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●『大和の尼寺 門跡寺院の美と文化展』
の話つながりで、この展覧会について書いておく。先日の『飢餓海峡』では、娼婦の杉戸が大金をくれた犬飼の足の爪を鋏で切ってやる場面がある。



●『大和の尼寺 門跡寺院の美と文化展』_d0053294_217119.jpg昔はそのように鋏で切るのがあたりまえで、筆者も小学生の頃までは大きな鋏で自分で切っていた。それ専用ではなく、布切り鋏だ。子どもであるから、手足の爪先は汗や泥でだいたい黒くなっていて、爪を切ると、今のように白っぽくなく、全体に黒かった。それだけ不潔であったのだが、鋏をいくつも揃えることはなく、その大きな鋏ひとつで何でも切っていた。筆者が器用になったのは、そのように専用の道具にあまり恵まれていなかったかもしれない。爪切り道具に慣れてしまった今なら、そんな鋏で自分の爪を切ることは危なくて出来ない。大きな鋏で小さな爪を切るのは、長い箸で米粒をつかむようなもので、何となく豪快な感じがした。それによく切れた。そういうことをよく覚えているので、杉戸が犬飼の爪を鋏で切ってやる場面は違和感がなかった。母が子の爪を切るようなものだ。杉戸が犬飼と抱き合う場面は、今なら観客はそのままずばり濃厚なキス・シーンから始めてすぐに体を絡めることを期待し、また監督もそれを思ってそうさせるだろうが、内田吐夢監督は、布団の中にふたりを潜り込ませ、そのままその塊がごろごろとゆっくり転がる場面にした。観客はその布団の中のふたりの行ないを想像するのだが、筆者が思ったのは、演技とはいえ、それは実際にキスをして体を絡ませるより難しいのではないかということだ。ふたりの俳優は、布団のために、監督を含め、誰にも正確には体の絡まり具合を見せないが、それが演技でありながら迫真的であるためには、見えていないことを自覚しながら、演技として見せているという醒めた思いがなければならない。それを三国連太郎と左幸子は見事に演じていた。いや、実際その時のふたりは役柄になり切って、布団の中でお互いあちこち触りまくっていたかもしれないが、その場面は小説にはどう描かれているのだろう。ともかく内田の色っぽさを撮る才能があってこそで、小説とは別の、そしてそれ以上の効果を上げていたのではないか。話を戻して、杉戸が切ってやった爪は部屋のあちこちに飛び散り、そして犬飼は金をわたした後、逃げるように宿を出る。大金をもらったことで杉戸が犬飼に惚れたと見ると、杉戸が下品な女のようでかわいそうで、実際は山林を走るトロッコの中で最初に出会い、そこで杉戸は犬飼に一目惚れした。貧しい田舎の温泉町の娼婦であるから、確かに金をもらったことが直接の憧れになったろうが、それを浅ましいとは責められない。それほど杉戸は貧しかった。そして、自分をそういう境遇から這い出させてくれたのが犬飼で、その犬飼が残した爪をその後肌身離さず持つというのは、女心として胸に迫る。今なら彼氏にルビーの指輪かブランドの時計を買ってもらうのが相場だが、爪は商品よりはるかに肉感的で、それを大切に持つことは、何だか恐さを感じさせる。そういう女性は今ならいじめに真っ先に会う暗さが全身から発散しているだろう。だが、純愛、一筋に誰かを愛するということは、深くて濃い暗さがなくてはならない。
 誰かを思い続けるとして、その際に何か物があった方がいいだろうか。筆者は昔叔父からもらった時計を長年愛用し続け、その調子がおかしくなるたびに時計屋に持参して分解掃除や修理をしてもらった。その金額で簡単に別の時計が買えた。だが、部品がもうないので、同じ会社の中古の時計を天神さんなどで手に入れ、それから転用するしかないと言われ、またその修理名人の時計屋が廃業したこともあって、修理を断念した。そして今は同じように外国のもので、30年前に家内がハワイで買って来たものを使っているが、叔父の時計ばかりをはめていたので、それを使うようになってからまだ10年も経っていない。にもかかわらず、もらった時から2年ごとに電池だけは変え続け、そのたびに先とは別の時計屋はきょとんとした。全く使用感のない古い製品であったからだが、叔父からもらったのとは違って、とても薄く、今は気に入っているので、別のものをほしいと思わない。35年ほど前で10万ほどしたらしいが、たまにネットで同じものがないかと探すが、見かけたことはない。それはさておき、叔父の形見のようになったその時計を使わなくなって、叔父のことを忘れたかと言えばそうではないから、筆者は物も関連づけて人を記憶しないのかもしれない。物は大切にする方だが、ペットと同様、寿命があるし、若い時から死ぬまで大切にするほどの物はほとんどない。そこで、誰しも最も大切にするものは何かとなると、遺骨かと思い至る。だが、それは死を示すものであるから、杉戸が大切にした爪とは意味が大きく違う。爪は不潔なものという思いが誰にでもあるので、切ればさっさと捨ててしまうが、それがとても大切な人のものである場合、どうにか残しておきたいと考えるだろう。髪の毛も同じで、ナポレオンの毛髪がオークションで高額に落札されたことがあったと記憶する。そう思えば、爪や髪はどんどん伸びて来るものとはいえ、人間の一部であるところ、その人を思い出すよすがとしては最たるものと言えそうだ。さて、前置きが長くなったが、先日の25日の日曜日にこの展覧会を難波の高島屋に家内と一緒に見に行った。もうひとつ見た展覧会についても後日書く予定でいる。この展覧会は全くのついでで、期待はしていなかった。その予想どおり、あまり見るべきものはなかったが、その見るべきもののない質素さが、いかにも尼寺らしくてよかった。昨日書いたが、滋賀の各地の寺から集められた仏像などは、国宝としてよく知られたものが混じっていない点で、美女揃いとは言えない。だが、美女ではない平凡な女の方に本当はよさがある場合が多い。実用品と言えば女性から叱られるが、飾っておきたいほどの絶世の美女が妻では、おちおちと生活出来ない。それはともかく、拝みの対象になる仏像であれば、美や醜を超えた何かを見つめるべきで、国宝だけが価値があると思うのはおかしい。
 あれあれ、さっぱり展覧会の話にならない。爪に戻ろう。題名どおり、奈良に古くからある三つの門跡寺院、円照寺、中宮寺、法華寺が所蔵する品物を展示するもので、どういう経緯でこうした展覧会が百貨店で催されるのかは知らないが、これを機に寺を拝観してほしいということなのか。筆者は中宮寺には行ったことがあるが、それより奈良市内の中心部に近い円照寺と法華寺には訪れていない。後者は春日大社の南方の山中にあって、しかも拝観出来ないから、こうした展覧会で紹介されても経済的には益するところはないが、それが第一の目的で作品を貸し出したのではないだろう。存在を広く知ってもらうことはよいということが理由と思う。法華寺は年賀切手の図案にもなったお守り犬で有名で、筆者はこのお守り犬を昔からほしいと思いながら、まだ入手していない。これは護摩木を燃やした灰を土に混ぜて手びねりで作るもので、彩色も尼さんが行なう。大小あるが、小さなものは爪先ほどだ。伏見人形のように量産出来ないものであるから、入手は難しいのだろう。郷土玩具と呼んでは不敬であり、筆者などは持つべきではない。法華寺はJR奈良駅から北東に2キロほどの距離に位置し、その気になれば明日でも行くことが出来る。まだ行ったことがないのは、奈良が京都のように見るべきところが集まっておらず、交通が不便であるからだ。それに筆者は寺にさほど関心はない。それはいいとして、ようやくここから本論だが、円照寺の出品物に「爪名号」というのがあった。初めて聞く、また目にする。高さ20センチほどか、焦茶色に変色した木の表面に螺鈿細工を施してある。それは縦に3行あって、向かって左から順に、普賢菩薩、釈迦牟尼如来、文殊菩薩であったと記憶するが、文字は全部爪を用いて貼りつけてある。ところどころ剥がれているが、爪の曲がりをうまく利用して漢字の跳ねを表現し、素朴ながらていねいな作りだ。この爪は後水尾法皇のもので、それを円照寺の当時の住持の尼さんがもらい受けて作った。太い爪もあって、『飢餓海峡』の犬飼の爪を思い出したが、法皇の両手両足の一度切っただけの爪だけでは足りず、何度か切ったものを蓄えたのだろう。当然黒い垢などなく、乳白色であった。門跡寺院は、天皇の家系の子女が代々守るもので、これは結婚出来なかった女性の行き場となって来た。天皇の家系であっても、女性が全員結婚相手としてふさわしい男が見つかるとは限らない。これは高貴な家柄ほど結婚が難しいことを示し、自由恋愛で結婚出来る一般人に生まれた方が女性はよほど幸福かもしれない。だが、尼寺もいろいろで、TVにたまに出るようなかなり胡散臭い尼さんはほとんど商売目的に見えるが、そういう尼さんでも門戸を叩いて相談に訪れる女性があるはずで、存在の意義はある。女性もさまざまであるから、当然尼寺も高貴な門跡寺院から、ほとんど知られないものまであろう。それはさておいて、後水尾法皇の着色された塑像も出品されていた。爪名号と同じ江戸時代のもので、その風貌は気さくな人柄が見えるような生々しさであった。その人の爪が実在するからには、その爪を遺伝子レベルで調べると、何か興味深いことがわかるのかなとも思ったが、それほどに爪は、人が作った像以上に、迫力がある。
 これも円照寺のものだが、禅の公安集の『無門関』に出て来る趙州に因んで、「無」の字を赤い布に刺繍した袱紗のようなものが2枚展示されていた。別に特筆すべきものでもないが、その糸を使って文字を表わすところは爪名号と同じで、しかも細い糸を一針ずつ縫うのは、尼さんの仕事にはふさわしい。女性が心を込めて刺繍をすることのは、女性らしくていい。そういうこつこつした行為を筆者は好む。このブログがそうで、毎晩こうして文字を思いの向くまま打ち込むのは、きれいな刺繍とは似ても似つかない、雑巾の雑然とした縫い糸のようなものだが、それでも量でだけでも迫力を込めたい。話を戻して、三つの尼寺の出品物は、第1章に各寺院の簡単な紹介、第2章「修行・祈りの世界」として、1「修行・祈りのすがた」、2「仏前の儀式」、3「本堂の荘厳」、第3章「御所文化の美」として、1「雅」、2「教養」、3「毎日の生活」と分けられていた。どの寺院も長い歴史を持つだけに、たくさんの物を所蔵するのだろうが、百貨店での展覧会ででもあるので、チラシの説明にあるように、「垣間見る」と言うにふさわしい。歴史の長さは、たとえば桃山時代の小袖を表具裂に使ったものがあったり、また江戸時代の能装束や小袖を打ち敷きに仕立て直したものがあるなどのことからわかるが、こうした布地は消耗品であるから、よほど貴重なもの以外は、消費されて来たのだろう。中宮寺では、花祭りに用いる金銅の誕生仏が、以前は飛鳥時代のものであったのに、盗難に会い、代わりのものを作って使用しているから、寺の最も大切にすべき古いものも伝わりにくいことがわかる。また、もちろん今回は有名過ぎる如意輪観音像は展示されなかったから、この機会に中宮寺を拝観してほしいということだろう。法隆寺に行くことがあれば、すぐ目の前であるので、ぜひ立ち寄るのがいい。今回は展示物がさほど多くないこともあってか、数十分の映像を見せるコーナーがあった。撮影はアメリカの女性で、日本のふたりの女性が助手を務めた。10分ほど見たが、画面は爪名号のように、三連になっていて、中央は中宮寺に咲く蓮や池の蛙などを大きく映し、左右の画面が少し小さくて、尼さんたちの修行や、誕生仏に甘茶をかける様子などを見せていた。また、これはその映像を見る前に感じたが、尼さんらがお経を合唱する時の声は、あまり心地よいものではなかった。声がうら若い女性のものではないことも手伝ったのか、ざらつきにようなものを感じさせた。その理由を展示を見ながら考えた。思ったことは、女に出家はあまり似合っていないということであった。もちろん筆者の勝手な思いだ。ハムレットは恋するオフィーリアに「尼寺に行け」と言ったが、尼寺で男とは交わらずに生きて行く姿が、筆者には想像しにくい。男なら女と交わらずにそういう世界に浸ることは、直感的に納得出来る。女には子を産んで育てるという重要な役割があるが、男はその意味ではほとんどの時間はなくてもいいものであって、寺を作ってそこに行くことは理にかなっているように思えるからだ。こう書きながら、一方で筆者は、今少しずつ再読しているアクセル・ムンテの『サン・ミケーレ物語』に、カトリックの尼僧がしばしば出て来ることを思い出している。そうした尼僧は時には看護婦として懸命に働き、伝染病であえなく死んで行く。ムンテはそういう尼僧に限りない敬愛を抱いた。日本の仏教の尼さんはそういう慈善活動をするのだろうか。昔は行き場のない貧しい女は身を売って杉戸八重のような娼婦になるしかなかったが、もっと昔でも同じだ。平清盛に愛された白拍子の祇王は、最後は尼さんになって嵯峨にひっそりと暮らす。男に嫌気が差した女の避難場所としても、尼寺はいつの時代も必要なのかもしれない。
by uuuzen | 2011-09-29 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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