、録音が違う。カセットの音は全部背景に小さく引っ込み、それとは別に新たなメロディ・ラインが別の楽器の音色で加わった。簡単に言えば、カセットは伴奏のみという雰囲気がするが、全体の音量は大差ないので、室内楽曲風であるのは同じだ。より「refined」されたが、演奏時間は同じなので、短縮の意味での「streamlined」はなされていない。また、「refined」を「推敲」と訳してしまえば誤解を与えない。言葉を削って全体を短くするのではなく、音色を変え、追加を行なって、より深みのある多彩さを表わしている。これは「推敲」であっても、言葉を全部吟味し直して、同じような言い回しを違うものに変えるなど、より凝ったものに仕上げたという意味でのそれだ。トッドの考えにしたがえば、ザッパは最初の曲を気に入らず、さらに年月を経て、もっと違った音にしたか、あるいは半分ほどに短縮したということになりそうだが、LPとして発売しなかったのは、あまりに渋い内容で、売り上げの観点からはLPでの発売はふさわしくないと思い直したためではないだろうか。それは『ジャズ・フロム・ヘル』と聴き比べるとわかる。ただし、今の筆者なら、同アルバムより、今回の新譜の方を何度も聴きたい。それほどに新しいザッパの世界がここには広がっている。

『Resolver+Brutality』には、本作には収録されないシンクラヴィア曲がいくつか収まっている。今後それらも新譜として発売されるだろうが、シンクラヴィア曲を作りながら、上書きせずに、バックアップを取り続けたようであるから、同じ曲でも多数のヴァージョンが存在するだろう。そのことは去年9月に出た『Congress Shall Make No Law . . . 』に収録された「ビットバーグのレーガン」からも予想出来る。そして、そういう異なったヴァージョンの大量の存在を、ゲイルがどのようにしてファンに届けるのか、届けないかだ。たとえばの話、『Resolver+Brutality』もそのままCD化しないとも限らない。そこをトッドが危惧して、ザッパの意志を汲むのであれば、「refined」と「streamlined」の考えによって、過渡期のヴァージョンはザッパが捨てたものとみなし、潔く公表しないに限ると思っているのかもしれない。だが、『Resolver+Brutality』に収録されるヴァージョンと、今回のより洗練されたヴァージョンを聴き比べることで、ザッパの創作の過程や思いを垣間見ることが出来る。完成作としての油彩画のみに価値があるのでなく、それを描くための素描や下絵もまた別の価値があるとするのが一般的な見方であるし、過渡期のヴァージョンも何らかの形で発表されることはいいと思う。だが、あまりにもそういうヴァージョンが多いと、ファンは財布が心配だ。それはともかく、今回の音は、秋の日溜りを見ながら聴くと心地よい。心を熱くし、感動の涙を誘うようなものとは違い、ザッパの脳内を巡っているような、深遠さがあると言ってもよい。ザッパの真価は、こういう音楽によって今後は定まって行くのではないだろうか。『文明、第3期』が日本でどれほど売れたのかは知らないが、従来のロック・アルバムとは比較にならない少なさであろう。それはザッパ・ファンでも同アルバムを熱心に聴かないようであることからも推察出来る。そうなると、今回のせっかくの発売も、あまり評判にならないかもしれない。いわばボーナス・トラックとして加えられた第4、5曲目は、アルバム・タイトル曲とは違って、ややアップ・テンポで、リズムがはっきりしていて聴きやすい。5曲目は「ブラック・ページ」の主旋律を長く引き伸ばしたようなところもあって、ザッパの曲であることはたちどころにわかる。その一方で、本作に含めても何ら違和感がなく、となれば、冒頭のアルバム・タイトル曲もいかにもザッパらしい世界を響かせていることになる。演奏時間は1時間をやや切る分量だが、20分の冒頭曲もすぐに終わる感じがあって、それだけ濃縮がされていて、ミニマル音楽のような単調さとは違うからではないだろうか。
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●2003年10月24日(金)その2
さて、なぜこんな突飛な話題に脱線したかと言えば、ヴァレーズの経済事情が念頭にあるからだ。ヴァレーズはこのLPを出していくら印税があったかを想像すると、おそらく雀の涙もいいところだったろう。総譜の用意を考えれば、ひょっとすれば大きな赤字を抱えたかもしれない。そんなヴァレーズがどうレコード会社とかけ合ったのかはわからないが、レコード会社もひょっとすれば珍しい新音楽なので当たるかと踏んだのかもしれない。ザッパも言っているように60年代まではまだそういう酔狂とも言える企業家がレコード業界にいたのだ。ヤクザでさえも会社を作ってビジネスをした方が儲かると悟ったのが60年代だが、会社経営もしだいに細かい管理が行き届くようになって、もはやヴァレーズのような音楽家にとってはレコードさえ出せる時代ではなくなって行った。そんなことをよくよくザッパは知っていて、60年代末期にはもっと儲かる方法を考えてそれを実現して行く。経済面だけはヴァレーズの二の舞いを踏むことはしたくはなかったからだ。ニューヨークのアパートに住み、子どもがいなくて奥さんのルイーズが翻訳でヴァレーズとの生計を立てることとは違って、ザッパはイタリア系らしく大家族主義の生活を進んだ。そのためには長として収入面をどうにうしなければならないという責任感が強かった。このLPは資金をもっと費やせばさらに入念にリハーサルを重ねることも出来たであろうし、『第2集』も出たかもしれないのに、結局それは実現しなかった。そんなことを思うとこのアルバムだけでもヴァレーズの監督下で世に出たのはつくづく幸運であった。1995年に101歳で死んだニコラス・スロニムスキーが若き日に指揮した『イオニゼーション』のSPが、ヴァレーズの最初の録音だが、それを除けばこのアルバムが生前のヴァレーズ初のまとまった作品集であった。その後1958年から69年にかけてピエール・ブーレーズは本作には収録されない「アンテグラル」や「オフランド」も録音し、アルバムを出しているが、それらの録音もまたザッパは聴いていたであろう。ザッパは81年4月にニューヨークにおけるヴァレーズのトリビュート・コンサートにゲスト出演したが、その時はヴァレーズの奥さんのルイーズは91歳の高齢であった。計算するとスロニムスキーより4つ年上で、夫ヴァレーズより7つ年下だ。ザッパは1981年12月にスロニムスキーをステージに迎えてキーボードを演奏させ、その半年後にはすでにザッパはブーレーズから依頼を受けた曲を書き上げているから、80年代になってにわかにヴァレーズつながりからブーレーズと出会い、管弦楽曲関連の仕事が増えた。スロニムスキーとザッパの関係は、旋法とメロディ・パターンなどまだまだこれから研究されるべき分野を多く宿しているが、たくさんの著作があるにもかかわらず日本では1冊もそれらが出版されておらず、仮にスロニムスキーとザッパの関係を研究しても誰も喜ばない。それから推せば、ザッパの作曲家としての出発の大きな柱となったこのLPやヴァレーズについて書いたとしても同じようにほとんど誰も興味を抱かないだろう。消費とは何かと思う。一時期に人気を得るということは単なる消費であって、それが終わればもう振り返られることはないのがだいたいの相場だ。ネット・オークションでマニアらしき人物が盛んにザッパのアルバムや資料を売っているのを見るにつけ、ザッパもすでに消費され尽くしたかと思うこの頃だが、もしザッパを消費し尽くさないとすれば、それは絶えず新たな解釈を提示し続けることにしかないと思える。その一例がたとえば12月に出るアンサンブル・モデルンの『グレッガリー・ペッカリー』であり、あるいはこうした古いアルバムの再吟味を通じた新たなザッパ感の創出にほかならない。何もしなくても死神は笑いながらいずれやって来るし、いつの時代でも物事の構築家が死ぬことを拒否するつもりであれば、せめて何事かを工夫して必死にやるしかない。埼玉UさんやFさんの手間を取らせたこの私家限定版の紙ジャケCDを、ザッパの紙ジャケ・シリーズの並びの冒頭に置きたい。そしてその列の最新の最後は『グレッガリー・ペッカリー』で、その両端のヴァレーズとザッパの間には半世紀の時間の隔たりがあることを目で確認し、この半世紀間にザッパの音楽家としての全活動があったことをもう一度実感してみたい。書き忘れていたが、この紙ジャケ化に際して、背の部分をどうすればいいかとFさんから連絡があった。LPでは珍しくも背に文字は一切ない。それではザッパの紙ジャケと一緒に並べた時に様にならないので、あえて文字を入れた。それゆえFさんの言うところによれば、背の部分を作るのが最も難しかったそうだ。さて、ザッパ没後10年を迎える前のハロウィーンに間に合うように大急ぎでこれを書き上げ、Fさんにすぐに印刷してもらおう。近所の女の子のいる家の玄関前では今夜も大きなジャック・オー・ランターンが不気味に笑い、BGMは相変わらずウテ・レンパーを流している。「ラウンド・ミッドナイト」が入っているCDには「枯れ葉」や「パダム・パダム」のシャンソンもあって、それらが特によい。それに今の10月下旬によく似合う。そう言えば冨田溪仙の『高野丹生明神』の掛軸は杉と紅葉の樹木が社殿を囲んでいた。秋の美しさがわかる年令になったということか。忙しい仕事が全部片づけばその神社に行ってみようと思う。それはそうとザッパに会いに行く前に買った黄色のジャケットのボタンの予備の1個が確かどこかにあったはずだと思い、あちこち探し回るとやはり出て来た。これで元通りになり、ザッパと会った時の思い出はこれからも縁が切れずに持続する気がする。