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●『写真家 井上青龍回顧展』
井上青龍が1988年に事故で亡くなったことは当時の新聞に記事が載り、そのことを今でもよく記憶している。それでいて井上の写真がどのようなものであるかは知らなかった。



●『写真家 井上青龍回顧展』_d0053294_23494958.jpg井上は1976年から死ぬまで大阪芸術大学の先生であったが、筆者の妹の友人にはこの大学を出た者がいて、そんな関係もあって井上は通常の写真家以上には興味があった。大阪芸術大学と言えば、もうひとつ思い出すことがある。筆者のひとり息子が中学生の時、家内よりも自宅で仕事している筆者の方が学校の行事に出やすいこともあって、PTA関係の役目は筆者が負っていた。定期的に学校に父兄が集まると、男親のは筆者ひとりという状態で、世のおばさん連中の生態をじっくりと観察することが出来たが、それは石原慎太郎が発言したような悪い印象のものではなかった。みなそれなりに世の常識をわきまえていて、だらしがないのはむしろオヤジの方だと思えたほどだ。それはいいとして、10数人ほどのPTA役員とは年に何度も会うので、それなりに親しくなったが、その中のひとりが筆者に「ひょっとして大阪芸大の卒業生?」と訊く。筆者は芸大を出ていないし、また芸大に進んでいても大阪芸大は眼中になかったから、「いいえ」と答えた。それでなぜそんなことを訊ねるのか逆に質問すると、その奥さんは大阪芸大出で、舞台芸術科とやらを専攻したらしいが、筆者とそっくりな人物がかつて大学にいたというのであった。その奥さんは今は桂に住むが、そこから大阪芸大に通うことは出来ない。それで芸大のある大阪南部のどこかに4年間下宿したらしい。大阪芸大は大阪の阿倍野橋から出ている近鉄線とバスに乗り継いで行けるが、南河内郡の全く辺鄙なところにあり、魅力ある学校であっても、その立地場所だけでもまっぴらな気がする。半年ほど前のある日、阿倍野橋から近鉄線に乗って富田林方面に出かけたが、芸大のある駅で学生がどっと降りて行った。その時、吊り革にぶら下がる筆者の目の前の座席にいた学生が携帯電話をシートに置き忘れてホームに出た。すぐに筆者が気がついてその学生に間一髪のところで手わたした。だが、その学生はありがとうの一言も言わなかった。でぷっとして冴えのかけらもないような顔をした男だったが、この1件で筆者の脳裏における大阪芸大の質がまた落ちた。芸大なんて高い学費を支払って何をしに行くのだろう。4年間の学費を出して学校に通っただけで芸術が身につくのであればこんなに便利で簡単なことはない。その後の40年を芸大卒の芸術家として自慢して生きて行けるのであれば、学費なんて安いもんだ。井上は芸大を出ていないのに芸大の教授として死んだが、この事実を芸大を目指す人はよく見つめた方がよい。
 大阪生まれの大阪育ちであるので、あまり大阪の悪口は言いたくはないが、大阪芸大があまりにも大阪市内とは何の関係もない田舎にあるために、名前に大阪がついてはいても大阪の学校という気がしない。筆者と同世代の、誰しも知る大阪芸大出身の有名芸能人は何人かいるが、みな小粒でたいしたことはない。だいたい有名芸能人しか自慢するような卒業生がないないというのも情けない話で、芸能大学ではなくて、芸術大学と称するのであれば、有名芸術家を輩出することで世に知られる必要がある。そんな中で、この井上青龍は大阪芸大の名前を多少は有名にしているのではないだろうか。井上が56歳で亡くなって今年で17年になるが、その間、写真は相変わらずブームのように続いているし、若手の作家もどんどん登場している。写真家の活躍するエリアも拡大しているようにも見える。そのエリアとは美術と密接につながった分野の意味だが、そうした写真美術の教育というものが芸大でどのように行なわれているのか知らないが、シャッターを押せば写るカメラという道具さえあれば、しかもパソコンにつないでデジタル・プリントを専門とするならば、ますます従来のカメラにあった現像や焼きつけといった専門的技術がなくなって、誰でも1日で写真家になれる日が来ていると言える。実際そのとおりで、街中の画廊では素人カメラマンのグループ展が毎日どこかで開催されているほどだ。そのため、そういった写真はみなどれもあまりにも退屈で、観るのは時間の無駄に思える。誰でも写真家になれるのに、その中に名前を残すプロがいる。井上青龍もそのひとりだ。では、素人の写真とどこが違うというのだろう。
 井上は1931年に高知県の土佐市に生まれ、高校を卒業後、父親の俳句仲間であった岩宮武二を紹介してもらって、その助手を勤めながら昭和30年代の大阪の釜ヶ崎にひとりで住み込んで、その地区の人々を撮影した。これが結局代表作になった。筆者よりちょうど20歳年上で、そう計算すると井上の姿がイメージしやすい。今回の展示は撮影年代がわからない写真がたくさんあったが、だいたい筆者が小学生の頃の大阪の風景であるので、感じはよくつかめる。岩宮武二は井上より9歳年長だったと思うが、井上とは違って芸術写真志向が強く、後年は読売新聞でずっと連載があって、写真集を手に取って見たことはないが、その写真は新聞などではよく接することがあった。写真を造形物として捉えるような立場が感じられ、井上の写真とは全く正反対と言ってよい。井上は写真を小手先で作るきれいな細工物としては考えず、まず行動して瞬間毎に感じるものがあればどんどん撮って行くというところがあった。これは今回の展覧会を観てそう思った。つまり、音楽で言えば、即興なのだ。ジャズと言ってもよい。岩宮はこつこつ音譜を並べる作曲家だ。即興がいつもいい収穫をもたらすとは限らないが、稀に天啓としか言いようのない作品を生む。そしてジャズでも音譜をこつこつ並べる作曲家でも、片手間に趣味でやる程度ではしょせんその程度なのだ。ジャズならばましてや全人生の時間を賭ける意気込みがいる。そのため、誰もがそれをすることは出来ず、それを行なっている者の中からのみ、世に伝えるべき作品を残す者が出て来る。誰でも写真家にはなれるが、誰にでもなれるものではないのだ。芸大を卒業しました。どのように生活して行けばよいかわからないので、取りあえず学校の先生になりました。しかし、自称芸術家です。そんな呑気なことを言って自分を騙しておれる人は井上の写真は理解出来ないだろう。
 釜ヶ崎は今ではあいりん地区と呼ばれているが、同じ大阪市内に生まれた筆者でも実はまだ釜ヶ崎の中心部を歩いたことはない。これは決して差別的に言うのではないが、大阪市内にあってもそこは別の世界であり、用がないのにぶらりと歩くことを何となくはばかるところだ。日雇い労働者が多く住むのは今でも同じはずだが、高度成長を最下層で支えた肉体労働者たちの供給地ともなったところで、井上の写真にはそうした労働者の、職にありつこうとする姿も当然ある。これはかなり穿った見方かもしれないが、地元の高校を出てもあまりろくな職がなかったかもしれない井上は、岩宮を頼って大阪に出た後、地方労働者や差別される人々の姿を釜ヶ崎や猪飼野などに見て、どこかで共感しつつ、それでいて自分がそうした人々とは違って、やがて芸大の先生に治まる身分であることを眺めながら、内面が両極端に引き裂かれるような思いになりはしなかっただろうか。岩宮のミニ・コピーのような写真家に井上がなろうと思えばそれはごく簡単なことだったろう。そうはならず、むしろ最後の最後まで、路上の写真家、行動の写真家であり続け、完成といったことを考えずに突き進んだことは、写真界にとっては収穫だった。だが、行動の写真家などと言ってしまうとまた誤解を招くかもしれない。写真家はみな行動家であるからだ。それに極端な行動をするほどによいという基準を設けてしまうとおかしなことにもなる。沢田教一のようにヴェトナム戦線に赴いて命を賭けて写真を撮るという極端さに比べると、井上の釜ヶ崎に執着しての写真は霞まざるを得ないことになるし、そうなれば岩宮の写真はさらに意味のないものになるからだ。人はそれぞれに目指すところが異なっていてよい。だが、誰でも写真家を自称することの出来る時代にあって、結局大事なのは、人生の時間のどれだけを撮影行為とそれにまつわることに費やしたかであって、それによって作品に宿る真実味の濃度が違って来る。それは乙にすました芸術写真よりも、その時と場所がそのまま剥ぎ取られたドキュメンタリー写真により滲み出やすい。誰もが写真家にはなれるが、ドキュメンタリー写真家であり続けることは難しい。
 今回の回顧展は井上が後年に住んだ地元尼崎で開催された。尼崎は先頃、JRがとんでもない事故を起こしたが、その駅よりずっと南方の阪神の尼崎駅からほど近い市の総合文化センターが会場になった。この会場は25年前ほどは毎年秋に江戸期の京都画壇の企画展があって欠かさす観たものだが、最後に訪れてもう20年ほどになる。駅の北側に出て、東北へ徒歩10分ほどのところに焦茶色のビルが見えていたが、この20年ですっかり駅前が変わってしまい、あたりに巨大マンションが林立し、それらのマンションを結ぶ地上3階建てほどの高さのタイル貼りの幅広い回廊が出来上がっていた。その回廊は駅を出てすぐにあるエスカレーターを昇ってスタートし、どうやら終点は総合文化センター真横あたりであった。どぶ川はその回廊の下に隠されるようになっていたが、どぶはどぶであり、尼崎は尼崎であるということだ。井上が釜ヶ崎に通って写真をよく撮り、大阪芸大の先生になったというのは、同じ大阪南部ということで交通には便利であったはずで、そうしたことは大阪をよく知る者にとっては面白いが、尼崎に住めばもう釜ヶ崎は少し通うのは不便だ。だが、尼崎も海に近い阪神沿線あたりになると、下町であるので、そうした空気を好んだ井上はやはり最後まで同じ情緒、人情といったものを追い求め続けたことがうかがえる。展覧会を観た後、殺風景な回廊を歩む途中、植え込み際のベンチに座って周囲のマンション群をじっくり眺めてみた。それはどう見ても昭和30年代の釜ヶ崎、いや大阪ですらない。そして、あまりにも様変わりしてしまった現在の尼崎を見て井上はどう思うことだろうと想像してみた。摩天楼のようにそびえるマンションの小さな窓の中すべてに人が住んでいて、それなりのドラマがあるだろうが、大阪芸大あたりの田舎もいやだが、こんな駅前の殺伐としたマンションに住むのも絶対にいやだと思った。おそらく井上もそうだろう。だが、井上がもし生きて今の尼崎を撮影したとしても、風刺にはならなかったろう。井上の写真に風刺はないからだ。また貧しい人々や差別される人々への甘ったるい共感や同情というものもない。かといって冷徹な眼差しではない。人間みな同じ、どう生きてもちょぼちょぼ、どんな人の生もみなそれなりにいとおしい、といったような思いだろうか。釜ヶ崎以外にもテーマは多く、京都に取材したもの、道祖神のシリーズ、関西在住の画家や書家、小説家などの著名人、さらにはコントラストを極端に強調して焼きつけたいわゆる芸術志向の写真などもあって、手がけた範囲はひとりの写真家としては充分過ぎるほどだ。釜ヶ崎を初め、大阪各地の街角で撮影された写真はもう今はどこもみなそのとおりには存在しないと言ってよいが、たった3、40年で大阪が皮を1枚脱いでしまい、以前の皮の模様がどうようなものであったかを知るためには、たとえば井上が残したような写真に頼るしかなくなっていることにみんなすでに愕然としているのではないだろうか。会場に若いアヴェックがいて、井上の写真を評して「切ないね」と言っていた。貧しい大阪を見るからであろうが、果たして今の豊かになったかのような大阪が切なくないのかどうか怪しいものだ。今の井上のような若い写真家はきっといると思うが、大阪芸大は井上という先生を雇って大いなる遺産を手に入れたと言える。その大阪がたとえば釜ヶ崎という人にさげすまれる対象で長く記憶されるものだとしても、それでもいいではないか。大阪中が阪神尼崎駅前のマンション地区になってしまえば、それこそもっと不気味な姿だ。
by uuuzen | 2005-08-04 23:51 | ●展覧会SOON評SO ON
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